盗人に、算盤を
地下の房から、算盤を弾く音が絶え間なく漏れていた。
パチ、パチ、と珠のはじける音。それが存外に速く淀みがない。渋沢は石段の途中で足を止め、しばらくその音に聴き入った。
(達者なものだ)
半年前、この音の主を牢に落としたのは渋沢自身だった。横領代官ボルグ。税収の記録と蔵の実数の差——金貨四百枚を、帳簿を繰る間に見抜かれた男である。搾り取った分を利息つきで返し終えるまで、房で領の帳簿写しの労役に就いていた。
(人は、罰した。だが——)
珠の走る音は、罪を悔いる音には聞こえない。ただ速く正確で、どこか楽しげですらある。
(あの速さは牢では消えぬ。消すには惜しい)
渋沢は石段を下りた。
*
格子の向こうで、ボルグが算盤から顔を上げた。半年前はでっぷりと脂ぎっていた体が、ひとまわり萎んでいる。渋沢の姿を認めると、その顔がみるみる強張った。
「ヴ、ヴァルド様……!」ボルグは算盤を取り落とした。「な、なにか、この俺に、落ち度で。返済なら耳を揃えて、あとひと月、いや半月で——」
「返済の話ではありません」渋沢は微笑んだ。「仕事の話です」
「……仕事」
「あなたに、帳簿方をやっていただきたい」
ボルグはぽかんと口を開けた。それからじわりと、下卑た笑いを浮かべる。
「ひひ。ご冗談を。この俺を、また使うと。四百枚くすねた、この俺を」小さな目の奥で、何かがせわしなく動いた。「はは、読めましたぜ。さては、また俺に罪をかぶせて、都合の悪い勘定を——」
「企んでなど、おりません」
渋沢がにこりと笑った。整った酷薄な美形の浮かべる笑みに、ボルグの喉がひくりと鳴る。
(何を出しても、この顔で笑い返されると、かえって薄気味が悪いらしい。——中身は好々爺なのだがな)
「純粋に、惜しいのです。あなたの、その算盤が」
「……惜しい?」
渋沢は格子越しに、一枚の紙を差し入れた。領の帳簿の写しである。その余白に、ボルグが手すさびで足した計算が小さく書き散らしてあった。
「この余白の合計。あなたが足したものですな。——一の位まで、合っております」
ボルグがばつ悪そうに目をそらした。
「算盤に、罪はありません」渋沢は言った。「あなたは、それを搾り取るのに使った。ですが同じ算盤で、人を潤すこともできる。奪うのに使うか、養うのに使うか。決めるのは、握る人です」
ボルグは答えなかった。ただ、取り落とした算盤をちらりと見た。
*
その日の夕、渋沢が房の一件を告げると、館の広間は荒れた。
「正気なの、あんた」
ニケが卓を叩いた。目が燃えている。
「あいつだよ。うちの父さんを鞭にかけようとした連中の、大元締めだ。銅貨一枚まで搾り取って、私腹を肥やしてた男を——それを、雇う?」
「斬るべき男だ」ボルツも腕を組んだ。「一度牢に落とした盗人を、なぜ懐に入れる。示しがつかん」
「人は、罰しました」渋沢は静かに答えた。「牢に落とし、盗んだ分は利息をつけて返させた。罪は、償わせています」
「それでも足りないよ」
「ええ。ですが罪と才は、別のものです」渋沢はニケを見た。「私は、あの男の罪を憎みます。ですが、あの算盤まで牢に入れておくのは損です。損をするのは、領のほうだ」
「損だなんて」
「憎んでいるのは、あの算盤の使い道です」
ニケが言葉に詰まった。
「それに、案じることはありません」渋沢は続けた。「これから領がつける帳簿は、一つの金を二度書きます。入りと出を、右と左に。どこかで一枚ごまかせば、右と左がたちどころに食い違う。あの男が二度と盗めぬ檻を、私は算盤で作ります。——牢よりも、よほど固い檻を」
ボルツがふっと息を吐いた。
「帳簿が、牢か。あんたの言うことは、いつも妙な形をしている」
「見張ってくださって、結構です」渋沢は頷いた。「あなたとニケのその目が、なにより固い錠前になる」
ニケはまだ何か言いたげだったが、腕を組んでそっぽを向いた。
「……一枚でも、くすねてみな」低く言う。「今度はあたしが、鞭を持つからね」
*
数日後、広場の集会所に村人が集まった。合本の、二度目の顔合わせである。
銅貨を握った者もいれば、まだ疑わしげな者もいる。渋沢は卓の上に六つの椀を伏せて並べた。かつてニケの村で種を蒔いたときと同じ形だった。
「では、おさらいです。皆が銅貨を一枚ずつ、この椀に——」
「なあ、領主さま」一人の老爺がおずおずと手を挙げた。「その銅貨は、増えて返るんだよな。なら、いっそ畑に埋めときゃあ勝手に増えるんじゃねえのか」
しんとした間があった。渋沢は噴き出しそうになるのをこらえた。
「……畑では、増えません」真顔で言う。「銅貨は、働かせて初めて増える。埋めては、ただ湿るだけです」
どっと笑いが起きた。
「取られるんじゃねえのか、結局」別の男が言う。「お上に金を出せと言われて、返ってきた例しがねえ」
「出すのです。取るのとは、逆です」渋沢は椀を一つ、真ん中へ寄せた。「六つの村が一枚ずつ出せば、六枚。百人なら、百枚。その金で大きな甕を買い、加工場を建てる。藍が売れたら、儲けを出した銅貨の数だけ分ける。——これを、分け前と申します」
「損をしたら」
「出した一枚きり、失います。家も畑も、取られはしません」渋沢は指を一本立てた。「出した以上には、決して減らない。それが、この仕組みの約束です」
村人たちが顔を見合わせた。畑に埋めるよりは、まだ分かる、という顔だった。
と、卓の端で算盤の音が鳴りはじめた。
ボルグだった。牢を出され、帳簿方の腕に真新しい筒袖をつけている。村人が銅貨を置くたび名を尋ね、几帳面に帳面へ書きつけ、珠を弾く。パチ、パチ、と正確な音が集会所に鳴った。
その手つきに淀みはない。かつて領民から一枚残らず搾り取った同じ指が、今は一枚ずつ村人の名を刻んでいる。
ニケが腕を組んだまま、その手元を睨んでいた。やがてぽつりと言った。
「……速いね。忌々しいけど」
「腕は、本物です」渋沢は微笑んだ。「あとは、向ける先が変わるだけ」
ボルグは村人の名を書きながら、時折奇妙な顔をした。搾り取るときには、名などいらなかった。数だけを見ていればよかった。だが今は、一枚ごとに名がある。老婆の名、子の名、指の節くれ立った男の名。
「……けっ」ボルグが小さく舌打ちした。「調子が、狂うぜ」
だが、その手は止まらなかった。
*
夜、渋沢は帳場に残り、その日の名簿を検めていた。名は七十を超えている。
「殿」ゼーバルトが茶を運んできた。「ボルグめ、存外に働きますな。手前は、いまだに信じられませんが」
「錠前は、ボルツ殿とニケが掛けてくれます」渋沢は帳面をめくった。「あの算盤を遊ばせておくのは、惜しい」
だが、渋沢の目は名簿の末尾で止まっていた。七十人。銅貨の山は日ごとに高くなっている。それでも——
(甕は買える。だが、加工場は、まだ遠い)
志は集まった。人も帳簿も揃った。だが、小さな銅貨をいくら積んでも大きな煉瓦には届かない。屋台骨を支える太い柱が要る。
(一本、大きな柱が。……ちょうど、名乗りを上げた御仁がいる)
渋沢は懐から、一通の書状を取り出した。王都の重い封蝋。ガルムの手紙だった。『私も一枚、噛ませろ』。
(あの狸に、一枚どころか、大黒柱になってもらいましょう)
渋沢は筆を執り、返事をしたためた。短い一文だった。
『では、王都で。——桁の大きな話を、持って参ります』
文を封じ、筆を置く。
地下から、まだ算盤の音が聞こえていた。パチ、パチ、と夜更けまで。半年前、あの音は民から搾り取った金を数えていた。今は、民が差し出した金を一枚ずつ記している。
同じ音が、まるで違うものに聞こえた。
渋沢は茶を一口すすった。冷めかけた茶が、ほのかに甘かった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
今回は、少し息を抜いた回です。神官との対峙が重かったぶん、渋沢の人たらしぶりと、村人たちのにぎやかさで、肩の力を抜いて書きました。銅貨を畑に埋めれば増えるんじゃないか、というお爺さんのくだりは、書いていて自分でも笑ってしまいました。新しい仕組みが村に入るとき、きっとこういう可笑しな誤解が、あちこちで起きたはずなのです。
書きたかったのは、ボルグの再登場です。第1話で牢に落とした、あの横領代官。彼をもう一度、しかも帳簿方として引っぱり出すのは、渋沢栄一という人ならきっとやる、と思っていました。実際の渋沢も、「その罪は憎むが、才は惜しむ」という考えの人でした。罪を罰することと、才を活かすことは、別の話なのだと。
面白いのは、複式簿記——一つの金を右と左に二度書く帳簿が、そのまま「盗ませない檻」になることです。渋沢の本当のチートは、剣でも魔法でもなく、こういう「仕組みで人を縛らずに悪事だけを縛る」発明でした。ボルグを牢に戻さず、算盤の前に座らせる。牢より固い檻は、鉄格子ではなく、帳面の中にあるのです。
搾り取るときには数しか見なかった男が、今は一枚ごとに名を書いている。「調子が狂うぜ」と舌打ちしながら、それでも手が止まらない。彼が改心したとは、まだ書きません。ただ、向ける先が変わっただけ。それで十分だと思うのです。
次話、いよいよ渋沢は王都へ。銅貨一枚のお婆さんと、王都一の大商人ガルムが、同じ帳面に載ります。どうぞお楽しみに。
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