民とともに稼ぐ領主
その広場を、渋沢は知っていた。
二度目の生で、初めて立った場所だ。あの日ここには、鞭の音が鳴っていた。縄を打たれた農夫。すすり泣く声。地に伏せた領民たち。転生して最初に見たのは、この広場の凍りついた恐怖だった。
半年が過ぎた。
同じ広場に、今は市が立っている。
藍で染めた反物が、店先に何反も垂れている。野菜を積んだ荷車。銅貨を数える音。値切る女房の声。どこかで子どもが笑って駆けていく。
渋沢は人混みの中を、ゆっくりと歩いた。
「領主さま」
通りすがりの老婆が、頭を下げた。籠いっぱいの藍葉を抱えている。
「今年は豊作でございますよ。買取所のおかげで、孫にも新しい服を買ってやれました」
「それは、なにより」
渋沢が微笑むと、老婆は嬉しそうに去っていった。
かつて、この広場で鞭に怯えていた者たちだ。渋沢を見れば地に伏せ、目も合わせなかった。その同じ人々が、今は笑って話しかけてくる。
(——あれは、初めてこの地に立った日のことだ)
縄を打たれた農夫をかばい、鞭を止めた。「税は返す。蔵は開く」と告げたとき、領民たちは誰も信じなかった。何の罠だ、と怯えた目で渋沢を見た。
(あの目が、今は……)
込み上げるものがあった。
前の生で、渋沢は五百を超える会社を興した。六百の事業を育てた。一つの国の、経済の礎を築いたと、人は言う。
(だが……)
この小さな広場の、この笑い声ほど、胸を打つものはなかった。九十一年を生きた男の目に、不覚にも熱いものがにじんだ。
(金では買えぬものだ。これは)
*
「あんた」
聞き慣れた声がした。振り向くと、ニケが立っている。手には藍の反物を抱えていた。
「探したよ。こんな人混みの中に、領主が一人で紛れてるなんてね」
「市を見たくてね」渋沢は言った。「いい眺めです」
ニケは渋沢の隣に並び、広場を見渡した。しばらく、二人とも黙っていた。売り買いの声が、二人のあいだを流れていく。
「……あたしさ」ニケがぽつりと言った。「前に、言ったよね。まだ信じたわけじゃない、もう少し見ててやるって」
「言いましたな」
「あれ、取り消す」ニケは反物を抱え直した。「あんたのやることは、本物だ。村のみんなが、飢えずに冬を越せる。そんな年は、あたしが生まれてから一度もなかった」
その声が、少し震えていた。
「礼を言うよ。領主さま」
ニケが「領主さま」と呼んだのは、初めてだった。渋沢は少し驚き、それからゆっくりと首を振った。
「礼なら、あなた自身に」
「え」
「近隣の村を束ねたのは、あなたです。私ではない。あなたが藁を束ねてくれたから、藍は折れなかった」渋沢は微笑んだ。「私は仕組みを作っただけ。動かしたのは、あなたや村の人たちです」
ニケは何か言いかけて、口をつぐんだ。それから、照れたように鼻の頭を掻いた。
「……調子いいんだから、あんたは」
*
その日の午後、渋沢は広場に村人たちを集めた。
ブルーメンタール領の者だけではない。トネリ、シラン、カレン——近隣の村からも、代表が集まっている。皆、藍で潤い始めた村の顔ぶれだった。
渋沢は、木箱の上に立った。
「皆さんに、相談があります」
人々がざわめいた。領主が「相談」と言う。それだけで、この地では珍しいことだった。
「藍は売れるようになりました。ですが、もっと作りたくとも元手が足りない。甕も加工場も、一つの村ではとても買えない。——そうですな」
村人たちが頷いた。それは、皆が抱える悩みだった。
「そこで一つ、仕組みを作ろうと思います」
渋沢は、懐から一枚の紙を取り出した。そこには、簡単な図が描かれている。中心に一つの丸。そこへ、いくつもの小さな丸から線が引かれていた。
「皆で少しずつ、金を出し合うのです。出せる者は多く、出せぬ者は少なく。その金で、大きな加工場を建てる。藍を寝かせる甕を、いくつも据える」
「そんな……」一人の男が声を上げた。「そんな大金、誰が出すんで」
「一人では出せません」渋沢は頷いた。「ですが、百人が銅貨を一枚ずつ出せば、百枚になる。千人なら、千枚だ。そうして得た儲けは、出した銅貨の数だけ皆で分ける。誰かが独り占めするのではない。出した皆が、持ち主になる」
人々が、顔を見合わせた。
「その仕組みに、名を付けました」渋沢は言った。「合本。——皆で本を合わせる、という意味です」
しんと、広場が静まった。
誰も、そんな話を聞いたことがなかった。金持ちが金を出し、貧しい者が使われる。それがこの世の常だった。皆が少しずつ持ち主になる、などという話は。
「領主さま」やがて、先ほどの老婆が口を開いた。「あたしらのような者でも……その、持ち主に、なれるんですかい」
「なれます」渋沢は、はっきりと言った。「銅貨一枚からでも。この仕組みは身分を問いません。貴族も平民も、皆おなじ一人の出資者です」
老婆の目に、みるみる涙が溜まった。
渋沢は、広場を見渡した。かつて鞭に怯えた顔。今は希望に輝く顔。その一つ一つに、語りかけるように言った。
「一人の金持ちより、皆が食える村を。——私が欲しいのは、それだけです」
誰かが、手を叩いた。
一つ、また一つと、拍手が広がっていく。やがて広場全体が、割れんばかりの喝采に包まれた。かつて悲鳴が響いた同じ場所に、今は歓声が満ちていた。
*
喝采が収まらぬうちに、あの老婆が前へ出てきた。
皺だらけの手に、銅貨が一枚、握られている。
「領主さま。あたしも……持ち主に、なりたい」
その手が、震えていた。長く土を掘り、藍を摘んできた手だ。渋沢は木箱を降り、その銅貨を両手で受け取った。
「たしかに。——お名前を」
傍らでゼーバルトが、真新しい帳面を開いた。老婆が名を告げると、老執事は一枚目に、その名を書きつけた。この世界で初めての、出資者の名だった。
それを見て、一人が動いた。また一人。
気づけば、木箱の前に長い列ができていた。銅貨を握った村人たちだ。男も女も、老いも若きもいる。ニケも列の後ろに並んでいた。母の袖を引く子どもまでいる。
ゼーバルトの筆が、名を刻んでいく。一枚、また一枚と、帳面の名が増えていった。
渋沢は、受け取った銅貨の山に目を落とした。ひと山では、たいした額ではない。だがこの一枚ずつに、名前があり、暮らしがあり、明日への望みがある。
(数字が、人の希望になる。——これが、私のやりたかったことです)
*
夕暮れ、渋沢は館の物見台から、広場を見下ろしていた。
市はそろそろ店じまいだ。だが人々の顔は、まだ明るい。合本の話で持ちきりなのだろう。あちこちで、額を寄せて相談する姿が見えた。
「見事なものだな」
背後で、ボルツの声がした。
「あんたは剣の一本も抜かずに、領を変えちまった。半年前、俺はあんたを信じちゃいなかった。悪いことをした」
「いいのです」渋沢は微笑んだ。「疑うのは当然のこと。前の当主が、それだけのことをしたのですから」
ゼーバルトも、いつのまにか隣に立っていた。老執事の目は、また潤んでいる。
「殿。手前は、長生きをしてよかった」
渋沢は答えず、ただ広場を見つめた。
(信用は、金では買えません)
(一枚ずつ、稼ぐものです。銅貨のように。——一日、一日)
半年前、この地には何もなかった。あったのは、怯えと、借財と、毀損した信用だけ。そこから、ここまで来た。
(だが、これはまだ入り口だ)
王都には、両替商の連合がある。貨幣を握り、金利を吊り上げ、民から搾り取る者たちが。合本の仕組みを大きく育てれば、いずれ、あの巨大な壁とも向き合うことになる。
(皆で出し合う金が、いつか銀行になる。国を動かす力になる)
(二度目の生は——まだ、始まったばかりです)
風が吹いた。
広場の店先で、藍の反物が、いっせいにはためいた。かつて鞭が鳴った場所に、今は藍色の旗のように、それがひるがえっている。
渋沢は、深く息を吸った。藍の匂いが、夕風に乗って物見台まで届いていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
第8話をもって、第1章「悪徳領主の更生編」が完結です。ここまで追ってくださった方、本当にありがとうございます。
この話でどうしても書きたかったのは、冒頭とラストの広場です。第1話で渋沢が最初に立ったのは、鞭の音が鳴り、領民が地に伏せる、あの恐怖の広場でした。それを半年後、同じ場所で、藍の反物がはためき歓声が満ちる広場に変えたかった。悲鳴が歓声に変わる。ただそれだけのことを、八話かけてやりたかったのだと思います。
渋沢が涙するシーンは、書いている自分も少し泣きました。前世で五百の会社を興した「日本資本主義の父」が、剣も魔法もない異世界で、たった一つの村の笑い声に胸を打たれる。彼にとって偉業の大小は、会社の数ではないのだと、書きながら気づかされました。
「合本」は渋沢栄一が実際に生涯をかけて広めた言葉です。今でいう株式会社。一人では起こせないことを、皆で本を合わせて成す。彼の本当のチートは、この一点にありました。
次章からは、いよいよ王都が舞台です。貨幣を握る両替商の連合という、もっと大きな壁が待っています。渋沢の「循環」は、独占の都でどこまで通じるのか。第2章も、どうぞよろしくお願いします。
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