第3話
脱走から五日目。
私のスローライフは、順調に迷走していた。
ボロ屋の雨漏りは、とりあえず鍋とバケツを常設することで「屋内噴水ショー」として受け入れることにした。人間、諦めが肝心である。
そして現在、私は荒れ果てた裏庭で、鍬を片手に土と格闘していた。
「ふんっ! はあっ! ……重い! 土ってなんでこんなに重いの!?」
袖をまくった麻のワンピースに、泥除けのズボン。
顔には跳ねた泥が飛び散り、かつて「絹のよう」と社交界で称えられた金髪は、邪魔くさいので頭頂部で雑なお団子に束ねてある。
鏡を見たら、そこには伯爵令嬢の面影など微塵もない、立派な限界農婦がいた。
庭の隅では、集めた枯れ葉と小枝で小さな焚き火をしている。
灰の中には、村の八百屋の親切なおばあちゃんに貰った芋が三つ、濡らした紙と濡れ藁に包まれて埋まっていた。
「そろそろ焼けたかしら……」
木の棒で灰をかき分け、黒く煤けた芋を取り出す。
指先で押すと、柔らかく窪んだ。完璧だ。大成功である。
ふうふうと息を吹きかけ、至福のオヤツタイムに突入しようとしたその時だった。
ヒヒィィィンッ!
凄まじい馬のいななきと、激しい地響きが街道の奥から響いてきた。
「えっ、何!?」
見上げると、一頭の巨大な黒馬が、目を血走らせて暴走していた。
手綱を引いているのは、黒い革鎧にマントを羽織った大柄な男だ。落馬寸前の姿勢に見えたが、男は手綱を引いて馬を大きく旋回させ、何度も声をかけて速度を落とした。
ズザザザザッ!
乾いた土煙を巻き上げ、馬は我が家の頼りない生垣の手前、わずか数メートルのところで急停止した。
「ぶ、無事……? というか、うちの庭に突っ込まないでよ!」
私が鍬を構えて警戒していると、馬から転がり落ちるようにして降りた男が、肩で荒い息をつきながらこちらへ歩いてきた。
背が高い。一メートル九十近くあるのではないだろうか。
彫りの深い顔立ちに、鋭い灰色の瞳。額にはうっすらと古傷があり、お世辞にも愛想が良いとは言えない強面だった。
何より目を引いたのは、その目の下に張り付いた、濃い紫色のクマである。
(あ、この人、限界まで残業してるタイプの顔だ)
元・過労死寸前令嬢の第六感が、男から漂う濃厚な「徹夜明けの匂い」を敏感に察知した。
男は私をギロリと睨みつけ、低くかすれた声で口を開いた。
「すまない。馬が虻に刺されて暴走した。怪我は――」
ぐうぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ……。
盛大な、あまりにも盛大な音が、男の腹の底から鳴り響いた。
沈黙が落ちる。
男の鋭い灰色の瞳が、わずかに泳いだ。
そして次の瞬間、大木が倒れるようにして、男はその場に膝をついた。
「ちょ、ちょっと!? 行き倒れ!?」
「すまない。山道の崩落現場に詰めていて、昨日から水しか飲んでいない。帰り道で、この騒ぎだ」
掠れた声でそう呟き、地面に手をついて項垂れる大男。
身なりを見る限り、身につけている革鎧もマントの留め具も、一級品に見える。山賊や野盗の類ではなさそうだ。ただ単に、信じられないほど腹を空かせているだけの人間である。
私はため息をつき、手に持っていた熱々の焼き芋をパキリと二つに割った。
黄金色の湯気が立ち上り、甘い香りがふわりと漂う。
「食べる?」
男が、弾かれたように顔を上げた。
その瞳が、湯気を立てる芋に釘付けになっている。
「毒は入ってないわよ。ほら」
差し出すと、男は躊躇いもせず、無骨な大きな手で芋をひったくるように受け取った。
そして、熱いのも構わず、大口でかぶりつく。
「あむっ! はふッ、ごほっ、……うまい」
「喉詰まらせないでよ。待ってなさい、今水持ってくるから!」
私は慌てて井戸から水を汲み、木製の手桶と柄杓を持って走った。
男は水を一気に飲み干すと、ふう、と深く長い息を吐き出した。死にかけていた顔色に、わずかに血色が戻っている。
「助かった。恩に着る」
「いいえ。行き倒れに死なれたら、庭を見るたび思い出すことになりますから」
私はもう半分の芋をかじりながら、男を観察した。
近くで見ると、やはり異様な存在感だ。鍛え上げられた体躯と、無駄のない所作。ただの旅人ではない。
男もまた、芋をもぐもぐと咀嚼しながら、じっと私を見つめていた。
「見慣れない顔だな。この村の住人か?」
「ええ、まあ。通りすがりの農婦です」
「自分の庭にいるのに、通りすがりなのか? それに……」
男の鋭い視線が、私の指先や立ち姿をなめるように動いた。
「泥だらけだが、背筋の伸ばし方、柄杓の持ち方が平民のそれではないな。王都の上流貴族の仕草だ」
ギクッ。
(うわ、めんどくさい人を拾っちゃったかも)
私は努めて表情を消し、死んだ魚のような目で男を見返した。
「気のせいです。私はただの、昼寝が大好きな無職の平民です。王都の貴族なんて、全員書類仕事で胃を焼かれて死ねばいいと思っています」
「随分と具体的な怨嗟だな」
男の口元が、かすかにピクリと動いた。笑いを堪えているようだった。
「俺はウルリヒだ。この村から東へ半刻ほどのラートブルク総督府で働いている。現場の修繕も、書類の決裁もやる」
「へえ。何でも屋さんですか」
私は男のマントの裏地をチラリと見た。
最高級の防寒毛皮が縫い込まれている。ただの雑用係に支給するには、ずいぶん高そうだ。
だが、詮索するのは私のスローライフ憲章に反する。相手が誰だろうと、私の平穏な二度寝に関係なければどうでもいいのだ。
「私はドロテアです。ただのドロテア」
「そうか、ドロテア」
ウルリヒと名乗った男は立ち上がり、馬の手綱を取った。
そして懐から、革の財布を取り出そうとする。
「芋と水の代金だ。受け取れ」
「いりません」
私は即座に手を振って断った。
「庭で焼いただけの芋で金を取るほど落ちぶれていません。それに、そんな上等な身なりの人からお金をもらったら、後で面倒なことに巻き込まれそうですし」
「金を払わず帰るのも、落ち着かんな」
「欲がないわけじゃありません。私はただ、平穏に昼まで寝たいだけです」
ウルリヒは不思議そうな顔で私をじっと見つめた後、ふと視線を私の背後――ボロ屋の屋根へと向けた。
「あの屋根、軒先の板が腐りかけているぞ。瓦もズレている。次の雨で確実に大規模な雨漏りが起きるな」
グサッ。
「放っておいてください! 今、対策を考えてる最中なんですから!」
「バケツを並べるのが対策か?」
「なんで中を見たのよ!?」
「戸が開いていたからな」
ウルリヒは呆れたように短く息を吐いた。
だが、その灰色の瞳の奥に、先ほどまでの刺々しい警戒心は完全に消え失せていた。
「明後日、また来る」
「は? なんでですか?」
「芋の礼だ。大工道具を持って、屋根を直しに来る。都合はどうだ?」
「えっ。直せるの? それなら、午前中にお願いします。昼寝は邪魔しないでね!」
私の言葉に頷くと、ウルリヒは身軽な動作で黒馬に飛び乗った。
そして手綱を一振りすると、あっという間に街道の彼方へと駆け去っていってしまった。
「なんなのよ、あの人」
残されたのは、静まり返った庭と、冷めかけた半分の焼き芋。
私は泥だらけの手で頭をポリポリと掻いた。
「屋根まで直せるの? あの人、総督府で何をしてるんだろう」
まあいいか、と私は芋を口に放り込んだ。
まさかあの男が、隣国との国境を預かる泣く子も黙る筆頭総督閣下で、しかも万年人手不足で有能な実務官を血眼で探している仕事中毒の男だとは、この時の私は夢にも思っていなかった。
その頃。
王都・王宮の第二王子執務室。
「おい。これはどういうことだ?」
執務机の前に立ったユリアン第二王子は、引き攣った笑みを浮かべながら、震える指先で机の上を指差していた。
そこには。
天井に届かんばかりの高さまで積み上がった、羊皮紙の塔。
塔は一つではない。二つ、三つ、四つ……部屋の床を埋め尽くすように乱立していた。
青ざめた顔の初老の侍従が、脂汗を流しながら答える。
「ど、ドロテア様が不在となってから五日分の……未決裁書類でございます、殿下」
「は、はあ!? なぜこんなにある!? 普段はこんな量、机の上になかったはずだぞ!」
「普段は……ドロテア様が毎朝四時に登庁され、殿下がお目覚めになる前に、急ぎのものから順に内容を確認し、殿下の決裁用に整理しておられましたので……」
「な……ッ!?」
ユリアンの顔から、サァッと血の気が引いていった。
「ま、マリアンネ! マリアンネはどこだ! あいつにこれを手伝わせろ!」
「マリアンネ様なら……先ほど『字が小さくて頭が痛いので、お茶会に行ってまいります』と仰って、王宮を出られました……」
「な……んだと!?」
ドサリ、と音を立てて崩れ落ちた書類の山が、ユリアンの足元を埋め尽くした。
侍従は紙を拾わなかった。
ユリアンは初めて、自分で腰を屈めた。




