第2話
王都を出発した乗り合い馬車に揺られること、丸三日。
お尻の感覚が完全に消失しかけた頃、私は目的地の寒村――王国の最北端に近い『エーデル村』へと辿り着いた。
空気は澄み渡り、見渡す限りの緑と、遠くにそびえる雄大な山々。
そして目の前には、私の全財産の一部をはたいて購入した、愛しのマイホームが鎮座していた。
「うん。趣があるわね」
私は腕を組み、精一杯のポジティブな語彙を絞り出した。
平屋建ての木造家屋。
屋根瓦はあちこちズレており、外壁の板はところどころ湿気で黒ずんでいる。不動産屋のチラシには『自然豊かな環境! 風通し抜群の古民家!』と書かれていたが、要するに単なるボロ屋だった。
だが、今の私にとっては白亜の王宮よりも輝かしい城だ。
ここには、説教をしてくる親も、仕事を押し付けてくる王子も、ぶりっ子男爵令嬢もいないのだから。
ギィィと嫌な音を立てる木製の扉を開け、埃っぽい室内へ足を踏み入れる。
途中の町で調達した質素な麻のワンピースに着替え、動きにくいコルセットと淑女用ドレスは麻袋に突っ込んだ。
「ふふ……ふははは! ついに手に入れたぞ、完全なる自由を!」
私は床に広げた安物の敷布団の上へ、ダイビングするように飛び込んだ。
目標はただ一つ。
明日――いや、明後日の昼まで、一度も起き上がらずに寝腐ることだ。
過去三年間、平均睡眠時間四時間で駆け抜けた限界社会人に、これ以上ふさわしいご褒美があるだろうか。
「おやすみなさい、私の輝かしいぐうたら人生……」
目を閉じ、泥のような眠りに落ちようとした、まさにその時だった。
ゴロゴロ……ピシャアン!
遠くで重苦しい雷鳴が轟いた。
あっという間に空が暗くなり、屋根を激しく叩く雨音が響き始める。
(あら、雨かしら。雨音を聞きながら二度寝するのって、最高に贅沢よね……)
そう思って微笑んだ刹那。
ピチャッ。
「ひゃっ!?」
鼻の頭に、冷たい水滴が直撃した。
目を開けると、薄暗い天井の板と板の隙間から、濁った水滴がぷっくりと膨らんでいるのが見えた。
ピチャ。ピチャ。ポタポタポタポタ。
「うそでしょ!?」
飛び起きて布団を部屋の隅へ引きずった瞬間、本格的な雨漏りが始まった。
しかも、一箇所ではない。
部屋の隅からも、台所のあたりからも、軽快なリズムを刻んで水滴が落ちてくる。
「風通し抜群って、雨通しも抜群って意味だったの!? あのインチキ不動産屋め!」
優雅なスローライフは開始一時間で崩壊した。
私は荷物から鍋、洗面器、ティーカップ、果てはスープ皿まで引っ張り出し、雨漏りの落下点へと配置して回った。
ポコン、カン、ピチャ、チーン。
室内で鳴り響く謎の前衛音楽。
「笑わせないでよ! こちとら王宮の裏予算の穴埋めを三年間やってきた女よ!? 雨漏りの穴くらい、塞いでみせるわよ!」
雑巾を片手に泥だらけになりながら、私は床を這いずり回った。
ちっとも優雅じゃない。むしろ王宮にいた時より身体を酷使している気がする。
だが不思議と、心はこれっぽっちも荒んでいなかった。
時を戻して、夜会の翌朝。
王都・王宮の第二王子執務室。
豪奢な革張りのソファに深く腰掛けたユリアン第二王子は、銀のカップに注がれた紅茶を優雅に口に運んでいた。
その足元には、甘えるように寄り添うマリアンネ男爵令嬢の姿がある。
「殿下ぁ、昨晩は本当に素敵でしたわ。マリアンネ、一生殿下についていきます!」
「フッ、当然だ。お前のような可憐な花を愛でることこそ、真の男の務めだからな」
ユリアンは満足げに目を細めた。
昨夜の断罪夜会。思い出すだけで胸がすく。
あの口うるさく、いつも冷たい目で自分を見ていたドロテアを、ついに公の面前で叩き出してやったのだ。
「しかし殿下、ドロテア様は大丈夫でしょうか……? あんなふうに取り乱して逃げ出してしまうなんて……」
マリアンネがわざとらしく眉を下げてみせる。
ユリアンは鼻で笑った。
「心配する必要などない。あいつはただ、プライドを折られてパニックになっただけだ。どうせ今頃はケスラー伯爵邸の自室で、枕を濡らしながら私への許しを請う手紙でも書いているに決まっている」
「まあ、手紙を?」
「ああ。あいつは傲慢だが、立場というものは理解している女だ。私という王族の婚約者を失えば、社交界で生きていけないことくらい分かっているはずだからな」
ユリアンは確信していた。
ドロテアは泣いて謝罪してくる。
そうしたら、数日ほど反省させた後、マリアンネの足元に跪かせて謝罪させよう。
そして――「寛大な私」をアピールしながら、再び公務の雑用係としてこき使ってやればいい。
「マリアンネ、明日の午後は劇場へ行こう。良い席を押さえてある」
「嬉しい! 殿下、大好きです!」
二人が甘い空気に浸っていた、その執務室の片隅。
ドロテアがいつも使っていた執務机の上には。
今朝届けられたばかりの、隣国との関税調整書、今期の治水予算の決裁書、貴族院からの緊急諮問書などが、誰の手にも触れられないまま、静かに山となって積み上がり始めていた。
もちろん、ユリアンはその書類の存在にすら、まだ気づいていなかった。
夜。エーデル村のボロ屋。
雨はようやく小雨に変わっていた。
鍋やバケツに溜まった水を庭に捨て、濡れた床を拭き終えた私は、壁にもたれかかってズルズルと座り込んだ。
「腰が、割れるように痛い」
手は泥と埃で汚れ、髪はボサボサだ。
テーブルの上には、村の売店で買ってきた固い黒パンと、干し肉が少し。飲み物は井戸水を沸かした白湯だけ。
伯爵令嬢の食事としては、お話にならないほど惨めなディナーである。
私は固いパンを両手でちぎり、口いっぱいに放り込んでガシガシと噛み締めた。
麦の素朴な香りと、かすかな塩気。
「美味しい」
思わず、ぽろりと呟きがこぼれた。
豪華な銀食器に盛られたフルコースを、王子の機嫌を窺いながら、胃を痛めて喉に流し込んでいた日々に比べたら。
雨漏りのするボロ屋で、一人で食べる冷たいパンの方が、百万倍美味しかった。
「明日は……村の大工さんを探して、屋根の直し方を聞かなきゃね」
ついでに、庭の雑草を抜いて、小さな家庭菜園でも作ろうか。
芋を植えよう。焼き芋は美味しいから。
疲労困憊の身体を引きずり、濡れていない部屋の隅に布団を敷き直す。
横になった瞬間、泥のような心地よい眠気が私を包み込んだ。
庭を耕すのは、起きてからにしよう。
今日はもう、鍋の水を捨てる以外は働かない。
私は三年ぶりに、一度も悪夢を見ることなく、ぐっすりと朝まで眠り続けたのだった。




