第8話
「待ちなさい、ウルリヒさん! 剣の柄から手を離して、話を聞いて!」
私はパイを机に叩きつけ、長剣の柄に手をかけた大男の軍服の裾に両手でしがみついた。
体重四十数キロの私が全力でぶら下がっても、この大男はビクともしない。岩山を引きずっている気分である。
「離せ、ドロテア。検問所へ行くだけだ。だが、門を破るなら武力で止める」
「止めるにしても順番があるわ! 相手は無能でも第二王子よ!? 先に向こうの違反を記録しないと、あなたが悪者にされるでしょう!」
「国王に刃向かう気はない。だからこそ、殿下にはここで止まってもらう」
「なら、私にも止める手伝いをさせて! こんな罪名をつけられたまま黙っていられないわ!」
私の必死のツッコミに、ウルリヒはやれやれと眉を寄せ、剣の柄から手を離した。
ふう、と息をついて床に着地した私は、袖をまくり上げてキッと総督府の副官を睨みつけた。
「副官さん!」
「は、はいっ!?」
「総督府にいる文官を全員、大会議室に招集してください。あと、王国憲章、貴族院特権条令、それから王族による部隊動員と令状執行の判例集を机の上に並べて!」
「えっ……? しょ、書類で迎え撃つおつもりですか?」
「当たり前でしょう! 剣を抜く前に、向こうの命令が無効だと示します! あの馬鹿王子の越権行為を合法的に突いて、ぐうの音も出ない形で王都へ強制送還してやります!」
私の瞳に灯る漆黒の炎を見た副官は、青ざめながらも「ハ、ハッ!」と敬礼して部屋を飛び出して行った。
ふん、と私は鼻を鳴らす。
冗談じゃない。せっかく手に入れた「残業禁止・ふかふかベッド・三食絶品シチュー」の天国生活なのだ。
あんな無能のタダ働き奴隷に戻されてたまるか。邪魔する奴は王子だろうが何だろうが、徹底的に書類で圧殺してやる。
ウルリヒが、面白そうに目を細めて私を見下ろしていた。
「随分と好戦的だな」
「当然です。私の昼寝の時間を脅かす者は、神だろうが悪魔だろうが叩き潰します」
「頼もしい限りだ。好きに暴れるといい」
三十分後。総督府の大会議室。
円卓を囲むのは、ウルリヒ配下の文官長をはじめとする、総督領のエリート文官たち十数名。
彼らは最初、現れた私を見てあからさまに不満そうな顔をしていた。
「閣下、いくらなんでも……このような若い娘を筆頭顧問に据えるなど」
「関税にはお詳しいようですが、王子殿下の部隊を止めるとなると……」
小声で交わされる不信の言葉。
当然だ。ぽっと出の小娘が、いきなり上司として偉そうに仕切り始めたのだから。
だが、私には彼らの機嫌を取っている時間はない。
机の上にドサリと分厚い法務録を叩きつけた。
「文官長!」
「は、はい!?」
「ユリアン殿下が率いているのは近衛兵五十名ですね? 王宮近衛令第十二条によれば、『王族が公務外で近衛兵を十名以上動員する場合、貴族院議長および担当領主の事前承認書が必要』と定められています。あの書類、届いていますか?」
「え? い、いえ……そのような届出は一切……」
「はい、違反点一。次に国境関税の特例問題! 殿下が独断で免除した関税のせいで、総督領を通過する商業ギルドの流通が麻痺していますね? 地方自治法第四条に基づき、総督は『領内の安全を脅かす無許可の武装部隊の立ち入りを止め、王室監査へ報告する権限』を有します! 商工会の被害報告も添付してください。殿下が公務と呼んでいる行動の実態を示します!」
私は次々と法条文の該当箇所を指差し、数字を弾き出していく。
「さらに極めつけ! 私に対する反逆罪容疑ですが、正式な起訴状および令状の発行には王室法務局の印が必要です。殿下の執務室が混乱しているからといって、令状がないとは断定できません。検問所で提示を求め、法務局にも照会してください。提示できなければ――」
私はペンを机に置き、ニヤリと笑った。
「ユリアン殿下の要求に従う義務はありません。まだ検問所の外にいるうちに止めます。もし強行突破を試みたら、その行為を記録して拘束の根拠にできます」
文官長の口が、半分開いたまま止まった。
会議室が、静まり返った。
文官たちが全員、顎が外れそうなほど口を開けて固まっている。
「ど、どうした? 何か不備でもあったか?」
ウルリヒが腕を組んで尋ねると、文官長がガタガタと震えながら立ち上がった。
その目には、涙すら浮かんでいた。
「不備はありません。近衛令と自治法の両方に照らせば、王族の命令でも拒否できます。門を開ける必要はない!」
「公務だと言うなら、正式な書類を出していただくべきですな」
「判例の照合をします! 王都への照会は私が!」
さっきまでの不信感はどこへやら、文官たちが一斉に私に向かって深々と頭を下げ始めた。
そして文官長が、鬼気迫る形相でウルリヒへ詰め寄った。
「総督閣下!! 絶対に、何があってもこのドロテア様を手放してはなりませんぞ!!」
「言われずとも分かっている」
「いっそ総督夫人としてお迎えしては! そうすれば王都も簡単には――」
「おい文官長、どさくさに紛れて何を言ってるのよ!?」
私が抗議の声を上げるが、ウルリヒの声が先に落ちた。
「彼女の婚姻は、彼女が決める。保護と引き換えにするな」
文官長が口を閉じた。私は咳払いをして、書類へ視線を戻す。
今の言葉を、もう一度聞きたいと思ってしまった。仕事中なのに。
その時、見張りの兵士が会議室の扉を叩いた。
「報告! ユリアン殿下の部隊が、総督領第一検問所の前に到達いたしました! 『反逆者を引き渡せ』と門前で喚き散らしております!」
「よし」
私は立ち上がり、書類整理用の袖留めをキュッと結び直した。
「皆さん、準備はいいですね? ……世間知らずの王子様に、大人の社会のルールというものを、骨の髄まで教えて差し上げましょう」
扉へ向かうと、副官が封印つきの書状を抱えて駆け込んできた。
「王都の急使です。国王陛下と貴族院議長より、総督閣下へ」
ウルリヒが開封し、私にも読めるよう差し出した。
王子の決裁権停止。無許可の動員の中止。そして、抵抗した場合の身柄確保。
「これなら、殿下にも分かっていただけそうですね」
私は書類の束に、その命令書を一枚加えた。




