第7話
「殿下!! 一体どういうおつもりですかなッ!!」
王都・王宮の貴族院大会議室。
普段は冷静沈着な財務卿が、血管が浮き出た額を真っ赤にしてテーブルを叩き割らんばかりに怒鳴り散らしていた。
円卓の上には、真っ赤な数字で埋め尽くされた国家財政報告書が叩きつけられている。
その報告書を見下ろすユリアン第二王子は、椅子の上で借りてきた猫のように小さく丸まっていた。
「ひっ……な、何だ急に、無礼だぞ財務卿!」
「無礼なのはどちらですか! 西領の穀物関税を勝手に全額免除する書類に決裁印を押したでしょう! そのせいで、今期の国庫歳入に四千万ゴールドもの大穴が空きましたぞ! 治水と冬の備蓄に回す金が足りません!」
「だ、だが、マリアンネが『税金を安くすれば民は喜び、愛で満たされる』と申したのだ! インクで読めなくなった案より、そちらの方がよいと思ったのだ! 民のための減税が、なぜいかんのだ!」
「愛で関税が払えるか、この大馬鹿者がッ!!」
財務卿の怒号が部屋を揺るがした。
周囲の重鎮貴族たちも、冷え切った蔑みの視線をユリアンへと突き刺している。
「西領の関税収入は、隣国への協定負担金と冬の備蓄費に充てる予算だったのです! 減税するなら代わりの財源が要る! ドロテア嬢はその試算まで残していた! あの書類の裏に書かれていたドロテア嬢の引き継ぎメモを、貴様は読まなかったのですか!?」
「あ、あれは……マリアンネがインクを零して黒く塗りつぶしてしまって読めなく……」
「それで、原本の再提出も求めず独断で決裁したのかッ!?」
貴族たちから一斉に頭を抱える溜息と呻き声が漏れた。
外務卿が冷たい声で口を挟む。
「国境の関税所では、殿下の免税命令が現行の協定と食い違い、税率を確定できないせいで数十台の馬車が立ち往生しております。商工ギルドは王宮前での抗議デモを準備中。帝国側からも『協定違反ではないか』と抗議の書簡が届きました。……殿下、ドロテア嬢は今どちらに?」
「う……そ、それは……」
ユリアンの額から、ダラダラと冷汗が噴き出す。
「婚約を破棄して、追い出しました。公務にも、もう来ておりません」
「公務の補佐からまで外したのか!?」
会議室が怒号で爆発した。
「なぜあの至宝を追い出すのだ!」
「貴様、自分が優秀だと本気で思い込んでいたのか!?」
「まず財務省に決裁を戻せ! ドロテア嬢には礼を尽くして協力を頼め! 彼女に命じる権限など、もはや貴方にはない!」
四方八方から浴びせられる罵声に、ユリアンのプライドは粉々に砕け散った。
そして――愚か者特有の責任転嫁へと暴走を始めた。
(あいつだ! 全部、ドロテアのせいだ!)
ユリアンはガタガタと震えながら、拳を握りしめた。
あいつが、私が困ると分かっていて意図的に逃げ出したのだ。
私を陥れるための卑劣な罠に違いない。あの生意気な悪女め!
「わ、分かった! あいつが悪いのだ! 国家を意図的に混乱に陥れた罪で、私が直々に連れ戻してやる! そして二度と逃げ出せないよう、一生執務室に閉じ込めてタダ働きさせてやる!!」
血走った目でそう叫び、会議室を飛び出していくユリアン。
残された財務卿は、直ちに免税命令の撤回案を起こした。貴族院議長は国王への報告を命じ、王子の決裁権停止と無許可の出兵を防ぐ手配に取りかかった。
だがユリアンは、その日のうちに自分の護衛隊へ「緊急の公務だ」と命じ、王都を出てしまった。
それから三日後。
王国北東部、ラートブルク総督公邸。
「ふあぁ。天国かしら、ここは」
私は日当たりの良い南向きの豪華な客室で、大きな伸びをした。
昨日は実家から除籍の完了通知も届いた。王族の機嫌を損ねた娘を手放す手続きだけは、父も早かったらしい。総督府の名簿も、もうただのドロテアだ。
ベッドは最高級の白鳥の羽毛布団。沈み込むような柔らかさで、朝起きた時の腰の痛みも、少しずつ和らいでいる。
暖炉には薪がパチパチと心地よい音を立てて爆ぜ、部屋の隅には湯気の立つハーブバスまで用意されていた。
時刻は午後三時。
業務時間は午前九時から午後五時までだが、今日の仕事――ウルリヒから渡された総督領の治水予算書の見直しは、正午までに文官へ返していた。
昼食後は契約書通りに一時間のお昼寝を満喫し、今はバルコニーで優雅にお茶を飲んでいるところである。
コンコン。
「ドロテア、入っていいか」
「どうぞ!」
私の返事を待って部屋に入ってきたのは、漆黒の軍服に身を包んだウルリヒだった。
その手には、銀のトレイに乗った湯気の立つアップルパイがある。
「差し入れだ。厨房の料理長が、お前のために焼いたそうだ」
「わぁ! ありがとうございます! 料理長さん、本当に私の好みを分かってくださってるわ」
私はパイを頬張り、サクサクのパイ生地とシナモンの甘さに目を細めた。
ウルリヒは机の上に置かれた、朱入れをした予算書の控えに視線を落とした。
「もう終わったのか? 三週間かけてまとめた予算書だぞ」
「数字の辻褄が合わない箇所を二つ見つけて、河川改修の資材調達ルートを南の商工会に変更する案を書いておきました。見積もりを取り直してこの単価で調達できれば、資材費が二割浮きますよ」
ウルリヒが信じられないものを見る目で書類と私を交互に見つめ、額に手を当てた。
「南の商工会か。そこは考えなかった。輸送費も含めて、文官に確認させよう」
「前の職場が異常だっただけです。あそこでは毎朝、これの三倍の量をこなさないと朝食抜きでしたから」
私が乾いた笑いを漏らすと、ウルリヒの瞳に痛ましいような光が宿った。
男はそっと私の頭の上に大きな手を置き、ぎこちなく撫でた。
「もう二度と、そんな無茶はさせん。顧問が見るべき案件は一日三時間を目安に絞る。残りは文官へ回していい。早く終われば休め」
「えっ、お給料減りませんか?」
「減らさん。先日の協定案の分は、別に賞与を出す」
「神様ですか!?」
私が目を輝かせていると、突如、廊下を激しい足音で走ってくる音が響いた。
バンッ!
扉が勢いよく開き、ウルリヒの副官である若い騎士が飛び込んできた。
「閣下! 緊急事態です!」
「どうした。騒々しいぞ」
ウルリヒが鋭い視線を向けると、副官は息を切らしながら羊皮紙を差し出した。
「街道の見張りより、第二王子ユリアン殿下が近衛兵五十名を率いて、当領地の手前まで来ているとの報告です! 名目は――『国家反逆の容疑者たるドロテア・フォン・ケスラーの身柄引き渡し』です!」
「は?」
アップルパイを咥えたまま、私は間抜けな声を漏らした。
こっ、国家反逆罪!?
ただ婚約破棄を受け入れて、田舎でスローライフを始めただけなのに、いつの間に私、国家反逆者になってるの!?
「あ、あの馬鹿王子! どこまで他力本願なのよ!」
私が震え上がったその時。
ゴキリ。
ウルリヒが、凄まじい音を立てて拳を鳴らした。
ウルリヒは副官の書状を読み返し、笑みを消した。私の頭に置かれた手だけが、少しだけ強張った。
「反逆罪、だと?」
低く、地を這うような声。
「我が総督府の筆頭顧問を、そのような言いがかりで連れ去ろうというのか。……面白い」
ウルリヒは私の頭から静かに手を離し、腰の長剣の柄に手をかけた。
「ドロテア。ここにいていい。検問所で止める」
「えっ、あの、ウルリヒさん!? 相手、一応王子なんですけど!?」
私の悲鳴のようなツッコミを背に、総督閣下は副官に門を閉じるよう命じ、執務室を出て行ったのだった。




