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国一番の悪徳領主に転生したが、中身が渋沢栄一なので、搾り取った税を全部返したら領民にガチで怯えられた件  作者: 藍田 算


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民の名が、連なる

 国が民に証文を売る初めての日、合本銀行の帳場には朝から人が集まっていた。


 壁には隼の蝋印を捺した見本の証文が一枚張り出されている。ところが人々は、その紙を遠巻きに眺めるばかりで、誰も帳台へ寄ってこない。


 「妙でございます」ゼーバルトが声を落とした。「触れは都中に回しましたのに。皆、遠くから拝むばかりで」


 「拝む、とはよく言ったものです」渋沢は苦笑した。「あれを、護符と思っているのでしょうね」


 最初に帳台へ来た老爺は、見本を押しいただくようにして眺めた。


 「ありがたや。国が配る武神の護符とは、太っ腹なことで」老爺は証文を額へ寄せた。「これを門口に貼れば、盗賊も火事も寄りつきますまい」


 「護符ではありません」フリッツが帳面から顔を上げた。「金を貸す証文です。銅貨を出していただいて、あとで利をつけてお返しする……」


 「銭を取るのか」老爺は証文を放り出して後ずさった。「護符に銭を取るとは、罰当たりな。武神が見ておられるぞ」


 次に来たのは、荷運びらしい若い男だった。証文の文面を舐めるように読んでいる。


 「して、当たりはどこに」


 「当たり、とは」


 「富くじでございましょう。数字が揃えば金貨、外れれば銅貨は戻らぬ」若い男は列の先を覗き込んだ。「それとも、当たりはもう出てしまいましたので」


 「富くじではありません」フリッツはもう、笑いをこらえていない。「買った方には、どなたにも利がつきます。外れはございません」


 「外れのない富くじなど、裏があるに決まっている」若い男は肩をすくめて帰っていった。


 三人目の女房は、握った銅貨を帳台に見せて言った。


 「国への寄進なら、喜んで出しましょう。武神の御社への寄進と、同じことでございましょう」


 「利をつけてお返しします」渋沢が言った。「寄進ではなく、お貸しいただくのです」


 「返る……」女房は銅貨を見おろした。「寄進した銭が利までつけて戻るなど、都合が良すぎます。武神アレスに顔向けができません」


 女房も、銅貨を握り直して帰っていった。


 「殿」ゼーバルトが小声で言った。「手前、だんだん心配になってまいりました。陛下がお借りになった証文を、皆が護符と拝んでおります。……このままでは、武神アレスの罰が国ごと当たりはせぬかと」


 「罰は当たりません」渋沢は苦笑した。「借りた金で道を建て、その道の稼ぎで返すのです。武神とて、痩せた国より富んだ国のほうがお好きでしょう」


    *


 昼を過ぎても、真新しい帳面の頁は白いままだった。


 帳場の隅で、ずっと成り行きを見ていた痩せた男が、やがて腕をほどいて口を開いた。


 「国に貸す、か」男は吐き捨てた。「お上に取られた銭が戻ってきた例を、儂は一度も聞いたことがない。取り立てはあっても、返済はない。それがお上というものだ」


 「近頃、都でそう囁く者がいるそうでございます」フリッツが声を落とした。「国の証文は、民から銭を巻き上げる詐術だと。鉄の道など通りはせぬ、貸した銭は戦に溶けて消えると」


 渋沢の眉が、かすかに寄った。


 (誰が、その囁きを配っている)


 渋沢はまだ、その囁きの出所を掴んでいない。だが心当たりはあった。戦がなくなれば剣は売れぬと吐き捨てた男が、こんどは民の耳もとで詐術という毒を配っているのかもしれない。背筋を、細い寒さが一度だけ這った。


 その冷えを断ち切ったのは、帳場の戸を鳴らす太い声だった。


 「辛気くさい顔が並んでいるな」ガルムがでっぷりとした腹を揺すって入ってきた。「男爵。売れ行きはどうだ」


 「一枚も、まだ」渋沢は正直に答えた。


 「だろうな」ガルムは帳台に、どかりと革袋を置いた。重い音がした。「金貨で五百。私が買う、いちばん大きな一口だ」


 帳場の人々がどよめいた。ガルムは袋の口を開けて、居合わせた者に中を見せつける。


 「王都で隼の看板を知らぬ者はいまい。その隼が、国の証文をいちばんに買った」ガルムは声を張った。「オーレンダールが損と見た話に、金貨五百は積まん。これは儲かる証文だ」


 フリッツが帳面に、ガルムの名と額を記した。白い頁に、最初の一行が引かれる。


 遠巻きの人々は、まだ動かない。痩せた男が、また鼻を鳴らした。


 「商人が買うのは、商人の勘定だろう。あの御仁は儲けの匂いを嗅いだだけだ。……儂ら武神の民が、銭勘定に頭を下げる謂れはない」


 その謂れを正面から覆す足音が、帳場に入ってきた。


 革鎧に無数の傷を刻んだ老武人が、腰に剣を提げたまま帳台の前へ立つ。アイゼンブルクだった。居合わせた武神の民が、はっと息を呑んで道を空ける。


 「コンラート・フォン・アイゼンブルク卿」渋沢は頭を下げた。「御自ら、こちらへ」


 「男爵」アイゼンブルクは短く応え、帳台に金貨の袋を置いた。「証文を一口、我にも売れ」


 帳場が静まった。剣を佩いた武人が、銭勘定の帳台に金貨を積む。それは、この間の誰もが見たことのない図だった。


 「卿」痩せた男が声を上ずらせた。「武神の武人が、銭勘定に……」


 「聞け」アイゼンブルクは男を見ずに言った。低いが、間の隅まで通る声だった。「銭を出すのが卑しいのではない。国の危急に、出せる者が出し惜しむことが卑しいのだ」


 老武人は、金貨の袋を帳台の中ほどへ押した。


 「我はこれを商いとは思わぬ。武神への奉公と思うて出す」アイゼンブルクは言った。「剣を執れぬ戦もある。ならば我は、銭で己の分を果たすまでだ」


 痩せた男が、口を閉じた。武人が奉公と呼んだものを卑しいと言い返す言葉を、武神の民は持たなかった。


 アイゼンブルクは渋沢へ向き直った。


 「我はまだ、借金で国を建てる理屈は分からぬ。だが、この男が逃げも隠れもせず御前に立つのは見た」老武人は口髭を撫でた。「惜しい男を、みすみす見殺しにはできぬ。……それだけのことだ」


    *


 フリッツが二人目の名を記した。金貨の武人の名が、商人の名の下に並ぶ。


 帳場の空気が、ほどけ始めた。遠巻きだった人々が、一人また一人と帳台へ近づいていく。


 その列の後ろから、露店の前掛けをつけたままの男が、銅貨を一枚握って進み出た。行商人のハンスだった。頬に赤みの差した、もう痩せては見えない顔だった。


 「旦那様」ハンスは渋沢を見て、はにかんだ。「あの東門の朝から、ずいぶんになりますな」


 「ハンスさん」渋沢は目を細めた。「露店は、繁盛していますか」


 「おかげさまで。娘二人に、この冬は靴を買ってやれます」ハンスは銅貨を帳台に置いた。「その靴代を一枚だけ、国にお貸しします。……かつて盗賊に怯え、銀貨を体に縫い込んで峠を越えた行商人の銅貨でも、国のお役に立ちますので」


 渋沢は、その銅貨をしばし見つめた。かつて盗賊に怯えて銀貨を体に縫い込み峠を越えた男が、今は自分の銅貨を国に貸そうとしている。


 「立ちます」渋沢は言った。「銅貨一枚で構いません。この頁に名が載れば、あなたはもう施しを待つ側ではない。国に金を貸した人です」


 渋沢はフリッツの帳面を、居合わせた皆へ向けた。


 「ご覧なさい。金貨の卿の名の下に、銅貨一枚のハンスさんの名が並びます。この一枚の頁では、皆が同じ高さです」渋沢の声が帳場に通った。「身分の分け隔てなく、名が一行ずつ連なる。……国とは、民の名が連なった帳面から建つのです」


 ハンスの銅貨が、帳台の上でひとつ音を立てた。フリッツの筆が、三行目に行商人の名を刻む。金貨の武人の名の、すぐ下だった。


 列のいちばん後ろで、あの踏み倒しを疑った痩せた男が、まだ腕を組んでいた。その目だけが、金貨の卿の名と、行商人の銅貨一枚の名が並ぶ頁を、じっと見ている。


 「……儂の銅貨も、その下でいいのか」男がぶっきらぼうに言った。「金貨の卿と、同じ頁で」


 「同じ頁です」渋沢は頷いた。「上も下もありません。金を出した順に、名が連なるだけです」


 男は舌打ちして、それでも銅貨を一枚、帳台に置いた。「……戻らなんだら、承知せんぞ」


 「戻します。道が、必ず」


    *


 その日から、帳場の列は絶えなくなった。


 武人が奉公と呼び、隼が儲けと請け合い、行商人が銅貨一枚を貸した。その三つを見た民が、次の一人を連れてくる。菜屋の親父が、荷運びが、洗濯女が、銅貨を握って頁に名を足していく。


 「殿」フリッツが帳面の束を抱えて言った。指はもう、数え疲れて痺れるだけで、寒さや恐怖では強張らない。「今日一日で、七十三人。銅貨一枚の方が、そのうち五十を超えます」


 「頁が、足りなくなりますな」ゼーバルトが新しい綴りを運んできた。目元が、もう潤んでいる。「かつて領で、老婆の銅貨一枚から始まった名簿を思い出します。あれが今、国の大きさで開かれておりまする」


 ボルツが帳場の隅で、腕を組んで一部始終を見ていた。


 「妙な戦だ」ボルツがぽつりと言った。「兵も集めず、剣も抜かず、銅貨一枚ずつで国が建っていく。……あんたの戦は、いつ見ても得体が知れん」


 「銅貨一枚は、剣より軽うございます」渋沢は笑った。「軽いから、遠くまで飛びます。この一枚一枚が、国境まで鉄の道を延ばす枕木になるのです」


    *


 その夕、城下の鍛冶は夜になっても鳴り止まなかった。戦の支度の槌の音だ。国境では、マルデンの兵が今日も退かぬという。


 その同じ夜、帳場では別の音が続いていた。剣を鍛える槌の音と、民の名を刻む筆の音。同じ都の夜に、二つの音が並んで鳴っている。帳面の頁は、一行また一行と、民の名で埋まっていく。


 渋沢は、その日最後に加わった名を指でたどった。銅貨一枚の洗濯女の名、その隣に金貨の武人の名。身分の順でも、爵位の順でもない。ただ、金を出した順に名が連なっている。


 この一つ一つの名が、国境まで敷く鉄の道の、一本ずつの枕木になる。名が集まるほど、道は延びていく。


 (明日は、この頁が何行伸びるだろうか)


 帳場の外では、まだ列が続いていた。銅貨を握った手が、順番を待って夕闇に並んでいる。その列の先が、国境の鉄の道の起点へまっすぐ続いているように、渋沢の目には見えた。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


四十三話は、いよいよ民が国を建てる側に回る回でした。ただ、そこへ一足飛びには行かせたくありませんでした。帳場に証文を並べても、最初は誰も買いに来ない——護符と間違えて拝む人、富くじだと思って当たりを探す人、寄進と勘違いして「利がつくなんて罰当たり」と帰る人。書いていて、この勘違いの数々がいちばん楽しい時間でした。制度は、正しいから広まるのではありません。正しさが人々の腑に落ちるまでには、必ずこういう珍妙な回り道があるのだと思います。


壁を越える三つの手のうち、私がいちばん書きたかったのはアイゼンブルク卿でした。武神の武人が「これは商いではない、奉公だ」と言い切って金を出す。商いを卑しむ信仰の側から、その信仰の言葉で壁を崩す——四十一話で「惜しい男」と半歩寄せた彼が、ここで自分の銭を出すところまで来ました。


そして、ハンスの銅貨一枚。かつて盗賊に怯えて銀貨を体に縫い込んだ行商人が、今度は国に貸す側に回ります。金貨の武人と同じ頁に、彼の名が並ぶ。国とは、こうして名が連なる帳面から建つのだと、書きながら私自身が胸を打たれておりました。


次話、集まった名がいよいよ鉄の道になります。戦の足音を背に、どうぞお付き合いください。


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