第1話
「ドロテア・フォン・ケスラー! 貴様のように冷酷で身勝手な女との婚約など、もはや一秒たりとも耐えられん! 今この場でお前との婚約を破棄する!」
王立学院の卒業記念夜会。
豪奢なシャンデリアが頭上で煌めく大広間の壇上で、私の婚約者であるユリアン第二王子が、朗々と喉を震わせて宣言した。
その腕には、可憐な小鹿のように目を潤ませた男爵令嬢マリアンネが、ぴったりとしなだれかかっている。
広間を埋め尽くしていた貴族たちの間に、波のようなざわめきが広がった。
「あんなに殿下に尽くしていたドロテア様が……」
「いくらなんでも、公衆の面前で断罪するなんて酷すぎる」
「ショックで声も出ないのではなくて?」
同情と好奇の視線が一斉に私へと突き刺さる。
当の私はといえば、扇子を胸元に構えたまま、立った姿勢で固まっていた。
言葉を失っていたのは確かだ。
ただし、周囲が憐れんでいるような絶望からではない。
(えっ……本当によろしいのですか!?)
頭の中で、高速の損益計算書が組み上がっていく。
そもそも、この婚約は家同士の政略結婚だった。
そして私は、ユリアン殿下の婚約者となってからの三年間、週七日・無休で王族の妃となるための教育と殿下の尻拭い公務を押し付けられていたのだ。
毎朝四時前に起きて王宮に入り、殿下が「退屈だから」と投げ出した関税関係の書類を片付け、夜遊びの不始末をもみ消し、機嫌を取り続ける日々。
残業代など出るはずもない。「王族を支える者の務め」という便利な言葉で、タダ働きさせられていた。
ここ数ヶ月、マリアンネ男爵令嬢と浮気をしている現場を見た時も、私の本音は「悲しい」ではなく「あの娘、私の代わりに殿下の書類仕事をやってくれないかしら」だったのだ。
(私が悪役になって退場すれば、殿下は真実の愛を手に入れ、私はこの超絶ブラック職場から合法的に脱出できる! 全員ハッピーエンドじゃない!)
私の沈黙を「絶望して震えている」と都合よく解釈したらしいユリアン殿下が、勝ち誇った笑みを浮かべて懐から羊皮紙を取り出した。
「ふん、罪の重さに声も出ないか! 今から貴様がマリアンネに行った陰湿な嫌がらせの数々を読み上げてやる! まず第一に、先月十四日、彼女の教科書を――」
「あ、殿下」
「何だ?」
口を開きかけた殿下を、私は至極穏やかな声で遮った。
「その罪状、長くなりそうですか?」
「は? な、長くなるに決まっているだろう! 貴様の悪行は便箋十枚分にも――」
「では、割愛していただいて結構です」
「は?」
殿下が鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
腕にしがみついていたマリアンネも、目を白黒させている。
私はすっと背筋を伸ばし、貴族社交界仕込みの完璧な淑女の笑みを浮かべてみせた。
「婚約破棄に異議はありません。ただし、身に覚えのない罪まで認めるつもりはございません」
「お、おい、ドロテア、お前……」
「先月十四日は、朝から財務省で関税会議に出席しておりました。出席簿をご確認ください。ほかのご主張も、証人と記録を揃えて法務局へどうぞ。婚約については、殿下からの破棄を謹んでお受けいたします」
広間の空気が完全に凍りついた。
壇上の側近たちも、口を半開きにして固まっている。
想定していた「泣き叫んで縋り付く悪女」のリアクションが返ってこないせいで、思考が停止しているのだ。
だが、私には彼らのフリーズに付き合っている暇はない。
気が変わって「やっぱり婚約継続な」などと言い出されたら、それこそ悪夢だ。言質を取った今が最大の好機である。
私は左手にはめていた、殿下から贈られた婚約指輪に指をかけた。
最近の過労とむくみのせいで少し抜けにくかったが、ぐっと力を込めて引っこ抜く。
スポン、と音がして外れた指輪を、近くの給仕が持っていた銀のトレイの上にコトッと置いた。
「婚約の証はお返しいたします。殿下、ならびにマリアンネ様。どうぞ末永くお幸せに。これからは愛の力で、王国の政務を乗り切ってくださいましね」
「ま、待て! ドロテア、何を言って――」
「それでは皆様、ごきげんよう!」
言い終えるが早いか、私はドレスの裾を両手で力強くたくし上げた。
淑女の歩幅など知るものか。
踵を返し、絨毯を踏みしめて大広間の出口へ向かって全速力でダッシュを開始した。
「なっ……止めろ! あいつを捕まえろ!」
背後で殿下が間抜けな絶叫を上げ、側近たちが慌てて走り出す足音が響いた。
だが、遅い。
私はこの日のために、最初から走りやすい低めのヒールを履いてきていたのだ。
扉の前に立っていた近衛兵が、ドレス姿で猛ダッシュしてくる令嬢を見て目を丸くする。
「お疲れ様です、通ります!」
「は、ハッ!?」
勢いに気圧された門番が反射的に扉を開けた瞬間、私はその隙間をすり抜け、夜風が吹き抜ける回廊へと躍り出た。
走る。
全力で走る。
コルセットで締め上げられた胸が苦しいが、三年ぶりに吸い込む外の空気は、信じられないほど甘くて美味しかった。
学院の裏門を抜け、あらかじめ金貨一枚を握らせて待機させておいた辻馬車に転がり込む。
「お嬢さん、どこまで行くんだい!?」
「一番近い乗り合い馬車の停留所まで! 大至急飛ばしてください!」
「合点承知だ!」
馬車がガタゴトと音を立てて発進し、学院の豪奢な明かりが急速に遠ざかっていく。
座席に深く背中を預け、私はドレスのポケットから小さな革袋と一枚の紙を取り出した。
袋の中身は、母の遺産から私名義で積み立てていた金を引き出すための換金手形。
そして紙は、王都から馬車で三日かかるド田舎にある、格安空き家の売買契約書だ。
完璧だ。いつかこうして逃げ出す日のために、裏で手配しておいて正解だった。
実家には、家名を返して平民になる手続きを頼む書類を置いてきた。殿下の顔色ばかり気にする父なら、婚約を破棄された娘を引き留めはしないだろう。
持参金も爵位もいらない。私名義の金と、この家だけあればいい。
明日からは、朝四時に起きて予算書と睨み合う必要もない。
傲慢な王子の浮気相手の嫌味を聞き流す必要もない。
昼まで二度寝して、起きたら適当に芋でも焼いて食べて、庭の雑草を眺めながら日向ぼっこをして暮らすのだ。
「あはは……自由だ!」
私は馬車の天井を見上げ、心の底から満面の笑みを浮かべた。
革袋を胸に抱いて、もう一度笑った。
明日の朝、誰に起こされても起きてやらない。
まずは三年分、寝てやるのだ!




