戦か、荷か
国境の街から都へ、鉄の道づたいに一つの報せが上ってきた。マルデンの軍が退かぬ、という報せだった。
昨日まで兵糧と藍を運んでいた道が、今朝は戦の噂を運んでいる。渋沢は王城の廊でその噂とすれ違いながら、玉座の間へ向かった。
御前には、すでにファルケンハインが立っていた。鉄灰色の口髭の下で、この老将は隠しきれぬ喜びを滲ませている。
「陛下。機は熟しました」ファルケンハインの声は太く張っていた。「マルデンが退かぬなら、こちらから討ち入るまで。奪って国庫を満たす、千載一遇の刻にございます」
列に並ぶ若い武人たちが、その言葉に胸を張った。彼らにとって戦とは、武勲を示す晴れ舞台だった。
老将の目が、部屋の隅の渋沢へ流れた。
「算盤商人。貴公の鉄の道は、ちょうどよい使い道ができた」ファルケンハインは鼻で笑った。「兵と糧を、あの道でそのまま国境へ運ぶ。銭勘定の道が、初めて武人の役に立つのだ」
渋沢は袖の中で手を握った。皆の銅貨で敷いた道が、そのまま戦の道に読み替えられていく。それでも、ここで気色ばんでも足場は生まれない。渋沢は前へ半歩だけ出た。
「恐れながら申し上げます」渋沢は言った。「その戦は、いくらかかりますか。糧も、傭兵の給金も、今は国庫から一枚も出ませぬ」
「また、それか」ファルケンハインは取り合わなかった。「奪って返すものを、かかるとは言わぬ。武人の評定に、銭の話を持ち込むな」
玉座から、低い声が落ちた。
「ファルケンハイン。支度を進めよ」ラインハルト三世が肘掛けを指で叩いた。「兵を集め、糧を積め。戦の刻に遅れは許さぬ」
老将が満足げに頭を垂れる。
「だが——男爵」王の鷲の目が、こんど渋沢を捉えた。「そなたは、国境へ行け」
「陛下」
「余は、両の手に賭ける」王は言った。「片手で剣を研がせ、もう片手でそなたの算盤を試す。国境で、その通商とやらをやってみせよ。剣より先に国を富ませられるなら、余はそちらを採る」
王の指が、肘掛けの上で一度止まった。
「できねば、戦がそなたの道を先に使う。それだけのことだ」
*
城を出た渋沢を、門の外で待っていた者がいた。
派手な異国の商人服に、指という指の輪を光らせた男。ヴィクトル・シュランゲが、糸のように目を細めて笑っていた。
「男爵。おめでとうございます」シュランゲは揉み手をした。「あなたの鉄の道、実にいい仕事でしたねえ。兵も糧も、国境まですいすいと運べる。おかげで戦が、ぐっと近くなりました」
渋沢は足を止めた。
「あの道は、荷を運ぶために敷きました」
「ええ、ええ。荷も運べますとも」シュランゲは笑った。「剣も鎧も、みんな荷でしてね。わたしの品も、あの道の上をよく走りますよ。いやあ、いい道を敷いてくださった」
男は人が死ぬ話を、贈り物の礼でも言うように弾んだ声で口にする。渋沢は、この声の軽さにいつまでも慣れなかった。
「戦のない国境ほど、退屈なものはありません」シュランゲは指輪をくるりと回した。「男爵は通商をなさるとか。結構なことです。……ですが、まあ無駄でしょうねえ」
「無駄、と申しますと」
「あちらの辺境伯は筋金入りでしてね。算盤の音がいちばん嫌いなお方だ」シュランゲの声は明るいままだった。「わたしも近々、国境のほうへ参ります。商売繁盛の匂いがいたしますのでね」
その言い方に、渋沢の胸の内側がひやりと粟立った。この男は、なぜ国境の向こうの辺境伯の好みまで知っているのか。問い詰める証はない。渋沢はその気味悪さを呑み込んで馬車へ乗った。
*
国境の街フライハーフェンに着いたのは、数日後の昼だった。
街の市は、都のどの市とも違っていた。藍の束の隣に、白く光る岩塩の塊が積まれている。片方はヴェルダンの畑の色、片方はマルデンの山の色だ。それを一人の女が、同じ台の上に並べて売っていた。
「殿……」ゼーバルトが声を落とした。「あちらはマルデンの塩、こちらはヴェルダンの藍。上では両国が睨み合うておりますのに、この台の上では仲良う並んでおります」
老執事は、狐につままれた顔で首をかしげた。
「手前には、どうも呑み込めませぬ。剣を抜きかけておる者と、塩を売り買いしておる者が、同じ国境に暮らしておるとは」
「呑み込めなくて、結構です」渋沢は目を細めた。「これが、私が見に来た国境の顔です」
藍と塩が、同じ台に並んでいる。ヴェルダンの欲しいものをマルデンが持ち、マルデンの欲しいものをヴェルダンが持つ。奪い合う前から、二つの国はもう互いの品を並べて売っていた。
女が、渋沢たちの身なりと、フリッツの抱えた帳面を胡散臭そうに見た。
「お前さんがた、都から来なすったね」女は声をひそめた。「なら、気をつけな。近ごろ悪いのが来るって噂だよ」
「悪いの、とは」渋沢が尋ねた。
「算盤をかついだ化け物さ」女は塩の塊を撫でた。「鉄の道とやらで国じゅうの銭をさらって、塩も藍も、みんな紙切れに化かしちまうんだと。都から青い髪の算盤売りが来るって、みんな言ってるよ」
フリッツが、噴き出しかけて口を押さえた。ボルツは横を向いて肩を揺らしている。
渋沢は、自分の藍色の髪にそっと手をやった。
「……その化け物には、くれぐれも気をつけます」
女は満足げに頷いて、塩を一つ量ってくれた。都で撒かれた囁きが、国境ではもう化け物の姿にまで化けている。渋沢は苦笑を噛み殺した。悪評は、鉄の道より足が速いらしい。
*
その日の午後、渋沢は国境の関を預かる領主のもとへ通された。
グンター・フォン・ローデン辺境伯は、館の広間で待っていた。ファルケンハインより一回り大きな体に、革鎧を無造作に着崩している。頬の古い刀傷が、口を歪めるたびに引き攣れて動いた。
「お前が、噂の算盤売りか」ローデンは渋沢を頭から爪先まで見た。「剣も提げていない。魔力の匂いもしない。こんなものが、ヴェルダンの使いとはな」
渋沢は一礼した。
「ブルーメンタール男爵と申します。今日は戦の話ではなく、商いの話をしに参りました」
「商い」ローデンは吐き捨てた。「俺の土地は、じいさんの代から国境の血で肥えてきた。奪って、奪われて、また奪う。それが国境の暮らしだ」
辺境伯は卓に肘を突いて、身を乗り出した。
「その俺に算盤ひとつ提げてきて、戦をやめて荷を運べと言う。都の連中は、よほど暇と見える」
その目に、ファルケンハインのような硬い信念の色はなかった。あるのはもっと剥き出しの、奪うことそのものへの飢えだった。
「いいか、算盤売り」ローデンの声が低くなった。「戦は、男が算盤を忘れられる唯一の刻だ。それを銭で買い戻そうとするな。興が醒める」
渋沢は、その目をまっすぐ受けた。
「戦って奪う実りは、一度きりです」渋沢は言った。「商って得る実りは、毎年実ります。私は、その毎年のほうをこちらから運びに参りました」
言葉を、いつものように相手の芯へ届かせようとした。ローデンの顔には、届いた気配がまるでなかった。
「毎年、か」辺境伯は鼻を鳴らした。「奪えば、一度で蔵が満ちる。お前の毎年とやらを待つうちに、こちらは飢えて死ぬ」
ローデンが立ち上がった。渋沢を見下ろす影が、広間の卓を覆う。
「話は聞いてやった。だが、これだけは覚えておけ」辺境伯は言った。「次に算盤の音を聞かせたら、その場で国境の外へ叩き出す。荷でなく、お前をな」
人たらしの言葉も、道理の筋も、この男の前では一寸も食い込まなかった。渋沢は、久しぶりに手応えのない相手に立っていた。
*
広間を出た渋沢を、ボルツが待っていた。
「収穫は」
「ありません」渋沢は正直に言った。「今日のところは、壁を一つ見ただけです」
ボルツが、館の中庭へ顎をしゃくった。ローデンの兵が、真新しい剣を帯びて並んでいる。
「妙だな」ボルツが眉を寄せた。「国境の貧乏辺境伯にしては、兵の剣が新しすぎる。どこかの商人が、たっぷり売り込んだ後の面だ」
その中庭の隅を、派手な商人服の背が横切っていくのが見えた。指輪の光が、一つ跳ねる。都の城門で見たのと同じ後ろ姿だった。
男はローデンの兵と何か言葉を交わし、天幕の奥へ消えていく。渋沢は、その背を目で追った。
都で戦を売った同じ男が、国境のこちら側にもいる。渋沢の喉の奥が、ざらりと乾いた。その男の商いが両国でどう繋がっているのか、今の渋沢にはまだ、輪郭までしか掴めない。
*
街のはずれで、鉄の道は途切れていた。
都から延ばしてきた二筋の鉄が、国境の標のところでぷつりと終わっている。その先にはマルデンの土地が、街道も敷かれぬまま夕闇に沈んでいた。ここから先へ荷を通すには、剣でなく約定が要る。その約定を結びに来て、今日はまだ、辺境伯の一言すら持ち帰れずにいる。
坂の下の街では、市の灯がまだ点いていた。塩と藍を並べた台の上で、両国の民が今日もふつうに商っている。上では剣が抜かれかけ、下では塩が量られる。国境とは、そういう場所だった。
渋沢は、懐に一つだけ持ち帰るものを確かめた。あの女が量ってくれた、マルデンの岩塩の欠片だ。通商の理屈も辺境伯の壁も、まだ何ひとつ動かせてはいない。持ち帰れたのは、この一片の塩だけだった。
それでも、この塩がヴェルダンの藍と同じ台に並ぶ限り、荷を交わす道はどこかに必ずある。渋沢はそう己に言い聞かせて、途切れた鉄の道に背を向けた。国境の夜は、槍の穂先のように冷えていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第四十五話は、四十四話の解放から一転、谷へ下りていく回でした。神回のあとにわざと勝たせない——これはずいぶん勇気の要ることで、書いていて何度も「ここで一矢報いさせたい」という誘惑と戦いました。でも主人公が壁の前で手応えなく立ち尽くす夜を通らないと、この先の反転が軽くなってしまう。今日の渋沢が持ち帰れるのは、岩塩の欠片ひとつだけでいい、と決めていました。
新しく出した辺境伯ローデンは、同じ主戦派でもファルケンハイン卿とは別の手触りにしたくて、信念でなく「奪うことそのものへの飢え」で立たせました。硬骨の老将が「儂」なら、この男は「俺」。理屈で押しても、そもそも理屈を聞く気がない相手を、渋沢に初めてぶつけてみたかったのです。
いちばん好きな場面は、塩売りの女が化け物の噂を、当の本人に向かって親切に警告するところでした。悪評が本人より先に国境へ着いている、そのおかしさに救われながら書きました。
次話、いよいよ両国の対話が始まります。ですが、その卓の下では別の手が動いています。どうぞお付き合いください。
☆評価・ブックマーク・感想をいただけると、次章の大きな励みになります。




