商人と商人
王都、オーレンダール商会の本館。
ブルーメンタールから、馬車で三日。渋沢は二度目の生で初めて、王都の土を踏んだ。石畳の大通り、行き交う商人、立ち並ぶ問屋。富が目に見える形で流れている。その流れのすべてを握る男に、これから会う。
磨き上げられた大理石の広間に、渋沢は通された。天井は高く、壁一面に各地の織物が飾られている。そのどれもが鮮やかな藍で染められていた。この一枚一枚が、あの村々の畑から生まれたのだ。
広間そのものが、力の誇示だった。渋沢の館の広間が、いくつ入るだろうか。床は顔が映るほどに磨かれ、柱の一本ずつに精緻な彫刻が施されている。二年の暴政で荒れ果てたブルーメンタールの館とは、何もかもが違った。
(王都の富の、いったいどれほどが、この一軒に吸い上げられているのか)
奥の椅子に、一人の男が座っていた。
でっぷりと肥えた体躯。仕立ての良い衣。指には金の指輪がいくつも光っている。だが渋沢の目を引いたのは、その手だった。分厚く、節くれだち、荷を担いで生きてきた者の手。
(なるほど。噂どおりの、叩き上げですな)
「よく来た、田舎の領主どの」男は座ったまま言った。「オーレンダール商会総帥、ガルムだ」
「ブルーメンタール男爵、ヴァルドと申します」
渋沢は一礼した。後ろに控えたボルツが油断なく広間を見回している。こちらは渋沢とボルツの二人きり。対して商会側は、屈強な用心棒が壁際に何人も並んでいた。
「さて」ガルムがにやりと笑った。「わざわざ王都まで、何をしに来た。命乞いか」
「命乞い、とは」
「とぼけるな。お前の藍玉は、一粒も王都に入れん。街道も問屋もギルドも、すべて私が握っている。買取所とやらは、じきに売れ残りの山に埋もれて潰れるさ」
「この百年だ、小僧」ガルムは身を乗り出した。「この百年、王都に流れる藍のひと粒残らず、この私が値を決めてきた。染物屋も問屋も、私に頭を下げねば藍ひとつ手に入らん。国王陛下の衣装ですら、もとを辿れば私の藍だ」肥えた腹を揺すって笑う。「その私に、田舎の男爵が値を吊り上げて喧嘩を売った。可愛いものよ。だが、目障りではある」
ガルムは指輪を鳴らした。「だから会いに来た。買取所を畳むなら、藍は今までどおり買ってやる。どうだ、悪い話ではあるまい」
ボルツの拳に力がこもるのが分かった。
渋沢は静かに微笑んだ。
「良いお話です。ですが一つ、確かめさせてください」
「言ってみろ」
「総帥は、その藍を、どこから仕入れておられます」
ガルムの眉がわずかに動いた。
「……何」
「王都の染物は、藍がなければ一反も染まりません。ではその藍は、どこから来るのか。街道でも、問屋でもない。畑からです。土から穫れるものです」渋沢は壁の織物を見上げた。「そして、その藍の畑は——ブルーメンタール領と、その近隣にございます」
「ふん。だから何だ。藍など、どの村からでも買える」
「ええ。今までは」
渋沢は、懐にゆっくりと手を入れた。ガルムの視線が、その手元を追う。取り出したのは、一枚の古びた羊皮紙だった。村の名がびっしりと連ねてある。
「トネリ、シラン、カレン。近隣の村々です。これらの村の藍は、もう行商人には売られません。すべて、私の買取所に集まっております」
広間が、しんとした。
ガルムの指輪を鳴らす音が、止まった。
「近隣の藍の、およそ半分。それが今、私の手元にございます」渋沢は紙を畳んだ。「総帥。あなたが私の藍玉を止めているあいだ、私は、あなたへ流れる藍を、細らせておりました」
ガルムの顔から、笑みが消えた。
「……ならば」ガルムが絞り出すように言った。「遠国から買うまでよ。藍など、南の国にもあろう」
「ございます」渋沢は頷いた。「ですが遠国の藍は、質が落ちます。運ぶだけで値は倍。近隣の藍を失えば、商会の染物は、高く、そして悪くなる。王都のお客が、それを黙って許しますかな」
ガルムは答えられなかった。
沈黙が、広間に降りた。
重い沈黙だった。壁際の用心棒たちが顔を見合わせている。何が起きたのか、彼らにはまだ分からない。だが主人の様子が変わったことだけは、感じ取ったようだった。
ボルツも息を殺していた。剣を握るでもなく、ただ二人の商人のあいだに走った、目に見えぬ火花を見つめている。
ガルムは、動かなかった。長いあいだ、渋沢を見つめている。その目の奥で、算盤が高速で弾かれているのが分かった。藍が入らなければ、染物は染まらない。染物が染まらなければ、商会の商いは止まる。この田舎領主は、王都の染物の喉元を握っている。
「……貴様」ガルムの声が、低くなった。「私を、脅しに来たか」
「いいえ」
渋沢はまっすぐガルムを見返した。
「脅すつもりなら、藍を止めたまま、黙っていればよろしい。ひと月もすれば、王都の染物は干上がる。あなたは、困る」
「ならば、なぜ来た」
「潰し合えば、二人とも痩せるからです」
渋沢は一歩、前へ出た。ボルツがはっと息を呑む。用心棒たちが身構えた。
「私は、あなたの喉元を握りました。——その上で、申し上げます。総帥。手を、組みませんか」
ガルムは、答えなかった。
その巨体がゆっくりと椅子から立ち上がる。ボルツが剣の柄に手をかけた。その場の誰もが、息を詰めた。
だが、ガルムは渋沢の前まで来ると——豪快に、笑った。
「はっはっは! 喉元を握った、だと。握った刃を鞘に納めて、手を組もうと来たのか。この私に」
「はい」
「馬鹿な小僧だ。握ったなら、締め上げればいい。そのほうが儲かるだろうが」
「考えてもみろ」ガルムは声を低めた。「王都の染物の喉元を握ったのだぞ。締め上げれば、染物屋はお前に跪く。問屋もギルドも、次々とな。うまくやれば、この私の商会すら、いずれお前のものになる。王都の富が、まるごとお前の手に落ちるのだ」その目が、ぎらりと光った。「それを、みすみす手放すというのか」
「いいえ」渋沢は静かに首を振った。「締め上げれば、あなたは二度と、私と商いをしてくれません。跪かせた染物屋も、隙あらば私を出し抜こうとするでしょう。恐怖で握った手は、恐怖が消えれば離れます。——それは、前の当主が、私の領で証明してくれました」
「……ふん」
「一度きりの儲けと、末永い儲け。長く続くのは、どちらでしょうな」
ガルムの笑いが、止まった。
そして今度は腹の底から、低く唸るように笑い出した。
「面白い。面白い小僧だ」ガルムは分厚い手を差し出した。「いいだろう、乗ってやる。お前の藍を、正規に王都へ流す。その代わり——互いに、たっぷり儲けようぞ」
「ええ。喜んで」
渋沢はその手を握り返した。荷を担いで生きてきた男の手は、厚く、そして温かかった。
「——時に、男爵」ガルムは握った手を離さず、探るように言った。「お前、本当にあの暴君ヴァルドか。人が変わったどころの話ではない。まるで、何十年も商いで飯を食ってきた古狸だ」
「はて」渋沢はとぼけて微笑んだ。「昨夜、少々、深酒をしたもので」
ガルムは一瞬きょとんとし、それから、また腹を抱えて笑った。その笑い声が、大理石の広間にいつまでも響いていた。
*
商会を出ると、王都の空は藍色に暮れかけていた。
「……勝った、のですか」ボルツが、まだ信じられぬという顔で言った。「あの化け物と、剣の一本も交えず」
「勝ち負けの話では、ありません」渋沢は微笑んだ。「今日から、あの方は、私の商売敵ではなく——商売仲間です」
ボルツはしばらく渋沢の横顔を見ていた。それから、ふっと肩の力を抜いた。
「……半年の猶予は、もう要らんな」
その声から、これまでの渋い響きが消えていた。剣を信じて生きてきた男が、剣を一度も抜かぬまま勝つ戦を、初めて目にしたのだ。
渋沢は答えず、ただ王都の空を見上げた。
暮れゆく空は、深い藍色。あの村々の畑と、同じ色をしていた。
(さあ、ここからです)
(奪い合うばかりの世界に、循環を。——二度目の生は、まだ、始まったばかり)
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
第6話は、この物語の最初の大きな山、ガルムとの会見です。
ここまで渋沢は、劣勢に立たされ、窮地に追い込まれ、それでも「商会も藍は作れない」という一点を頼りに、近隣の村を束ねてきました。その積み重ねが、この会見の卓で、たった一枚の羊皮紙になって効きます。「近隣の藍は、もう私の買取所に集まっております」——この一言のために、渋沢は三話ぶんの遠回りをしてきました。
今回いちばん書きたかったのは、渋沢が「潰せるのに、潰さない」ところです。喉元を握ったなら、締め上げたほうが目先は儲かる。それをせず、あえて手を組む。奪い合いより分け合うほうが、長く豊かになる——渋沢栄一が生涯をかけて証明したこの信念を、説教ではなく、一つの選択で描きたいと思いました。
ガルムのことも、書いていて好きになりました。叩き上げの、豪快な男。彼が渋沢を認める「面白い小僧だ」の一言が、今回のいちばんのお気に入りです。
次話、ガルムと結んだ約束が、領にどんな未来を運んでくるのか。そして、次の大きな構想の芽が、いよいよ顔を出します。
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