売れない藍玉
藍玉が、売れない。
買取所の蔵に、青い塊が山と積み上がっていた。丹念に加工した上等の藍玉だ。生の藍を寝かせ発酵させ、村人たちが手間暇かけて仕上げた宝である。それが今、売る道を失ってただ積まれていく。
王都へ向かう荷車は、もう十日も門を出ていない。出ても関所で突き返されて戻ってくる。オーレンダール商会が街道でこの領の藍を止めているのだ。
「また、突き返されました」
ゼーバルトが力なく報告した。これで三度目だった。
「関所の役人は、なんと」
「『オーレンダール商会の許しなき藍は、通さぬ』と。それだけでございます」
渋沢は積み上がる青い山を見上げた。蔵の中は、むっと藍の匂いがこもっている。本来なら、これは金の匂いのはずだった。それが今は、ただ腐るのを待つ重荷の匂いに変わりつつあった。
*
その日の昼、渋沢は買取所へ足を運んだ。
列は、まだ続いていた。村人たちは、街道が封じられたことを知らない。領主が藍を高く買ってくれる——その約束を信じて、今日も畑から藍を担いでくる。
その列の中に、見覚えのある顔があった。
痩せた、日に焼けた農夫。背に藍の束を負っている。最初の朝、広間で鞭を打たれかけていた、あの男だった。ニケの父である。
男は渋沢に気づくと地面につくほど深く頭を下げた。
「領主様。おかげさまで、今年は娘を奉公に出さずに済みそうです」男は、はにかむように言った。「この藍で、傷んだ屋根を、直してやれます」
渋沢は秤にかけ、約束どおりの銀貨を数えて渡した。一枚も、欠けることなく。
だが、その銀貨を渡す手が、わずかに重かった。
(この銀貨は、蔵から出ていく。そして藍玉は売れず、戻ってこない)
男が何度も礼を言って去っていく。その背を見送りながら、渋沢は思った。この列に並ぶ一人ひとりが、渋沢の約束を信じている。その約束が今、音を立てて崩れかけていた。もし買取所が止まれば、真っ先に飢えるのはこの男だ。もう一度あの広間の、縄で縛られた姿に戻すことになる。
(……それだけは、させられません)
*
その夜。
ゼーバルトが帳簿を抱えて青い顔でやってきた。
「ヴァルド様。蔵の金が、底をつきかけております。二千枚を、切りました」
「藍の買い取りと加工の手間賃で、三千枚がほとんど村へ流れました。藍玉が売れねば、来月の手間賃は払えませぬ」
執務室の隅でボルツが腕を組んで聞いていた。
「藍玉は、いくら積み上がった」
「蔵に、金貨で五千枚ぶんは」
「五千枚が目の前にあって、一枚も金にならん、か」ボルツが低く唸った。「兵はまだ持つ。だが村の手間賃が止まれば、せっかく戻った人心が、また離れるぞ」
渋沢は答えなかった。
二人が下がったあとも渋沢は眠らなかった。
執務室の机に、羊皮紙を広げる。街道。関所。問屋。染物ギルド。商会が握る流通の網を、端から書き出していく。どこかに穴はないか。抜け道はないか。
だが、書けば書くほど、網の目の細かさが浮かび上がるばかりだった。
(遠国へ、別の街道から運ぶか。いや、運賃で藍玉の値が倍になる。それでは売れない)
(王都を通さず、他領で売るか。だめだ、藍玉を使うのは王都の染物ギルドだけ。他に買い手がない)
筆が止まる。
九十一年、商いをやってきた。数えきれぬ壁を越えてきた。だが、こうも見事に出口を塞がれたのは、初めてかもしれなかった。
(……参りましたな)
ろうそくが一本、燃え尽きた。渋沢は新しい一本に火を移し、また羊皮紙に向かう。窓の外は、まだ暗い。
(焦るな。焦れば、見えるものも見えなくなる)
そう己に言い聞かせても、昼間のあの農夫の顔がちらついた。屋根を直してやれる、と笑った、あの顔が。
*
夜が白み始めた頃だった。
渋沢は筆を置いた。
羊皮紙には、商会が握るものがびっしりと書き連ねてある。街道、関所、問屋、ギルド。流通の、すべて。
(商会は、藍の流れを、何もかも握っている)
そこまで思って、渋沢の手が止まった。
(流れ。……そう、流れだ。では、その流れのいちばん上には、何がある)
川には、水源がある。流通という川を、いくら商会が握っていても、そこを流れる水——つまり藍そのものを、商会は作れない。
藍が穫れるのは、この領だ。そして、近隣の村々だ。
(王都の染物は、この地方の藍がなければ、一反も染まらない。商会が扱う藍の、半分はこの近隣から出ている。商会は流れを握っている。だが、元栓を握っているのは、こちらだ)
渋沢の指が、とん、と机を打った。
(向こうが荷を止めるなら、こちらは水を止めればいい。近隣の藍を、すべて買取所に集めてしまえば、商会へ流れる藍が細る。王都の染物が、干上がる)
夜明けの光が窓から差し込んできた。長い夜が、ようやく明けようとしていた。
*
朝、渋沢はボルツとゼーバルトを呼んだ。
「策が、見つかりました」
一晩で顔つきの変わった主人を、ゼーバルトが驚いて見た。この主人がたった一夜で答えを掘り当てたのだ。
渋沢は昨夜の考えを話した。商会は流通を握るが、藍は作れない。近隣の藍を買取所に集めてしまえば、商会の仕入れが細る、と。
「なるほど」ボルツが、口の端を上げた。「向こうが荷を止めるなら、こちらは水を止める、か。……悪くない」
「だが」ボルツが眉を寄せた。「商会には金がある。遠国から藍を買い集めればよかろう」
「遠国の藍は、質が落ちます。運ぶだけで値が倍になる。近隣の藍を失えば、商会の染物は高く、そして悪くなる。王都の客が、それを黙って許しますかな」
ボルツはしばし考え、低く唸った。納得した、という唸りだった。
「ただし」渋沢は表情を引き締めた。「容易ではありません。近隣の村々を、束ねねばならない。買取所を知らぬ村は、まだ商会の行商人に安く売っている。その村々を、こちらへ引き込む。これは、命令ではできません」
「なぜだ。領主の命令で集めればよかろう」
「命令で動かした村は、恐怖が消えれば離れます。前の当主が、それを証明したでしょう」渋沢は苦く笑った。「人を束ねるのは、命令ではなく信用です。そして、その信用を、私はまだ近隣の村には持っていない」
渋沢は窓の外に目をやった。買取所へ続く道を、村人たちが藍を担いで歩いてくる。
(信用を持っている者が、一人だけいる)
*
昼、渋沢は買取所の前に、ニケを呼んだ。
「近隣の村を、まとめる手伝いをしてくれませんか」
「いきなり、なによ」ニケは面食らった。「まとめるって、どういうこと」
渋沢は正直に話した。商会に藍玉の売り先を封じられたこと。このままでは買取所が止まること。それを防ぐには、近隣の藍を集めて商会に対抗するしかないこと。
ニケの顔から、みるみる血の気が引いていく。
「……止まる? 買取所が?」
「今のままなら。ひと月のうちに」
ニケはしばらく黙っていた。それから、絞り出すように言った。
「うちの村は……やっと、息ができるようになったのに」
「ええ。だから、止めません。止めないために、あなたの力が要るのです」渋沢は、深く頭を下げた。「あなたの言葉なら、村に届く。私の言葉より、ずっと」
ニケは渋沢を見つめた。その目に、迷いと、怒りと、何かを堪えるような色が混ざっていた。
「……少し、考えさせて」
それだけ言って、彼女は背を向けた。
その背がいつもより小さく見えた。彼女もまた、崖の縁に立たされたのだ。自分の村と、隣の村と、そのまた隣の暮らしを、その細い肩に載せられて。
(無理を、頼みました)渋沢は思った。(けれど、頼むしかない。——どうか、力を貸してください)
*
その夜、渋沢はゼーバルトに、一通の文を書かせる支度をさせた。
「王都の、オーレンダール商会へ。総帥ガルム殿に、直に」
「な、なんと書くのです」
「『一度、お会いしたい』と」渋沢は筆を執った。「先方の言葉を、そっくりお返ししましょう」
「せ、先方から潰しに来ているのに、こちらから会いに行くのですか」
「ええ。潰しに来た相手ほど、こちらに価値を見ている証拠です。価値のない者を、わざわざ潰しには来ませんからな」
文をしたため、封をする。
蔵では、藍玉の山が今日も積み上がっていた。売れずに積まれた青い塊。それはただの重荷か、それとも、商会の喉元に突きつける一振りの刃か。
まだ、どちらにも転びうる。
(さて。ここからが、正念場ですぞ)
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
第4話は、渋沢の窮地がいちばん深くなる回です。せっかく作った藍玉が、売る道を断たれて蔵に積み上がっていく。しかも、そのことを村人たちはまだ知りません。屋根を直せると笑うニケの父を前に、渋沢は「この人をまた飢えさせるわけにはいかない」と、背に重いものを負います。
答えの見えない夜、渋沢はろうそくを何本も替えながら、商会の握る流通の網を書き出し続けます。そしてようやく気づく——「商会は流れを握っているが、その流れの水(藍)は、商会には作れない」。元栓を握り返す。これが、渋沢の反撃の第一手です。
今回いちばん迷ったのは、ニケに「少し、考えさせて」と言わせたことでした。ここで彼女に即答させることもできたのですが、近隣の村々を束ねるというのは、彼女にとっても重い荷物です。安請け合いさせたくありませんでした。彼女がどう答えを出すのかは、次話で。
そして、こちらから仕掛ける会見。次話、いよいよ渋沢は、王都最大の商会の総帥ガルムと向き合います。
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