第6話
「断固、お断りいたします!」
私は縁側から飛び退き、胸の前で両腕を交差させて大きなバツ印を作った。
「私はね、ウルリヒさん! 朝から晩まで昼寝をして、固いパンをかじりながら日向ぼっこをするために、あのクソッタレな夜会を脱走して……あ」
勢い余って口を滑らせた。
慌てて両手で口を押さえたが、時すでに遅しである。
ウルリヒは灰色の瞳をわずかに細めた。
「夜会を脱走、ね。なるほど」
「い、今のは失言です! 忘れてください!」
「王都の貴族街で、理不尽な上司にタダ働きさせられ、過労死寸前で逃げ出してきた……といったところか。中指に大きなペンだこがある。相当な量の書類を一人で書かされていたな」
「うぐっ!?」
観察眼が鋭すぎる。この男、本当に武官なのか?
芋を食べている間も、こちらをよく見ていたらしい。
「お前の警戒心はもっともだ。無理強いするつもりはない」
ウルリヒはあっさりと引き下がり、立ち上がった。
そして庭に繋いであった黒馬の鞍袋から、ずっしりと重そうな金属製の寸胴鍋と、布に包まれた籠を取り出してきた。
「な、何ですかそれ?」
「腹が減っていては、まともな判断もできんだろう。昼飯だ」
ウルリヒは庭の焚き火跡に手際よく薪をくべ、火を起こすと、その上に鍋をドスンと据え付けた。
数分もしないうちに、蓋の隙間からシューッと白い湯気が吹き出し始める。
その瞬間。
蓋が持ち上がり、白い湯気がふわりと広がった。
暴力的なまでに芳醇な香りが、私の鼻腔をダイレクトに貫いた。
「っっっっ!?」
バターと生クリームの濃厚なコク。
じっくり煮込まれた鶏肉のブイヨン。
甘く炒めた玉ねぎと、ほのかに香る白ワインとローリエの風味。
ぐうぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!
今度は私の腹の底から、けたたましい鐘のような音が鳴り響いた。
ここ数日、固い黒パンと少しの干し肉、それに焼き芋しか口にしていなかった私の胃袋が、全力で反乱を起こしたのだ。
「食うか?」
ウルリヒが木べらで鍋をかき混ぜながら、平然と尋ねてくる。
その手元の木皿には、ゴロゴロとした大ぶりの野菜と柔らかな鶏肉がたっぷりと入った、熱々のホワイトシチューが注がれていた。
さらには布の籠から、外はパリッと香ばしく、中はふんわりと焼き上げられた真っ白なパンが二つ。
「そ、そんなもので買収されると思ったら大間違いです! 私は誇り高き無職――」
「冷めると不味くなるぞ」
「いただきます!!!」
プライドなど、湯気を立てるシチューの前には紙屑同然だった。
私は木匙をひったくり、熱々のシチューをすくって口へ運んだ。
ハフハフと息を吹きかけ、舌の上へ滑り込ませる。
「んっ、美味しい!!!!」
言葉が出なかった。
鶏肉はスプーンで押すだけでホロリと崩れるほど柔らかく、人参は甘く、濃厚なミルクのソースが身体の隅々まで染み渡っていく。
白パンを千切ってシチューに浸し、口いっぱいに頬張る。小麦の香ばしさとクリームの旨味が合わさって、脳内でファンファーレが鳴り響いた。
「な……何これぇぇぇ! 美味い、美味しすぎる! 王宮の料理長より美味いじゃないのこれぇ!」
「総督府の厨房で、今朝作ってきた。……口に合って何よりだ」
「あなたが作ったの!? 何でも屋の料理レベルじゃないでしょ!?」
「趣味だ。……書類仕事の合間に無心で野菜を刻むと、気が紛れる」
ウルリヒは静かにそう言うと、自分もパンをちぎって口に運んだ。
この大男、万能すぎる。大工仕事ができて、書類の罠に気づく現場勘があって、しかも料理までプロ級だと……?
あっという間に二皿を平らげ、幸せなため息をついてぽわぽわしている私の前に、コトッと一枚の上等な羊皮紙が滑り込んできた。
「何ですかこれ?」
「我が総督府の、専属財務顧問としての雇用契約書だ。……条件を読んでみろ」
悪魔の囁きだ、と思いながらも、私は満腹の幸福感に流されて紙に目を落とした。
そして、二度見した。
「は?」
『一、役職:ラートブルク総督府・筆頭財務顧問』
『二、執務室および住居:総督公邸内の日当たり良好な南向き客室(暖炉・高級羽毛布団完備、雨漏りゼロ)』
『三、勤務時間:午前九時より午後五時まで。定時退社を絶対厳守とし、残業は一切禁止とする。万が一残業を行おうとした場合、総督自ら執務室を施錠し、強制的に退去させる』
『四、休憩:正午より一時間の昼食休憩、午後一時より一時間の昼寝休憩を認める。週二日の休日、有給休暇および本人の申し出による退職を保障する』
『五、給与:金貨月二十枚(成果に応じた特別賞与あり)』
『六、食事:総督府厨房より三食完全支給(希望があれば夜食の手配も可)』
「な……ななな、何ですかこの、神のようなホワイト企業条件はぁぁぁぁっ!?」
思わず叫んでしまった。
金貨月二十枚!? 実家からの月々の小遣いの五倍である。王宮からは一枚も出なかったのに!
しかも残業禁止!? 定時退社厳守!? 昼寝一時間の公式認可!?
暖炉と羽毛布団があって、三食こんな絶品料理がタダで食べられる!?
「どうだ。昼寝の権利は保障されているぞ」
ウルリヒが、してやったりという顔で腕を組んだ。
「だ、騙されませんよ! どうせ入社したら『話が違う』ってなって、深夜まで関税の計算をさせられるんでしょう!? 私、知ってるんですから! ブラック職場のやり口なんて!」
「俺に二言はない。それに……」
ウルリヒは身を乗り出し、真剣な眼差しで私の瞳を真っ直ぐに見つめた。
先ほどまでの威圧感は消え、そこにあったのは、純粋な敬意だった。
「お前ほどの才能を持つ者を、すり減らして使い潰すような真似は絶対にせん。……お前が王都でどんな扱いを受けていたかは知らん。だが、俺の領地に来るなら、お前の尊厳と平穏は、この俺が命に代えて守る」
息が詰まった。
胸の奥が、ツンと痛くなった。
三年間。
王宮でどれだけ働いても、当たり前のように扱われ、感謝の一言すら言われなかった。
浮気をされ、「冷酷な悪女」と罵られて捨てられた。
そんな私の能力を、一枚の協定案で認め、「お前の尊厳を守る」と言ってくれた。
(ダメよ、ドロテア。胃袋を掴まれたくらいでチョロい女になっちゃ……)
だが、手元の契約書からは、ふかふかの羽毛布団と、温かいシチューの幻影が手招きしている。
そして目の前には、口数は少ないが、約束した日に来て屋根を直してくれた大男。
「あの、一つだけ確認してもいいですか?」
「何だ?」
「もし王都から……私の居場所を突き止めて、連れ戻そうとする不届き者が現れたら?」
ユリアン殿下の顔が脳裏をよぎる。
ウルリヒは鼻で笑った。
その笑みは、かつて数々の戦場をくぐり抜けてきた武官特有の、底知れぬ凄みに満ちていた。
「正式な令状もなしに連れ去ることは、王族にも許されん。総督として止める。お前が帰りたくないと言うなら、その意思を俺が王都へ伝える」
私は無言で、差し出されたペンを握りしめた。
そして、契約書の署名欄に、流れるような筆跡で力強くサインを書き殴った。
『ドロテア・フォン・ケスラー』
「除籍の手続きが済んだら、名前はドロテアだけになります。それでも構いませんか?」
「構わん。理由を聞いてもいいか」
私は夜会での婚約破棄と、身に覚えのない告発について話した。ウルリヒは最後まで遮らず、必要なら公務記録の照会も手伝うと言った。
「就職します!! 明日からよろしくお願いします閣下!!」
署名を終えると、彼は私の皿にシチューをもう一杯よそった。
「明日は九時だ。四時に起きるなよ」
契約書の給料欄より、その念押しの方を何度も思い出した。




