鉄の道、通る
夜明け前の峠はまだ黒かった。
斜面をうねる古い道の途中で、荷車が一台立ち往生している。車輪が泥に沈み、馬が白い息を吐いて踏ん張っても荷はびくともしない。御者は鞭を握ったまま、しきりに斜面の上のほうへ目を走らせていた。
「盗賊を、気にしておりますな」ゼーバルトが尾根から見おろした。
「去年の冬、この峠でなめし革の商人が谷へ落とされた」ボルツが腕を組んだ。「荷が遅れれば日が暮れる。日が暮れれば、あの斜面は盗賊のものだ」
渋沢はその古い道を見おろしていた。荷を積んだ者はここで泥と斜面に力を吸われ、そのうえ盗賊に怯えて先を急ぐ。運ぶだけで身をすり減らす道だった。
戦の糧を送るにも、同じ峠が待ち構えている。悪路に糧を滞らせた側が負ける。ファルケンハイン卿でさえ頷いた武人の理屈は、この一枚の斜面の上に立っていた。
「あんたの道は、こっちだったな」ボルツが顎で尾根のもう一方の肩をさした。
そこに二筋の鉄が下っていた。
枕木が等間隔に伏せられ、その上を二本の鉄のレールが朝の薄明かりを細く弾きながら国境のほうへ延びている。峠の泥をよけ、盗賊の斜面を避け、なだらかな谷筋をまっすぐに縫って。
*
「昨夜のうちに、最後の枕木を伏せ終えました」フリッツが綴りを抱えて駆けてきた。「これで、国境の街まで先頭の一区画が繋がります」
朝の光が差すと、レールの傍らに人が集まってくるのが見えた。敷設を担った人足だけではない。証文を買った民が自分の名の連なった道を一目見ようと、銅貨一枚の者まで谷筋に立っていた。
「わたしの銅貨は、どのあたりでしょうね」洗濯物の籠を抱えた女が、枕木の列を端から端まで見渡した。帳場で名を連ねた一人だった。
「帳面のうえでなら、あなたのお名前はこの谷を下る道の半ばあたりに並んでおります」フリッツが綴りを繰った。「もっとも、鉄になってしまえば、どれがあなたの一枚かまでは……」
女は目を細めて、谷底へ延びる鉄の列をいつまでも見ていた。
渋沢は伏せられた枕木の列に目をやった。一本また一本と、鉄のレールを谷底へ運んでいく黒い枕木。
「フリッツ。この枕木は、何本になりました」
「先頭の一区画だけで、二千と少し」フリッツが綴りを繰った。「名簿の名も、ちょうどそのくらいでございます」
偶然ではない、と渋沢は思った。銅貨一枚、金貨一枚、その一つ一つが枕木一本の木代と鉄代に変わっている。名簿の一行が道の一本になったのだ。
「男爵」硬い声がした。アイゼンブルクが革鎧のままレールの端に立っていた。「我が出した金は、どのあたりを支えておる」
「卿の金貨は」渋沢はレールの一点をさした。「この谷筋の、いちばん急な曲がりでございます。荷がいちばん力を要するところを、卿の一口が支えます」
老武人は、その曲がりをしばらく見ていた。「奉公の使いどころとしては、悪くない」
でっぷりとした影が腹を揺すって近づいてきた。ガルムだった。
「私の五百は、どこを買った」
「レールそのものでございます」渋沢は笑った。「総帥の五百がなければ、鉄は谷筋まで届きませんでした」
「私の看板が、地べたに寝ているわけか」ガルムは鼻を鳴らしたが、その目は満更でもなかった。「まあいい。寝ていても、荷が上を通るたびに通行の実入りが起き上がる。私の金は、寝ていても働くらしい」
レール沿いには証文を買った民が思い思いに散らばっていた。菜屋の親父が枕木を跨いで反対側へ渡り、また戻ってくる。洗濯女が鉄のレールに手のひらを当てて、その冷たさを確かめている。
「これが、うちの銅貨で買えた鉄かね」洗濯女が連れに言った。「触ってごらん。国境まで、ずうっとこの冷たいのが続いとるんだと」
誰も、その鉄のどこが自分の一枚かは知らない。皆それぞれ、どこか一寸は己の銅貨で買った鉄だと信じて手のひらを当てていた。
*
レールの脇に、一人の男がしゃがんでいた。ハンスだった。伏せられた枕木の一本を、手のひらで確かめるように撫でている。その横顔からは、かつての痩せも、盗賊に怯えて先を急いだ強張りも、もう消えていた。
「旦那様」ハンスが顔を上げた。「手前の銅貨一枚は、どの木に」
渋沢は答えに詰まった。銅貨一枚がどの枕木になったかを指でさせるはずもない。
「どの一本、とは申せません」渋沢は言った。「ですがこの二千本のどれか一本は、あなたの一枚がなければ伏せられなかった。この道のどこかに、必ずあなたの銅貨が寝ています」
ハンスは枕木を撫でる手を止めなかった。「では手前の靴代は、道になったのですな」
その少し後ろに、腕を組んだ痩せた男が立っていた。国債の帳台で踏み倒しを疑いながら、銅貨を一枚だけ置いていった男だった。男は谷筋のレールを値踏みするように睨んでいる。
「鉄を並べただけだろう」男が吐き捨てた。「この上を、本当に荷が走るのか。走らなんだら、儂の一枚は泥に埋めたのと同じだ」
「もうすぐ、走ります」渋沢は言った。
*
起点の広場に荷車が据えられていた。ふつうの荷車と違い、車輪の間隔がレールの幅にぴたりと合わせてある。
荷が積まれていく。麻袋には兵の糧、その脇に藍と織物の梱。戦のあいだは兵站、戦が退けば商いの背骨。一台の荷車が二つの荷を分け隔てなく載せていた。
馬が一頭、車の前に繋がれた。ただの一頭だ。峠では四頭がかりでも泥に沈んだ荷が、ここでは一頭の前に据えられている。
起点の広場には、いつのまにか人垣ができていた。銅貨を出した者、金貨を出した者、噂を聞いて集まっただけの者。皆が首を伸ばして一台の荷車を見つめている。子供が親の肩の上から麻袋の山を指さしていた。
人が集まり、口をつぐんだ。誰も、動けの合図を待ってはいなかった。渋沢も命じなかった。皆で出した金で建てた道だ。誰かの号令で動くのでは、筋が違う。
馬方が舌を鳴らし、手綱を軽く引いた。
馬が一歩、踏み出す。
鉄の軋む音が、ひとつ。荷車が、動いた。
泥に沈むのでもなく、斜面に力を吸われるのでもなく、荷車は二筋の鉄の上を滑るように前へ出た。一頭の馬が峠なら四頭がかりの荷を、拍子抜けするほど軽々と牽いていく。車輪とレールの触れ合う音は、峠の泥がたてる重いうめきとはまるで違う澄んだ響きだった。
「……動いた」誰かが、呆けたように呟いた。
荷車は速さを増し、谷筋のレールをまっすぐに下っていった。盗賊の斜面には見向きもせず、泥の一つも踏まず、国境の街のほうへ。
渋沢は集まった民へ向き直った。
「戦で奪った土地は、いつか奪い返されます」渋沢は言った。「皆で築いた道は、誰にも奪えません」
王の命ではなかった。誰かの号令でもなかった。銅貨一枚、金貨一枚を出した者たちの金がこうして一台の荷を国境まで走らせている。
*
列の後ろで腕を組んでいた痩せた男が、口を半分開けたまま、遠ざかる荷車を目で追っていた。
「……儂の銅貨が」男の声が掠れた。「あそこを、走っとる」
男は組んでいた腕をほどいた。遠ざかる荷車をさす手が届くはずもない距離へ、わずかに前へ伸びる。
「戻らなんだら承知せんと、儂は言った」男は誰にともなく呟いた。「戻ってきよる。あの荷が、通行の銭を連れて。儂の一枚も、あれと一緒に働いとる」
その目から、踏み倒しを疑った刺が抜け落ちていた。
男の呟きは、まわりの者へ移っていった。うちの一枚も走っとる、儂の銅貨もあの中に——己の名を道に貸した者たちが、口々に同じことを言い始める。誰の一枚があの荷を押しているのか、確かめるすべはない。それでも、広場じゅうの手が遠ざかる一台へめいめいに伸びていた。
ハンスは、まぶしそうに荷車を見送っていた。
「旦那様」ハンスが言った。「手前の靴代が、国境まで走っていきます」
「走っていきます」渋沢は頷いた。「あなたの一枚が、あの荷を運んでいます」
ゼーバルトが、袖で目元を押さえた。「手前は……剣の凱旋よりも、今の一台のほうが」言葉が続かなかった。
ボルツは遠ざかる荷車を見つめていた。「兵一人、傷ついちゃいない」ボルツが言った。「剣を一度も抜かずに、荷が国境へ着く。あんたの戦は勝っても血の匂いがせん」
アイゼンブルクは、腕を組んだまま長く黙っていた。やがて、太い息を吐く。
「我は、剣で国境を越えたことが幾度もある」老武人は言った。「越えて奪った土地は、次の年には奪い返された。あの荷は、奪い返されぬのだな」
ガルムだけが、腹を揺すって笑った。
「見ろ、男爵」ガルムはレールの果てを顎でさした。「あれが一台通るたび、私の看板に通行の銭がぶら下がる。寝ていた金が、荷の数だけ起き上がるのだ。……これは、儲かるぞ」
*
荷車はもう豆粒ほどになっていた。谷筋のレールの果て、国境の街のほうへ、迷いなく吸い込まれていく。
その同じ国境で、マルデンの兵が今日も退かぬという。この鉄の道は明日には、兵と糧をあの街へ運ぶ道にもなる。
今走っていった一台の荷が、次には戦の荷に変わるのかもしれない。
都では、まだあの囁きが消えていなかった。国の証文は詐術だ、鉄の道など通りはせぬ——荷が現に走り出した今日でさえ、誰かがその毒を配り続けている。
渋沢はその出所を、まだ確かには掴んでいない。ただ、腹の底が薄く冷える。
だが、と渋沢は遠ざかる荷車を見送りながら思った。今日、道は通った。二千本の枕木の一本ずつに民の名が寝ている。この現物を、囁き一つで引き剥がすことはもう誰にもできない。
やがてレールの果てで、馬方が一度だけ手を挙げた。国境の街へ荷が無事に着いたという合図だった。
痩せた男が、その手にこたえるように片手を挙げた。銅貨一枚を出した男の手が、国境まで走った己の道へ、届くはずもない距離で、それでも高く挙がっていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第四十四話は、書く前からいちばん走らせたかった一台がありました。皆の銅貨と金貨が枕木とレールに変わって、その上を最初の荷が国境へ滑り出す——この一瞬のために、四十二話と四十三話で仕組みと名簿を積んできたようなものです。数字も理屈も、この回では脇に置きました。動くのは荷車一台と、それを見送る人の顔だけでいい、と決めていました。
痩せた男に、いちばん筆が乗りました。四十三話で舌打ちしながら銅貨を置き、「戻らなんだら承知せんぞ」と言い捨てた男です。踏み倒しばかり見て生きてきた人が、自分の一枚が現に国境まで走っていくのを見て、思わず片手を挙げてしまう。届くはずのない距離へ手を挙げるあの動作を書けたとき、この回は書けたと思いました。不信は、言葉ではなく現物の前でしか溶けないのだと思います。
煙も轟音もない、馬が一頭で牽くだけの鉄の道です。派手さはありません。それでも、誰の命令でもなく皆の金で国が動き出す音を、静かに残せていたら嬉しいです。次話、走り出した道の先で、いよいよ戦の足音が近づきます。どうぞお付き合いください。
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