第5話
トントン、カンカン、ギィィィ。
エーデル村の長閑な青空の下、我が家の屋根の上からリズミカルな大工仕事の音が響いていた。
私は脚立の足を押さえながら、屋根の上を見上げていた。縁側には、井戸水で冷やしたカモミール茶を用意してある。
「身軽すぎない?」
屋根の上では、大男ウルリヒが軽快に動いていた。
瓦を慎重に取り外し、傷んだ屋根板を新しい板に替え、太い鉄釘を寸分の狂いもなく打ち込んでいく。
無駄のない動き。完璧な重心移動。脚立を押さえるだけの私の方が、よほど足元がおぼつかない。
「何でも屋の腕前じゃないでしょ、それ……。完全に宮廷付きの宮大工棟梁の動きじゃない……」
私が呟いている間に、ウルリヒは屋根瓦の手入れまで終え、脚立にするりと足をかけて庭へと降りてきた。
額に光る汗を無造作に腕でぬぐい、ふう、と息を吐く。
「終わったぞ。これで嵐が来ても、少なくともあと三年は雨漏りせん」
「あ、ありがとう。本当に助かったわ」
憎まれ口を叩く隙もない完璧な仕事ぶりに、私は素直に感謝を口にして、冷たいカモミール茶を差し出した。
ウルリヒはコップを受け取ると、喉を鳴らして一気に飲み干した。
「ふう。悪くない茶だ」
「売店のカモミールよ。で?」
私は縁側の端にドンと置かれた、あの分厚い書類の束へと視線を向けた。
革紐で頑丈に縛られた、上質な羊皮紙。
表紙には、隣国たる帝国との交易を司る『国境関税特例協定・改定案(旧案添付)』の文字が見える。
「総督府の何でも屋さんが、なんでこんな協定案を持ってるのかしらね?」
「俺が決裁するからだ。黙っていて悪かった。ラートブルク総督のウルリヒ・フォン・ハルトマンだ」
「最初からそう言いなさいよ! 総督閣下を庭で芋づけにしちゃったじゃないの!」
私がジト目を向けると、ウルリヒはバツが悪そうに視線を泳がせ、縁側に腰を下ろした。縁側がミシッと悲鳴を上げる。
「総督府の文官が『問題なし』と報告してきた案だ。ただ、交易商人の見積もりでは輸送費が上がる。条文と現場の数字が噛み合わん。もう一人、別の目で見てほしい。部外者に見せられるよう、商人名と取引額は伏せてある」
「ふーん。で、通りすがりの農婦に読ませようと?」
「さっき、表紙を見ただけで何の書類か分かっただろう。王都で書類仕事をしていたと言っていたし、頼めるかと思った」
「読めるけど、今日だけよ。屋根の修理が人材募集の面接だった、なんて言わないでね」
「修理は芋の礼だ。読まなくても請求はせん」
そう言われて、少しだけ肩の力が抜けた。
私はため息をつきながら、書類の束の紐を解いた。
正直、見るだけのつもりだったのだ。適当に「うん、難しくて分からないわね」と言って返して、平穏な昼寝に戻るつもりだった。
しかし。
「は?」
ペラリと三枚目をめくった瞬間、私の眉間が反射的にギュッと引き絞られた。
四枚目、五枚目、十枚目。指先が勝手にページをめくる速度を上げていく。
「何これ……。何なのこれ!? ふざけてるの!?」
「ドロテア?」
ウルリヒが怪訝そうに眉をひそめたが、今の私には聞こえていなかった。
全身の血が、怒りで沸騰し始めていた。
三年間の激務で培われた、補佐官同然に働いてきた私の職業病が、けたたましい警報を鳴らしていたのだ。
「ちょっとウルリヒ、ペンとインクはある!?」
「ああ。書類鞄にある。別紙も使え」
「それ貸して!」
ペンを受け取った私は、別紙を縁側に広げ、問題のある条文の番号を書き出した。
「見てこれ! 第十四条!『指定港湾における荷役手数料は現地基準に準拠』ってサラッと書いてあるけど、別表第三の注記を見てみなさいよ! 帝国側、先月の法改正で港湾手数料の上限撤廃してるのよ!? これにサインしたら、総督領の商人が向こうの港使った瞬間、添付の見積もり通りなら港湾費だけで前年の三倍よ! 利益が消える商人が出るわ!」
「なっ!?」
「さらに第二十二条! 免税枠の規定! これ、年度途中の為替レート見直し条項が旧案から削られてるわ! こちらの通貨が値下がりしたら、帝国通貨で固定された免税枠との差額を総督府だけが補填する契約になってる! 相手国の完全な罠よ!」
ペン先が、紙の上を走る。
インクを継ぎ足しながら、私は別紙に修正条文の文案と、予想される損失の計算式をびっしりと書き込んでいく。
「何が『問題なし』よ! 総督府の文官は何を見てたの!? 目は飾りなの!? 節穴なの!? こんなの三行読めば悪意の塊だって一発で分かるじゃない! 給料泥棒どもが! 全員クビにして庭の草むしりでもさせなさいよ!!」
ハァッ、ハァッ、ハァッ……。
一気に捲し立て、別紙に修正案と損失の試算を書き終えた私は、肩で息をつきながらペンを置いた。
「ふぅ。すっきりした。やっぱり悪徳官僚の罠を暴くのって、最高のストレス解消ね」
清々しい気分で額の汗を拭い、ふと隣を見た。
ウルリヒが、凍りついていた。
大柄な体を石像のように硬直させ、私が書き殴った羊皮紙と、私の顔を、信じられないものを見るような目で見つめている。
その灰色の瞳の奥に、獲物を見定めた肉食獣のような、ギラリとした危険な光が灯っていた。
「ウルリヒ?」
「半刻もかかっていないぞ」
「え?」
「うちの筆頭文官どもが、三日三晩かけて『瑕疵なし』と報告してきた協定書だ。それを……お前は、半刻もかけずに、罠を暴き、修正案まで書き上げた」
(や、やばっ……)
背筋に冷たい汗がツーッと流れた。
やってしまった。怒りに任せて、完全に前職のスペックを全開にしてしまった。
「あ、いや、これはその! たまたま! たまたま昔、似たような本を読んだことがあって! ただの勘というか、当てずっぽうというか――」
言い訳を並べながら後ずさると、ウルリヒは伸ばしかけた手を止めた。
「逃げんでもいい。話だけ聞いてくれ」
ウルリヒは縁側から動かなかった。ただ、さっきの修正案を手放す気もなさそうだった。
「ドロテア。総督府で働く気はないか?」
「私、無職のままがいいんです! 昼寝が大好きなんですから!」
「昼寝好きの顧問がいても、俺は構わん」
ウルリヒの口元が緩んだ。私が逃げる気なのを知っていて、まだ諦めていない顔だった。
「では、話だけだ。雨漏りしない、ふかふかのベッドがある部屋に興味はないか?」
「は?」
「美味い肉と、温かいシチューが毎晩腹いっぱい食える職場があるんだが。……どうだ?」
仕事、と聞いただけなら逃げていた。
温かいシチュー。
その一言だけが、どうにも耳から離れなかった。




