第4話
「おい、嘘だろ……? これ、本当に文字なのか……?」
王都・王宮の第二王子執務室。
豪奢なマホガニーの机に突っ伏したユリアン第二王子は、目の前の羊皮紙を睨みつけながら、掠れた声で呟いた。
そこに並んでいるのは、美しいインクの筆跡で記された公文書だ。
だが、ユリアンの目にはそれが、古代の呪術書か何かにしか見えなかった。
『西領穀物輸送に伴う関税特例控除の適用申請および――』
『治水工事費の繰越金および追加支出の承認について――』
「読めん! 一文字も頭に入ってこん!」
ユリアンは頭を抱え、完璧にセットされていた金髪をぐしゃぐしゃと掻きむしった。
コンコンコン!
容赦のないノックの音が響き、扉が勢いよく開け放たれる。
「殿下! 財務省の会計局長がお見えです! 『先週提出した関税調整案の決裁印はまだか、国境の街道で商人の馬車が何十台も立ち往生しているぞ』と、顔を真っ赤にして怒鳴り散らしておられます!」
「ひっ!?」
息を切らした若い官吏の報告に、ユリアンは悲鳴を飲み込んだ。
「ま、待て! 印を押せばいいのだろう、印を! その書類はどれだ!?」
「ですから、その机の上に山積みになっている束の、上から三番目の……いえ、五番目の……すみません、ドロテア様がいらっしゃらないので、受付簿と突き合わせる時間が必要です! 殿下が昨日、整理前の束を全部混ぜてしまわれたので!」
「なっ!?」
ユリアンは愕然とした。
これまでの三年間。
ユリアンがこの部屋に入ると、机の上には常に整然と書類が並べられていたのだ。
至急決裁が必要なものには赤の付箋。
保留すべきものには青の付箋。
そしてそれぞれの書類の一番上には、ドロテアの几帳面な字で『要約と承認すべき理由』がたった三行でまとめられたメモが添えられていた。
ユリアンはそのメモを流し読みし、ただ偉そうに印鑑を押し、「今日も余は王国のために働いたな」と満足して夜の街へ繰り出していただけだったのだ。
下準備を全て、ドロテアが一人で片付けていたなどとは夢にも思わずに。
「くそっ、マリアンネ! マリアンネはまだ来ないのか!?」
「あ、殿下ぁ〜! お待たせいたしましたわぁ!」
パタパタと小走りで部屋に入ってきたのは、淡いピンク色のフリルドレスをまとったマリアンネだった。
その手には、可愛らしい焼き菓子のバスケットが握られている。
「殿下がお疲れだと伺いましたので、マリアンネ、厨房でクッキーを焼いてまいりましたの!」
「おお、マリアンネ! よく来てくれた! クッキーはいい、それよりこれを手伝ってくれ!」
すがるような思いで、ユリアンは机の上の書類の束をマリアンネの前に突き出した。
「お前は王立学院でも優秀だったはずだ! この書類に書かれている控除税率とやらを計算して、承認の可否を――」
「えっ……?」
マリアンネは書類を一瞥した瞬間、引いたように後ずさりした。
「な、なんですのこれ……? 数字と専門用語ばっかり……。ドロテア様って、こんな可愛げのない、野蛮なお仕事をなさっていたんですの?」
「いいから読め! 私の妃になるのだろう!?」
「む、無理ですわ! マリアンネ、難しい文字をたくさん見ると頭が痛くなって熱が出ちゃうんですぅ!」
目に涙を浮かべて甘えるマリアンネ。
普段なら「よしよし、可憐な我が薔薇よ」と抱きしめるところだが、今のユリアンにはそんな余裕は一ミリもなかった。
「甘えるな! 印を押さなければ国境が封鎖されるんだぞ!」
「ひっ! 殿下が怒鳴った! 酷い、ひどいですわ殿下! ドロテア様みたいに冷たい女になれとおっしゃるのですか!? マリアンネ、怖いですぅ!」
「あ、おい、マリアンネ!?」
マリアンネはバスケットを机に放り出すと、ハンカチを目元に当てて泣きながら部屋を飛び出してしまった。
そして、放り出されたバスケットが机の上のインク壺に直撃する。
バシャッ。
「あっ」
真っ黒なインクが、財務省への提出期限が今日までの最重要公文書の上に、無情にも広がっていった。
「あああああぁぁぁぁぁぁっっっっ!?」
ユリアンの絶望の絶叫が、王宮の回廊へと木霊した。
同じ日の午前十時。
エーデル村のボロ屋。
「ふあぁぁぁぁ」
大きなあくびと共に、私は目を覚ました。
隙間風の入る木の雨戸を開けると、眩しい太陽の光が降り注いできた。
小鳥がチュンチュンと鳴き、心地よい風が草木の匂いを運んでくる。
「よく寝た! 十二時間くらい寝たんじゃないかしら!」
起きる時間を誰にも指図されない朝が、これほどまでに素晴らしいものだとは知らなかった。
私は井戸端で顔を洗い、村の売店で買った乾燥カモミールを取り出して、素焼きのポットに入れてお湯を注いだ。
ふわりと甘い香りが広がる。
縁側に腰掛け、湯気の立つカップを両手で包み込みながら、私は遠くの山々を眺めた。
「はあ、極楽、極楽」
ふと、王都のことが脳裏をよぎる。
(そういえば……今日あたり、西領の関税特例の申請期限じゃなかったかしら?)
あれ、減税の計算式がめちゃくちゃ複雑で、書類の裏に私が鉛筆で検算のメモをびっしり書き残しておいたはずだけれど。
ユリアン殿下、ちゃんと気づいて読めたかしら。
「ま、知ったこっちゃないわね!」
私はハーブティーをごくりと飲み干した。
あちらが望んだ通り、指輪を置いて婚約者の仕事から退いたのだ。
あとは真実の愛で結ばれた殿下とマリアンネ嬢が、愛の力とやらで解決すればいい。愛があれば関税の計算くらい暗算でできるに決まっている。たぶん。
のんびりと二杯目のお茶を淹れようと立ち上がった、その時だった。
ズシッ、ズシッ、ズシッ。
生垣の外から、異様に重々しい足音が近づいてきた。
「ん?」
見やると、我が家の傾いた木戸の向こうに、見覚えのある巨躯が立っていた。
黒い革鎧姿の大男。一昨日の行き倒れ男――ウルリヒである。
しかも彼の肩には、丸太のような太さの木材と、ズッシリと重そうな鉄製の大工道具箱が担がれていた。
「よお、ドロテア」
ウルリヒは無骨な声でそう言うと、ドサリと足元に道具箱を下ろした。
凄まじい地響きが立つ。
私はティーカップを持ったまま、目を白黒させた。
「えっ。本当に来たの!?」
「言ったはずだ。明後日、大工道具を持ってくると」
ウルリヒは眉一つ動かさず、背負っていた巨大な脚立を地面に突き立てた。
「芋の礼だ。傷んだ屋根板を交換してやる。それと、頼みがある。嫌なら断ってくれ」
そう言って男が懐から取り出したのは、分厚く縛られた、いかにも難解そうな公文書の束だった。




