最終話
あの検問所での大立ち回りから、一ヶ月が過ぎた。
王都から届いた『王宮週報』には、ユリアンとマリアンネの裁定が掲載されていた。
『ユリアン第二王子、王位継承権および王籍の剥奪が正式決定』
『無許可の部隊動員、身柄拘束命令の濫用および不当な決裁について有罪。極北の開墾作業所へ送致』
『男爵令嬢マリアンネ、虚偽告発と証拠捏造への関与が認定され、爵位を持つ者の待遇を失い、修道院の監督下で無期限の労役へ』
法務局は、夜会で読み上げられるはずだった罪状も調べたらしい。十四日の私の出席簿だけでなく、ほかの日付の公務記録まで突き合わせたところ、私が学院にいない時間の嫌がらせが次々と出てきた。
教科書を傷つけるようマリアンネに頼まれた侍女が証言し、二人の主張は崩れた。
私に関する告発はすべて撤回され、その訂正は卒業夜会の出席者にも送られた。紙を持つ指から力が抜けた。逃げたあとまで、あの嘘を背負わずに済む。
国境の混乱は財務省と総督府が協議して収めた。私も業務時間内に旧案の説明書を送ったが、処理したのは担当の官吏たちだ。王子一人を庇うのをやめたら、仕事はちゃんと回り始めた。
裁定の数日後。極北の開墾作業所。
「手が……手が痛い。もう握れん……」
ユリアンは鍬を取り落とし、赤く腫れた掌を見つめていた。潰れた豆に土が入り、指を曲げるだけで顔が歪む。
朝四時に鳴った鐘から、まだ太陽は山の端を越えていない。
「手当てを受けろ。そのあとは石を拾う班へ回れ」
作業主任は包帯を渡した。代わりに働いてくれる者は呼ばなかった。
「私を誰だと……」
言いかけて、ユリアンは口を閉じた。王子と名乗ることはもう禁じられている。名簿にはただ『ユリアン』としか書かれていない。
食事の列でも誰も席を譲らず、薄い豆の汁と黒パンが順番に手渡された。銀の匙も、好みを尋ねる給仕もいなかった。
「ドロテアなら、こんなものを私には出さなかった……」
隣の男が、パンを噛みながら一度だけ顔を向けた。
「じゃあ、その人に礼は言ったのか」
答えられなかった。
器へ顔を伏せると、涙が汁に落ちた。冷めた朝食を食べ終わらなければ、次の鐘までに持ち場へ戻れない。
夜も、硬い寝台で掌が痛んだ。目を閉じれば検問所のドロテアが浮かぶ。彼女は自分を見捨てて、あの男と帰っていった。
呼んでも、もう誰も来ない。
それでも眠る直前まで、ユリアンは毛布の中で彼女の名を呟いていた。
同じ朝、修道院の洗濯場では、マリアンネが水桶の前で泣いていた。
「指が割れてしまいましたの。お願い、今日だけ誰かに代わって……」
修道女長は赤くひび割れた手を見て、軟膏と乾いた布を置いた。
「手当てが済んだら、乾いたシーツを畳みなさい。濡れ仕事は今日は免除します」
「畳むのも私がするんですか?」
「貴女の分ですから」
甘く声を震わせても、誰も抱きしめてくれなかった。鏡も宝石もない部屋で、粗い頭巾をかぶり直す。爪の先に残った洗濯石鹸をこそげ落とし、以前なら濡れた手を拭く布まで侍女が差し出してくれたのに、と唇を噛んだ。
昨日届いた手紙には、頼ろうとした貴族からの一行しかなかった。
『今後のご連絡はお断りします』
返事を求めて送った三通すべてが、同じように戻ってきた。ユリアンにも、もう自分を救う金も地位もない。
マリアンネは手紙を丸めかけ、筆記用の紙すら自由には買えないことを思い出して、膝の上で伸ばした。
どれほど丁寧に皺を伸ばしても、断りの言葉は消えなかった。
そんな二人の暮らしが始まったことを、週報の短い記事で知った私は、最後まで読んで紙を畳んだ。
助けを求める手紙が来ても、開けなくていい。こちらには、こちらの暮らしがある。
「うん。実によく晴れた、いい日ね」
私は週報を膝から持ち上げ、木製のベンチの横に置いた。
ここはエーデル村にある、私の愛しきボロ屋の庭だ。
屋根はウルリヒの手によって完璧に修繕され、どんな土砂降りの夜でも雨漏り一つしない頑丈な要塞へと生まれ変わっていた。
庭の家庭菜園では、植えた芋の芽と、売店で買ったトマトの苗が葉を広げている。
初夏の、よく晴れた午後。
私は麦わら帽子を目深にかぶり、ベンチに深く背中を預けて、思いっきり大きな伸びをした。
「午前中の予算案の確認は終わったし、午後の来客対応もなし。……午後休を取るには最高の日だわ」
総督府の筆頭顧問としての仕事は、相変わらず順調だった。
有能な文官たちが私の指示通りにテキパキと動いてくれるおかげで、毎日の実働時間は二時間足らず。残業は一分たりとも発生しない。
文官たちからは「歩く定時退社の守護聖女」として神棚に祀られそうな勢いで崇められている。
瞼がとろりと重くなり、心地よい微睡みに沈みかけようとした、その時。
パカラン、パカラン。
聞き慣れた蹄の音が、街道の方からゆっくりと近づいてきた。
麦わら帽子の鍔を少し押し上げて見やると、黒馬に跨った大男が、我が家の生垣の前でひらりと飛び降りるところだった。
「ウルリヒさん」
「やはりここにいたか」
ウルリヒは手綱を柵に結びつけると、長い足で庭を横切ってきた。
その手には、湯気の立つ布包みが握られている。
「公邸の厨房で、焼き立てのミートパイを掠め取ってきた。……食うか?」
「掠め取ってきたって、あなた総督公邸の主でしょうが」
思わず吹き出すと、ウルリヒはバツが悪そうに視線を逸らした。
ベンチの隣にドスンと腰を下ろす。途端にベンチがミシッと悲鳴を上げたが、もう慣れっこだ。
包みを開けると、香ばしいバターとスパイスの効いた牛肉の香りがふわりと広がった。
半分に割って手渡されたパイを頬張る。
サクサクの生地の中から、ジューシーな肉汁がじゅわっと溢れ出してきた。
「んん〜! 美味しい! 料理長さんのパイ、日増しにレベルが上がってません?」
「俺が肉の味付けを手伝った」
「えっ、本当に? ウルリヒさん、本気で転職した方がいいんじゃないかしら。宮廷料理長になれますよ」
「断る。お前が食うところを見られないなら、厨房に籠もる甲斐がない」
息が詰まった。
さらりと、信じられないほど重い台詞を吐かれて、危うくパイを喉に詰まらせそうになった。
この大男、最初の頃は無口で不器用だったくせに、最近はこういう直球の言葉を平然と放り込んでくるから心臓に悪い。
私が麦わら帽子で顔を隠してゴホゴホと咳き込んでいると、ウルリヒがパイを食べ終え、やおら懐に手を入れた。
「ドロテア」
「な、何ですか? 今度はどんな激甘契約書を出してくるつもりですか?」
「契約更新……いや、違う。言い方を間違えた」
ウルリヒの手から差し出されたのは――羊皮紙ではなかった。
掌に収まるほどの、小さな濃紺のベルベットの小箱。
パチン、とウルリヒの親指が金具を押し上げると、中から現れたのは、繊細な銀の細工が施された指輪だった。
埋め込まれているのは、ウルリヒの瞳とまったく同じ、静かで深い光をたたえた灰色のサファイア。
私はパイを食べる手を止め、ぽかんと小箱を見つめた。
「あの……ウルリヒさん? これ、どう見ても雇用契約書には見えないんですけど」
「いや。雇用の話じゃない」
ウルリヒは真面目な顔で、だが耳の先端を林檎のように真っ赤に染めて言い切った。
「仕事がなくても、朝も夜も、お前と一緒にいたい。契約を更新するのとは、違う話だ」
「それって……」
「お前が望むなら、毎日昼寝をしてもいい。屋根が壊れたら俺が直す。美味い飯が食いたいなら、俺が作る。だが、そういう条件だけで選んでほしいわけじゃない」
言葉が途切れた。彼は一度口を結び、それから不器用に笑った。
「お前に、俺を好きになってほしい」
息を吸い、ウルリヒは私の瞳を真っ直ぐに射抜いた。
「俺の妻になってくれ、ドロテア」
風が吹き抜け、庭の緑を優しく揺らした。
かつて。
王宮で、跪きもせず、私の努力を搾取することしか考えていなかった男から渡された、窮屈で重苦しい婚約指輪。
それとは、何もかもが違っていた。
目の前にいるのは、私の不機嫌も、やさぐれた本性も、泥だらけの姿も、全部知った上で――それでも私を一人の人間として愛し、居場所を差し出してくれた男だ。
私は小さくため息をつき、麦わら帽子をベンチの上に置いた。
「ウルリヒさん」
「断っても、仕事も部屋も変わらん。返事は急がなくていい」
「断るわけないでしょう、この分からず屋。もう好きだって言ったじゃないですか」
さっきまでの真面目な顔が崩れた。こんな顔を見られるのは私だけかもしれないと思ったら、たまらなく嬉しかった。
「明日の朝も、来年も、一緒にご飯を食べたいです。あなたと」
私が笑って左手を差し出すと、ウルリヒが息を呑んだ。
その節くれだった大きな手が、わずかに震えながら指輪をつまみ上げ、私の薬指へと滑り込ませる。
指の根元に、すっと収まった。
驚くほどぴったりだった。少しの窮屈さも、緩さもない、完璧なサイズ。
「いつ測ったんですか?」
「先週、手袋を贈ると言った時に測った。指輪の寸法も覚えておいた」
「ああ! 手袋なのに一本ずつ測るから変だと思って……あの時から考えてたんですか!」
私が笑うと、ウルリヒの張り詰めていた表情が、ふっと溶けるように崩れた。
引き寄せられ、大きな腕の中にすっぽりと包み込まれる。
温かくて、微かに薪とハーブの香りがして、世界で一番落ち着く場所。
「あの日、ちゃんと出ていって良かったわ」
彼の胸元に額を預けながら、私は呟いた。
「でも、これからは私も作りますよ。ご飯」
「芋以外もか?」
「そこは期待しすぎないでください!」
「なら、芋でいい。一緒に食おう」
ウルリヒが私の髪に優しく唇を落とした。
顔を上げると、彼は唇を落とす手前で止まった。
待っているのだと分かって、私はその襟をつかんだ。
「そこまで来て、遠慮するんですか」
言い終える前に、唇が重なった。
思っていたより優しくて、離れたあとも、顔をまともに見られない。
私の名はドロテア。
元・悪役令嬢で、現・財務顧問。そして、この不器用な男の妻になる。
「あの、婚約したばかりで何ですけど」
「何だ」
「眠くなりました」
ウルリヒが喉の奥で笑い、私の麦わら帽子を拾った。肩に寄りかかると、帽子の鍔が眩しい光を遮ってくれる。
「寝ていろ。晩飯ができたら起こす」
「はい。末永く、よろしくお願いします!」
今度の約束には、私からも指を絡めた。




