戦費を、道に変える
城下には鉄の匂いが満ちていた。
鍛冶の炉が夜まで消えず、槍の穂先と鎧の板金が荷車で城へと運ばれていく。戦の支度は日ごとに速さを増していた。
だがその支度は、宿の狭い一室では別の顔を見せる。
「妙な話だ」ボルツが窓の外へ顎をしゃくった。「鍛冶は槍を打つ。傭兵は都に集まる。金の話になった途端、誰もが口をつぐむ」
「払う金が、ないからです」渋沢は帳面から目を上げた。
フリッツが膝の上で写しの綴りを開いた。指はもう震えない。
「戦の支度にかかる見積もりを、城の書記官から写させてもらいました」フリッツが数字の行をたどった。「傭兵の給金に糧秣、武具の補い。ざっと数えて、今の国庫の底を三重に超えます」
「三重」ゼーバルトが茶を注ぐ手を止めた。「では、あと二つほど国庫がいるということで」
「国庫は一つきりです」渋沢は苦笑した。
「以前でしたら」フリッツが声を落とした。「足りぬ戦費は、両替商連合の蔵から借りて賄っておりました。ですがその連合は、もう崩れました」
渋沢は指を組んだ。連合の綱が切れたことは、王家を長年の借金の軛から解き放った。だが同じ綱は、いざ戦という時に戦費を用立てる蛇口でもあった。その蛇口を閉じたのは、ほかならぬ渋沢自身だった。
(ファルケンハイン卿は戦を説く。……その戦を戦う金が、もうどこにもない)
戸が叩かれたのは、そのときだった。荒い息の使いではない。王城の紋を胸につけた侍従が、折り目正しく一礼して一通の召状を差し出した。
「ブルーメンタール男爵。陛下がお召しにございます」侍従の声は低かった。「あの夜通しの綴りを、お手元に持たれたままにと」
王に預けたはずの覚書が、召状に添えられて戻ってきていた。頁の端には、玉座のそばで幾度も繰られた皺が寄っている。
*
通されたのは、御前会議の間ではなかった。王城の奥まった一室で、天井は低く、武具を模した燭台の火が王の横顔を赤く照らしている。
卓の上に、渋沢の覚書が開かれていた。
ラインハルト三世は、頁から目を上げずに言った。
「男爵。余は、これを三度読んだ」
「恐れ入ります」渋沢は一礼した。
「三度読んで、三度とも胸がざわついた」王の指が頁を撫でる。「武神の国の王が、菜屋の親父に借りを作る。ファルケンハインの申した狂気とやらが、余にも分からんではない」
壁際で、鉄灰色の口髭が火に縁取られた。ファルケンハインだった。
「陛下。その紙を、まだお持ちでしたか」老将の声は太い。「銭勘定の男爵の絵空事に、これ以上お目を汚されますな」
「ファルケンハイン」王は初めて顔を上げた。「そなたは、奪って満たせと言う。マルデンへ攻め入り、持ち帰れと」
「それが武人の勝ち方にございます」
「では問おう」王の目が老将を捉えた。「その兵を国境へ送る糧は、どこから出す。武具の補いは。傭兵の給金は。……奪う前に要るその金が、今どこにある」
ファルケンハインが口をつぐんだ。
「連合は崩れた。借りる先が消えた」王は覚書へ目を落とした。「奪って返すはずのその戦の支度の金すら、今の国庫からは出せぬ。これが、余の国だ」
間に、燭台の火の爆ぜる音だけが残った。
「男爵」王が言った。「余はそなたに国庫を託した折、これは賭けだと申した。賭けと言うたからには、余も賭け金を積まねば釣り合わぬ。……今、積む」
「陛下——」
「よかろう。余は乗る」王の声は低く、そして揺らがなかった。「剣で奪った金なら、武神も褒めよう。借りた金で国を建てると聞けば、あの神は眉をひそめるやもしれぬ。だが余は、神の機嫌より国の明日を選ぶ」
王の指が、覚書の一点で止まった。
「まず、その借りた金で戦費の穴を埋めよ。話はそれからだ」
「陛下。畏れながら、それはなりませぬ」渋沢は静かに言った。
ファルケンハインの眉が動いた。王の目が細くなる。
「戦費に溶かせば、その金は一度きりで消えます」渋沢は覚書の図を開いた。「傭兵の給金も糧秣も、放てば戻りません。民から借りた金を戦費に流せば、返すあてのない借りだけが残ります」
「では、何に使うと申す」
「国境フライハーフェンへ、鉄の道を一筋通します」渋沢は言った。「敷いた鉄の上を、馬に荷車を牽かせる。悪路も盗賊の峠も避けて、少ない馬で何倍もの荷を運べます」
「道の話は、先夜聞いた」ファルケンハインが遮った。「戦が明日に迫るという時に、悠長な普請の話か。全線を通すのに三年かかると、貴公自身が申したはずだ」
「全線は、三年かかります」渋沢は老将へ向き直った。「ですが全線を待つ必要はございません。国境に近い先頭の一区画だけなら、数月で仮に通せます。その一区画が、兵と糧を峠の先まで運ぶ。剣を交える前に、兵站がものを言う。悪路に糧を滞らせた側が負けるのです」
ファルケンハインの口が、わずかに止まった。武人の理屈だった。
「そして戦が引けば」渋沢は続けた。「兵を運んだその同じ道を、今度は交易の荷が埋めます。戦のあいだは兵站、戦が退けば商いの背骨。一本の道が働きを変えて、放ったあとも独りで元手を稼ぎ続けるのです」
渋沢は覚書の上に指を置いた。
「陛下。戦費は、放てば消える矢でございます。ですが道は、放ったあとも独りでに戻ってくる矢。……どうか、その戦費を鉄の道に変えさせてくださいませ」
王は長いこと覚書を見つめていた。
「兵站の道であり、借りを返す道でもある。そう申すか」
「一本の鉄の道に、二つの働きをさせるのです」渋沢は頷いた。
「面白い」王が低く漏らした。「戦の支度が、そのまま国を富ます支度になる。……ファルケンハイン。この道なら、そなたの兵も速く国境へ着こう」
老将は、すぐには答えなかった。やがて、太い息を吐いた。
「兵站の道であれば、儂は否とは言わぬ」ファルケンハインの声は硬い。「だが陛下。国の背骨を商人の証文で敷くことだけは、儂は認めませぬ。銭で買った道の上を、いつか銭が国を牽いて歩き出す。……その日を、儂は目の黒いうちは見とうない」
それだけ言うと、老将は一礼して退がった。数字は崩さぬまま、その一歩だけは決して譲らぬ背だった。
(壁が、消えたわけではない)渋沢は去る背を見送りながら胸の内で呟いた。今日は兵站の一点で戸口が開いただけだった。国債そのものへの否は、あの背の奥でなお硬いままだ。
王と渋沢だけが残った。
「男爵」王が言った。「集めると申すが、誰が国に金を貸す。武神の国の民が、進んで銭を差し出すと思うか」
「銅貨一枚から買える証文にすれば、民は出します。合本を国の大きさで開くだけのこと」渋沢は言った。「その理屈は、先夜申し上げた通りでございます」
「うむ。そこは聞いた」王が頷いた。「余が知りたいのは、その先だ。誰がその証文を確かなものにする。国の名だけでは、民は銅貨を惜しむぞ」
「証文の引き受けと信用の土台には、合本銀行を使わせていただきます」渋沢は言った。「連合を破ったあの銀行に、隼の看板が後ろ盾として捺されます」
「オーレンダールの総帥か」王の口の端が、わずかに上がった。値踏みでも侮りでもない、賭けに乗った者の顔だった。
*
合本銀行の帳場は、両替商の通りが商いの通りに変わった一角にある。ガルムはでっぷりとした腹を揺すって現れた。
「国庫の次は、国そのものに証文を売らせろときたか」ガルムは椅子を軋ませて腰を下ろした。「男爵。貴公の思いつきは、いつも私の寿命を縮める」
「総帥のお力を、また借りたいのです」渋沢は頭を下げた。
「借りる、か」ガルムは鼻を鳴らした。「今度の借り手は、国だそうだな。返さぬとなったら、私は誰の襟首を掴めばいい。玉座に乗り込んで、陛下の胸ぐらを掴むのか」
「返すのは、王のお気持ちではありません」渋沢は言った。「国境へ通す鉄の道が返します。道が生む通行料と交易の税、その実入りが利と元を返す。王が代替わりしても道が残るかぎり、返済は道が背負います」
ガルムは太い指で卓を打った。荷を担いで生きてきた者の手だった。
「王の気まぐれでなく、道の稼ぎが返すか」ガルムは唸った。「……悪くない。人の情より、稼ぐ設備のほうがよほど信が置ける」
「では」
「乗ってやる」ガルムは腹を揺すった。「合本銀行が、その国の証文を引き受けよう。まず私が、いちばん大きな一口を買う。隼の看板が国の証文に捺されたと知れれば、都の連中は安心して銅貨を出す」
ガルムはそこで声を落とした。
「ところで男爵。気に入らん噂を、一つ耳に挟んだ」
「噂、ですか」
「あの死の商人だ。シュランゲ」ガルムの目が細くなった。「近頃やけに、武人の屋敷へ足しげく通っているそうだ。ファルケンハインの門にもな。……国が民から証文で金を巻き上げる詐術だと、あちこちで吹き込んでいるらしい」
渋沢の指が止まった。
「戦がなくなれば、剣は売れん」ガルムは吐き捨てた。「貴公の道が国境まで通れば、あの男の蔵の武具は埃をかぶる。面白かろうはずがない。……せいぜい、足を掬われんようにな」
渋沢は頷いた。問いただす証は、まだ何もない。ただ腹の底が薄く冷えた。にこやかに死を待つあの声が、耳の奥でかすかによみがえる。
その夜、帳場に真新しい帳面が一冊置かれた。表紙にはまだ、何の名も記されていない。国が民から借りた金を、一枚ずつ書き留めるための綴りだった。
フリッツが最初の頁を開いた。
「殿。ここに、民の名が」
「連なります」渋沢は言った。「銅貨一枚の者から金貨の者まで。身分の分け隔てなく、同じ頁に並びます」
かつて領で、老婆の銅貨一枚から始まった名簿があった。あれを、国の大きさでもう一度開く。明日からこの帳場に、民が証文を求めて列をなす。
窓の外では、城下の鍛冶の炉が夜になっても赤く燃えていた。戦の支度は止まらない。だが同じ都で、明日、国の帳面に一人目の名が記される。
渋沢は白いままの頁に手を置いた。指先に、まだ何も書かれていない紙の、乾いた軽さがある。この軽い一枚を、いずれ民の名で重くする。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
四十一話で撥ねられた渋沢を、今回はいよいよ王が拾い上げます。ただ、王が国債に乗る理由を「感心したから」にはしたくありませんでした。武神の国の王が借金で国を回すなど、そう簡単に踏み切れるはずがない。だから、追い込まれて選ばせることにしました。皮肉なのは、その袋小路を作ったのが渋沢自身だということです。前章で両替商連合を潰したことが、いざ戦という時の「借りる先」まで消してしまった。正しいことをした報いが、こんな形で返ってくる——書いていて、少し胸が痛みました。
今回いちばん書きたかったのは、「戦費を道に変える」という一手です。ファルケンハインの戦と、渋沢の建設。真っ向からぶつかっていた二つを、一本の鉄の道が兼ねてしまう。奪うための金を、築いて残る金にすり替える。渋沢らしい橋の架け方を、王の賭けと重ねられたら、と思って書きました。
そして帳場には、まだ白い帳面が一冊。次話、ここに民の名が連なり始めます。戦の足音を背に、どうぞお付き合いください。
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