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卑しい銭

 帳面の名が一つ、消されていた。


 真新しい出資者名簿。ゼーバルトが恭しく開いた一枚目に、墨で引かれた線が一本走っている。昨日まで、そこには名があった。市の広場で皺だらけの手に銅貨を握り、並んだあの老婆の名だ。


「……取り下げ、でございます」ゼーバルトが声を落とした。「今朝がた、ご本人が館へ。銅貨を、返してほしいと」


「返して」渋沢は名簿から顔を上げた。「訳は、聞きましたか」


「それが」老執事は言い淀んだ。「怖い、と。——罰が当たる、と申しておりました」


(罰)


 渋沢は窓辺に寄った。広場では今日も市が立っている。だが昨日までの浮き立つ気配が、どこか薄い。銅貨を数える音の合間に、人々が額を寄せてささやき合っているのが見えた。


「執事」


「はい」


「一枚だけでは、ないのでしょう」


 ゼーバルトは静かに名簿をめくった。二枚目にも三枚目にも、墨の線が引かれている。昨日たしかに増えていったはずの名が、朝の光の中で一つ、また一つと消えていた。


     *


 渋沢は広場へ降りた。


 人だかりの中心に、白い法衣の男が立っていた。胸に、剣を象った武神アレスの徽章きしょう。神殿の神官だ。齢は五十がらみ。背筋は槍のように伸び、その声は広場の隅まで届いた。


「——聞きなされ。力とは、汗と血であがなうもの。武神アレスは、剣を執る者、鍬を握る者をよみしたもう」


 神官はゆっくりと群衆を見渡した。


「だが銭が銭を生むなどという話を、聞いたことがあるか。金を出せば、増えて返る。働きもせず、富だけが殖える。——それを、人は何と呼ぶ。詐術と呼ぶのだ。武神の道に、そのような卑しい抜け道はない」


 村人たちがうつむいた。銅貨を握った手を、そっと懐へ引っ込める者もいる。


「領主どのの申される合本がっぽんとやら。あれは、蓄財の術。銭を貯め、殖やし、抱え込む。武神がもっとも忌み嫌う、商人の業だ。惑わされるな。汗を流さず得た富は、身を滅ぼす」


 渋沢は人垣の後ろで足を止めた。神官の言葉に、群衆が飲まれていくのがわかる。無理もなかった。生まれた時から国じゅうが信じてきた教えだ。銅貨一枚の理屈が、百年の信仰に敵うはずもない。


「あんた」


 人混みを分けて、ニケが来た。いつもの威勢がない。


「まずいよ。あの神官さま、昨日から村を回ってる」ニケは声を潜めた。「武神様に背くって言われたら、うちの連中は弱いんだ。……あたしだって、子供の頃からそう教わってきた。銅貨を返しに行く年寄りが、後を絶たないよ」


 その傍らにボルツが立っていた。腕を組み、神官を見つめている。横顔が硬い。


「隊長」渋沢は尋ねた。「あなたは、どう思われます」


「……俺は、武人だ」ボルツは低く言った。「剣で身を立てろと、そう育てられた。商いは卑しいと、神殿でそう教わって育った」彼は渋沢を見た。「正直に言えば、俺の中にも、まだあの教えは残っている」


 渋沢は頷いた。それは責める言葉ではなかった。この地で生きてきた者の、正直な芯だった。


     *


 渋沢は群衆をかき分けて前へ出た。そして神官の正面に立った。


 広場がどよめいた。領主が神官と向き合う。二人のあいだに張り詰めた沈黙が降りた。


「神官どの」渋沢は恭しく頭を下げた。「良いお話を、聞かせていただきました」


「……皮肉かね、領主どの」


「いいえ。本心です」渋沢は顔を上げ、神官だけを見た。「道理の通らぬ利は、私も卑しいと思います。働かぬ者が、他人を欺いて富をかすめる。それは、武神ならずとも憎むべきことだ」


 神官の眉がわずかに動いた。


「ですが神官どのに、一つお尋ねしたい」渋沢の声は群衆にではなく、神官へまっすぐ向けられていた。「前の当主は剣と鞭で、この者たちの藍を奪いました。汗して穫った実りを、力ずくで取り上げた。——あれは、武神の道でしたか」


 神官は、答えなかった。しんと、広場が静まる。


「合本は、こういうものです」渋沢は掌の銅貨を、神官に見えるよう開いた。「誰も奪わない。誰も鞭打たない。皆が一枚ずつ出し合い、一つの甕を買う。染めた藍が売れれば、出した数だけ皆で分ける。それも卑しいと、おっしゃいますか」


「……銭が殖えることに、変わりはあるまい」神官が低く返した。


「殖え方が違います」渋沢は退かなかった。「この仕組みでは、出した銅貨より多く誰も失いません。しくじっても、なくすのは出した一枚きり。家も畑も取られはしない仕組みです」


 二人の応酬に、群衆が息を詰めていた。銅貨を握る手が、迷うようにわずかに開く。


「卑しいのは、銭ではありません」


 渋沢は、声を張らずに言った。


「銭を独り占めにして、腐らせることです。回せば、銭は皆を養う。抱え込めば、腐って人を狂わせる。——私が憎むのは、後のほうです」


 うなずく村人がいる。まだ迷う者もいる。だが、懐へ引っ込めた手を、もう一度開く者が、確かにいた。


 神官は長いこと渋沢を見ていた。それから静かに首を振った。


「……口の立つお方だ」神官は徽章に手を当てた。「だが、言葉は言葉。武神は、行いを御覧になる。あなたの申す『回る富』とやらが、まことに人を養うのか、人を狂わせるのか。私は、この目で見せてもらう」


「望むところです」渋沢は深く頭を下げた。「どうぞ、最後まで見ていてください」


 神官——オズヴァルトと名乗った——は法衣を翻し、去っていった。その背筋は、来た時と同じく槍のように伸びていた。


 ニケがほうと息を吐いた。


「……あんた、神官さまに喧嘩売るなんて」


「売ってはいません」渋沢は微笑んだ。「見ていてくれ、と頼んだのです。半年前、ボルツ殿にも、同じことを頼みました」


 ボルツが、ふっと笑うような息をもらした。


「あの時、俺は半年の猶予をやった」武骨な男が言った。「あんたは、それを一生に延ばさせた。……あの神官も、そうなるかもしれんな」


     *


 その日の夕暮れ、館の門前に小さな影が立っていた。


 あの老婆だった。皺だらけの手に、銅貨が一枚握られている。朝、返しに来たはずの、あの一枚だ。


「領主さま」老婆はおずおずと言った。「あたしは、学がない」


「はい」


「神官さまの言うことも、あんたの言うことも、難しくてわからないよ。どっちが正しいのかなんて、あたしにはさっぱりだ」老婆は銅貨を見つめた。「けどね。前の代には、あたしの息子が、鞭で打たれた。今年は、その孫に、新しい服を買ってやれた」


 彼女は顔を上げた。


「あたしが信じるのは、難しい話じゃないんだ。孫が、笑ってるかどうかだ。それだけだよ」


 老婆は銅貨を差し出した。


「もう一度、書いておくれ。あたしの名を」


 渋沢は両手でその銅貨を受け取った。土と汗の匂いが染みた、温かい一枚だった。傍らでゼーバルトが帳面を開き、墨で消した名の隣に同じ名を書きつけた。老執事の手が、少し震えていた。


(この一枚には、名前がある。暮らしがある。孫の笑い顔がある)


 渋沢は、その温もりを掌のなかに握りしめた。


     *


 夜、渋沢は館の物見台に立っていた。


 ゼーバルトが真新しい名簿を抱えて隣に来た。墨で消えた名は、すべて書き戻されている。それどころか、朝より数が増えていた。神官との問答を見た者たちが、新たに並んだのだという。


「殿。名は、五十を超えましてございます」


「結構なことです」


 渋沢は微笑んだ。だがその目は、集まった銅貨の山に落ちていた。ひと山、ふた山。数えるほどの、銅貨。


(正直に申せば……まるで、足りぬ)


 五十人の銅貨を集めても、加工場の一つも建ちはしない。甕を十も据えれば、それで尽きる。志は集まった。だが、志だけでは煉瓦は積めなかった。


(大きな元手が要る。誰か一人、大きく張ってくれる者が——)


 その時、階を上る足音がした。使いの者が一通の書状を届けに来る。王都の、重い封蝋。オーレンダール商会の印だった。


 渋沢は蝋を割った。流麗な文字が、こう記している。


『小僧。お前の藍は、飛ぶように売れておる。だが、このままでは品切れだ。何か手はあるのか。あるなら——私も一枚、噛ませろ』


 渋沢はその一文を読んで、思わず笑った。


(あの狸め。もう、嗅ぎつけたか)


 かつての宿敵が、今は誰より早く金の匂いを嗅ぎ当てる。ガルムが「噛ませろ」と書くなら、この商いは本物だ。


 渋沢は掌に残った銅貨の感触を思い出した。老婆の、温かい一枚。あれと、王都の大商人の大金。桁は、まるで違う。だが合本の帳面の上では、どちらも同じ、一つの出資だった。


(銅貨一枚の老婆も、王都の大商人も、同じ名簿に、肩を並べて載る)


 それは、この世界の誰も見たことのない一枚になるはずだった。


(面白い。——実に、面白い)


 物見台の下では、夜の市の松明が藍色の闇に、ひとつ、またひとつと灯っていた。



最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


第2章に入って最初の壁は、剣でも金でもなく「信仰」でした。武神アレス信仰は、この世界で商いや蓄財を『卑しい』とする国教です。作品を設計した時から、渋沢の合本がいつか必ずぶつかる壁として置いていました。


この話で気をつけたのは、神官オズヴァルトを「悪役」にしないことでした。彼は嘘をついているわけではない。百年つづいた教えを、真剣に信じているだけです。だからこそ渋沢も、信仰を頭ごなしに否定しません。「道理の通らぬ利は、私も卑しいと思います」——ここから入るのが、渋沢栄一という人だと思うのです。論語と算盤。道徳と経済は両立する。彼が生涯かけて証明したのは、まさにこの一点でした。


いちばん書きたかったのは、銅貨を返しに来た老婆が、もう一度それを握り直す場面です。理屈では信仰に勝てない。でも「孫が笑っているかどうか」には、信仰も敵わない。彼女のその一言が、五十人ぶんの名簿より重いのだと、書きながら思いました。


そして最後、ガルムの手紙です。かつての宿敵が誰より早く金の匂いを嗅ぎつける。彼が「噛ませろ」と書いてくるところは、書いていて思わず笑ってしまいました。銅貨一枚のおばあさんと、王都の大商人が、同じ名簿に肩を並べる。次話、いよいよその桁違いの二人が、一つの帳面に載ります。


☆評価・ブックマーク・感想をいただけると、次話の励みになります。

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