藍でつなぐ
三日後の朝、ニケが館に来た。
供も連れず、藍染めの作業着のまま執務室へ通された。渋沢の前に立つと、開口一番に言った。
「やる」
「……ニケ」
「近隣の村をまとめる話。あれ、あたしがやる」ニケは睨むように渋沢を見た。「言っとくけど、あんたを信じたわけじゃないからね」
「ええ。存じています」
「うちの村が息を吹き返したのは本当のことだ。それを隣の村にも分けたい。ただ、それだけ」
渋沢は深く頷いた。
(この娘は、私のためには動かない。飢えた村のために動く。——それでいい。むしろそのほうが強い)
「一つだけ、聞かせてください」渋沢は言った。「怖くは、ありませんか。村々を背負うのは、重い」
ニケは一瞬、口を結んだ。返事の代わりに拳を握る。
「怖いよ。……でも、うちの父さんが鞭に縛られてたとき、誰も助けてくれなかった。あんたが来るまで」ニケは目を伏せた。「だから今度は、あたしが、誰かの『助けが来るまで』になる。それだけ」
渋沢はしばらく言葉が出なかった。
初めて会ったとき、この娘は涙を溜めて自分を睨んでいた。白々しい、と。その同じ娘が今、他人の村のために自ら重荷を背負おうとしている。
(信用は一枚ずつ稼ぐもの。——けれど時には、向こうから差し出されることもある)
「では、共に参りましょう。私も行きます」
「あんたも? 領主が、じきじきに?」
「ええ。数字の話は、私がしたほうが早い。あなたは、心の話をしてください。——二人で、ちょうどいい」
*
最初に向かったのは、街道を半日ほど下ったシランという村だった。
痩せた畑が丘の斜面にへばりついている。どの家も屋根の藁は傷み、子供らは骨が浮くほど細かった。ブルーメンタール領のかつての姿が、そこにあった。
村長は渋沢の顔を見るなり、あとずさった。
「ブ、ブルーメンタールの、領主様……」
「本日は領主としてではなく、商いの話に参りました」
「商い……はて、我らのような貧しい村に、いったい何の」
渋沢が藍の買取所の話を切り出す。村長の顔は、みるみる曇っていった。話が終わらぬうちに首を横に振る。
「……お断り、いたします」
「ほう。理由を、伺っても」
「失礼ながら、ブルーメンタールの領主様といえば、近隣に名を轟かせた、その、悪名の御方。甘い話には裏がある。藍を集めさせておいて、あとで根こそぎ取り上げる。そういう魂胆でしょう」
渋沢は苦笑した。
(また、これですな。前の当主の遺産は根が深い)
そのときニケが前に出た。
「あたしは隣のトネリ村の、ニケっていう」
「トネリの……あんた、あの暴君に鞭打たれかけた家の娘か」
「そう。その暴君が、変わったんだ。……信じられないだろ。あたしも、信じてなかった」ニケはまっすぐ村長を見た。「でも、うちの村は今、飢えてない。藍をまっとうな値で買ってもらえるからだ。あたしの父さんは、今年、傷んだ屋根を直した」
「屋根を……」
「疑うなら、うちの村を見に来ればいい。銀貨も藍玉も、その目で見てから決めな。あたしは、嘘をつきに来たんじゃない」
村長はニケの目を、じっと見返した。
その目にあったのは、領主への恐れとは違った。同じ土を耕す者どうしの、値踏みだった。
*
シランの村長は三日後、自ら買取所に藍を持ってきた。おそるおそる、けれど確かに。渋沢が約束どおりの銀貨を渡す。村長は震える手でそれを握り、しばらく動けずにいた。
「本当に……買い叩かれ、ない」
「ええ。これが、当たり前の商いです」
噂は、また金より速く回った。
シランが潤ったと聞けば、その隣の村が様子を見に来る。ニケが心で説き、渋沢が数字で理を通す。二人が村に入るたび、警戒の顔が一つ、また一つとほどけていった。
だが、村々を束ねる道は、そこからが難しかった。
四つ目に訪ねたカレンという村で、渋沢とニケは思わぬ壁にぶつかった。村長が青ざめた顔で告げたのだ。
「お話は、ありがたい。ですが……先日、オーレンダール商会の行商人が参りまして。ブルーメンタールの買取所に藍を出せば、商会は二度とこの村から買わぬ、と」
「ほう」渋沢の目がすっと細くなった。
「うちは半分を商会に売って食いつないでおります。買取所は魅力ですが、大きな商会にそっぽを向かれれば……」村長はうなだれた。「どちらかを選べと言われれば、商会の顔色をうかがうしかありません」
ニケが悔しげに唇を噛んだ。行商人が、自分たちの先を回って村を脅していたのだ。
渋沢はしばらく考え、口を開いた。
「村長。一つ伺います。商会は、なぜわざわざ、そんな脅しをかけるのでしょうな」
「なぜ、とは……」
「脅すというのは困っている証拠です。この地方の藍がなくとも平気なら、放っておけばいい。わざわざ人を走らせ、村を脅して回る。それは商会が、この地方の藍を失うのを恐れている証しです」
村長がはっと顔を上げた。
「あなたがたが一人ひとりばらばらに売るから、買い叩かれ、脅される。ですが近隣の村が束になれば、話は逆になります。藍を握っているのは、あなたがたのほうだ」渋沢は言った。「商会は、束ねられた藍を無視できません」
「束に、なれば……」
「一本では折れる藁も、束ねれば大人の力でも折れません」ニケが渋沢の言葉を継いだ。「あたしたちは、もうばらばらじゃない。買取所が束ねてくれる」
村長は長いあいだ黙っていた。それから、ゆっくりと頷いた。
ひと月足らずで、近隣の六つの村が買取所に藍を出すようになった。
買取所の蔵には、近隣から集まる藍が日ごとに山を増やしていく。
(供給が、集まってきた)渋沢はその山を眺めて思った。(王都の染物を染める藍。その半分が、この蔵に集まりつつある。——札が一枚ずつ、手元に増えていく)
*
その頃、王都から返書が届いた。
ゼーバルトが封を検め、声を上げる。
「ヴァルド様。オーレンダール商会の総帥ガルムから……会う、と」
「ほう。来ましたか」
渋沢は文を受け取り目を通した。短い文面だった。日取りと場所だけが記されている。
「ゼーバルト。あのガルムという男、もう少し調べておきたい。何か、分かりましたか」
「はい。それが……」ゼーバルトは声を落とした。「総帥ガルムは、元は平民。それも、荷運びの人足だったそうで」
「人足から、王都一の商会の総帥に」
「はい。若い頃、荷を運ぶだけでは一生浮かばれぬと悟ったそうで。自ら荷を買い、売り、商いを始めた。そうして一代で、街道も問屋もギルドも、藍の流れをことごとく握った……叩き上げの、化け物のような御方です」
「なるほど」渋沢は文を畳んだ。「一代で流れを握った男は、その流れを命より惜しむものです。一度でも手放せば、また人足に逆戻りだと、骨身で知っているのですから」
渋沢の目に、暴君の悪人面とは裏腹の穏やかな光が差した。
「ですが、それは裏を返せば——道理と数字の通じる相手だということ。生まれや身分で威張る貴族より、よほど話が早い」
「では、勝てると」
「勝ち負けの話では、ありません」渋沢は微笑んだ。「奪い合いしか知らぬ男に、分け合うほうがずっと儲かると教えて差し上げるのです」
*
その夜、渋沢は蔵に立った。
かつて腐るのを待つ重荷でしかなかった藍玉の山。それが今は、近隣の村から集まる藍で、静かに、けれど確かにその丈を伸ばしていた。この山こそが、王都の染物を握る供給の元栓だ。
(札は、揃いつつある。ニケが村を束ね、藍が集まる。あとは、この札を手に卓へ着くだけ)
「ゼーバルト。会見の支度を」
「はい。……ヴァルド様。本当に、大丈夫でしょうか。相手は、あの化け物ですぞ」
渋沢は蔵の青い山を見上げた。
「案ずることはありません。私は、あの方を潰しに行くのではない。手を組みに行くのです」
蔵の外では、また一台、藍を積んだ荷車が遠い村から到着したところだった。車輪の音が、夜の底にことことと響いている。
その音は渋沢の耳に、卓に積まれていく札の音のように聞こえた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
第5話は、ニケが答えを出す回です。前話で「少し、考えさせて」と言った彼女が、自分の言葉で「やる」と決める。「今度はあたしが、誰かの『助けが来るまで』になる」——この一行を、彼女に言わせたくて、この回を書きました。
近隣の村を束ねる道は、一筋縄ではいきません。行く先々で「暴君の手先の罠だ」と警戒される。前の当主が積み上げた悪名は、渋沢がどれだけ善政を敷いても、そう簡単には消えないのです。それを溶かすのは、領主の言葉ではなく、同じ土を耕すニケの言葉でした。数字は渋沢、心はニケ。二人でちょうどいい。
そして、いよいよ姿を現し始めた総帥ガルム。荷運びの人足から一代でのし上がった叩き上げ。次話、渋沢はこの男と、同じ卓を挟んで向き合います。奪い合いか、分け合いか。商人と商人の、本物の知恵比べが始まります。
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