借金で、国を建てる
登城の刻を待つ控えの間で、ゼーバルトが主の手元をのぞき込んだ。
「殿。今日は、算盤をお持ちにならぬのですか」
渋沢の手にあるのは、算盤の代わりの薄い綴りが一冊きりだった。夜通し数え抜いた覚書だった。
「陛下は、算盤の音より重いものを持てと仰いました」渋沢は綴りを軽く持ち上げた。「ですから、重いものを持ってまいります」
「はあ」ゼーバルトが綴りと算盤を見比べた。「……失礼ながら殿。その紙のほうが、算盤よりよほど軽うございますが」
「中身が、重いのです」
「中身」老執事は綴りを恭しく受け取り、両手で目方を量る仕草をした。「なるほど。手前の腕には、まだ軽うございます」
渋沢は小さく笑った。この生真面目なボケが、登城前の強張りをいくらかほぐしてくれる。
(さて。この軽い紙を、あの重い床の上で、どう置いたものか)
*
御前会議の間は、二度目でも天井が高かった。
石の床のただ中に、渋沢はまた一人で立った。左右には先夜と同じ鋼の列がある。ファルケンハインが列の先頭で腕を組んでいた。鉄灰色の口髭の下から、鷹のような目がこちらを値踏みしている。
玉座のラインハルト三世が、肘掛けを指で叩いた。
「重いものを持ってまいったか」王が言った。「聞こう。国庫の底を、そなたはどう塞ぐ」
渋沢は綴りを開き、深く一礼した。
「陛下。底の抜けた桶に水を足しても、漏れるばかりでございます。要るのは、底そのものを富に変える手でございます」
「回りくどい」ファルケンハインが太い声を挟んだ。「手があるなら、申せ」
「では、単刀直入に」渋沢は綴りの一枚を示した。「国庫を、税だけで満たすのはもうかないません。ですから、国が民から借りるのです」
「借りる、だと」ファルケンハインの眉が動いた。「国が、民草に頭を下げるのか」
「頭は下げません。証文を配ります」渋沢は言った。「国が、いついつまでにこれだけ利をつけて返すと約束した証文でございます。金のある者が、出せる分だけそれを買う。銅貨一枚からでも構いません」
武人たちがざわめいた。渋沢は綴りをめくった。
「私が領で起こした合本と、同じ理屈でございます」渋沢は続けた。「皆で少しずつ金を出し、皆でその利を分ける。それを、国の大きさでやるのです。王家や大商人だけでなく、菜屋の親父も荷運びの男も国に金を貸せます」
「集めた金を、何に使う」王が問うた。指が肘掛けの上で止まっている。
「戦費には、一銭も回しません」渋沢は言った。「道を直し運河を掘り、鉄の軌道を敷きます」
「鉄の……軌道」列の若い武人が訝った。
「敷いた鉄の上を、馬に荷車を牽かせるのです」渋沢は綴りの図を開いて見せた。「悪路も避けられます。盗賊の峠も通らずに済みます。少ない馬で何倍もの荷を、速く確かに運べます」
(蒸気の力は、まだこの世にない。だが鉄の道そのものなら、今の技でも敷ける)
「その道が、金を生みます」渋沢は玉座へ向き直った。「荷が増えれば通行の料が入ります。交易が太れば関の税も増えます。その増えた実入りで、借りた元と利を返してまいります」
渋沢は一度、間を置いた。
「借りた金で、富を生む物を建てる。その物の稼ぎで、借りを返す。……国庫の底は、この循環で埋めてまいります」
「戦で満たすのと、何が違う」ファルケンハインが言った。
渋沢は綴りを閉じ、玉座を真っすぐ見上げた。
「陛下。戦で奪った土地は、いつか奪い返されます」渋沢の声は間の隅まで届いた。「ですが、皆で築いた道は誰にも奪えません。戦費は消えて何も残さず、道は残って富を生み続けます。……国とは奪って保つより、築いて富ませるほうが、ずっと長持ちいたします」
間が、しんとした。数字に返す言葉が、すぐには出なかったのかもしれない。
その静けさを、ファルケンハインの踏み鳴らす床の音が断ち切った。
「見事な絵空事だ」老将が言った。声に怒りはない。侮りだけがある。「儂は、貴公の算盤の筋を崩す気はない。崩せもすまい」
「では——」
「聞け、算盤商人」ファルケンハインが遮った。「国を、借金で建てるだと。そんな話は儂もついぞ聞いたことがない。国とは剣で奪い、剣で守るもの。千年、そうして続いてきた」
老将の声が、間に満ちていく。
「その国の礎を、民草からの借財の上に置くと申すか。武神アレスの国が、菜屋の親父に頭を下げて成り立つのか。……それを狂気と言わずして、何と言う」
ファルケンハインの目が、居並ぶ武人たちへ向いた。
「そもそもだ。銭の勘定で国が富むのなら、我らは何のためにいる。剣を捨て、皆で証文を数えて暮らすのか。商人風情に、国の舵を握らせてはならん。それだけは、儂の目の黒いうちは通さぬ」
列の若い武人が、腰の剣の柄を拳で叩いた。号令に応えるような硬い音だった。渋沢の綴りに賛意を示す声は、この間にまだ一つも上がっていない。
「卿」渋沢は口を開いた。「借財の上に立つ国は危うい。ごもっともです。ですがその借財は、道と運河が返します。三年で立つ数字が、この綴りに——」
「数字の話ではないわ」ファルケンハインの声が落ちた。「儂が言うておるのは、国の在り方だ。貴公の数字がいかに正しかろうと、儂は借金で建てた国など戴かぬ。正しいか正しくないかの話ではない。武人が、そういう国を認めぬというだけの話だ」
渋沢は、次の言葉を呑んだ。
(……ここでは、正しさが鍵にならないのか)
先夜も、似た壁を思った。だが今日のそれは、あの日よりなお厚い。数字がどれほど正しくとも、その正しさを受け取る気のない者には、何の意味も持たない。懐の勘定で動く相手なら、まだ手の打ちようがあった。この床に立つのは、勘定の外側にいる壁だった。論を積むほど、若い武人の胸甲が硬く鳴るだけだった。
壁際で、アイゼンブルクが腕を組んでいた。やや間を置いて、低く口を開いた。
「ファルケンハイン」アイゼンブルクが言った。「我は算盤のことは分からぬ。……だが、この男が金貨も剣も持たずに宮廷の膿を一つ出したのは、この目で見た。剣を持たぬ者が逃げも隠れもせず御前に立つ。それを臆病とは、我はどうしても呼べぬ」
「では貴公は、借金の国を戴くと申すか」ファルケンハインが振り向いた。
「そうは言うておらぬ」アイゼンブルクが口髭を撫でた。「我にも、まだ分からぬ。ただ、頭ごなしに握り潰すには惜しい男だと、そう言うておる」
それきり、アイゼンブルクは口を閉じた。渋沢へ向けた目に、先夜より一歩ぶんの何かが宿っている。だがそれは、公然と隣へ並ぶ手ではなかった。武人の列の只中で、その一歩は重すぎた。
ラインハルト三世は、長いこと肘掛けを指で叩いていた。その目が、床の綴りと渋沢の顔を、幾度か行き来する。
「ブルーメンタール」王が言った。「そなたの申す道と運河、鉄の軌道。……面白い。余は、面白いと思うておる」
「陛下」ファルケンハインが玉座を仰いだ。
「案ずるな」王は指を止めた。「余とて、武神の国の王だ。借金で国を建てると聞いて、胸のざわつかぬわけがない。……ファルケンハインの申すことにも、理はある」
王の目が、また渋沢へ戻った。
「男爵。そなたの最初の道は、幾年でできる」
「三年、いただければ」渋沢は答えた。「最初の一筋を、国境まで」
「三年か」王は低く漏らした。「だが、マルデンの兵はもう国境で退かぬ。三年を、待ってはくれぬ。戦は、明日にも来る」
玉座の指が、また肘掛けを打った。
「そなたの絵は、美しい。惜しむらくは、今が剣の刻だということだ」王は言った。「道は、戦が終わってからでも敷ける。……下がってよい」
渋沢は一礼した。退けられた。都でも領でも、最後には動いてきた話が、この床では一寸も動かなかった。
石の床を戻りかけた渋沢の背へ、王の声が届いた。
「男爵。その綴りは、置いていけ」
渋沢は足を止めた。
「余が読む」王は短く言った。「面白いものは、面白い。今ではない、というだけだ」
*
会議の間を出ると、廊の石が足の裏に冷たかった。
ゼーバルトが、主の手に綴りのないことに気づいて目を見開いた。
「殿。あの覚書は……」
「陛下が、預かってくださいました」渋沢は言った。「取り上げられたのか、拾っていただいたのか。今の私には、まだ分かりません」
壁に背を預けていたボルツが、顎で会議の間を指した。
「あの爺さん」ボルツが言った。「あんたの数字が正しいと分かってて、その上で撥ねたな。あれは」
「ええ」渋沢は答えた。「正しさを、受け取らないと決めている人です。剣で斬れる壁なら、いっそ楽だったでしょうね」
「褒められてる気はせんが」ボルツが鼻を鳴らした。「今日ばかりは、俺も斬る相手が見当たらん」
渋沢は廊の窓から外を見た。武具を積んだ荷車が、幾台も城門をくぐっていく。戦の支度は、もう止まらぬ速さで回り始めていた。
(正しさだけでは、動かない土俵がある)
九十一年を生きて、道理が通れば人はいつか動くと、どこかで信じてきた。今日、その信じ方の甘さを、石の床の上で一つ知った。数字は正しかった。その正しさは、受け取る心のない相手には、ただの音だった。ファルケンハインの壁は、正面から論を積むほど硬くなる。
(ならば、あの壁は正面から崩さずともいい。回り込む道を、私が先に通してみせるまでだ)
その時、城の高みで角笛が鳴った。一度、二度、三度。渋沢の足が止まった。兵を集める合図だった。
廊を、鎧の足音が幾つも駆け抜けていく。誰かが「マルデンが国境の街道へ兵を進めた」と叫ぶのが聞こえた。もう、会議の間の内も外もなかった。城そのものが、戦へ向かって重く身じろぎを始めていた。
角笛の響きが石の壁を伝い、渋沢の胸の底まで届く。戦は遠い足音ではもうない。城の土台を震わせて、すぐそこまで来ていた。
それでも、と渋沢は綴りを失った手を軽く握った。あの重い床の上に、夜通し数えた覚書が一冊、王の手に残っている。撥ねられたはずの紙が、玉座のそばで、まだ息をしている。
(今ではない、と陛下は仰った。……ならば、その今を、私が手繰り寄せるまでです)
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第四十一話は、渋沢に「正論が通らない」痛みを味わってもらう回でした。国債という代案そのものは、書きながら私自身が「これは筋が通っているぞ」と思うくらい、理屈としては完成しています。道を敷き、その道が生む税で借りを返す——消える戦費と、富を生む道。数字はどこも間違っていません。
それでも、渋沢は勝てません。ファルケンハインは数字を一切崩さず、「正しいか正しくないかの話ではない」と、土俵ごと拒みます。ここが今回いちばん書きたかった一線でした。人は、正しさで動くとは限らない。とりわけ、拠って立つ価値観に触れられたときは、正しい数字ほど疎ましく感じるものです。渋沢が九十一年ぶんの知恵をもってしても、この壁だけは論破では越えられない。越えようと押すほど硬くなる。その手応えのなさを、丁寧に描きたかったのです。
救いは二つ、そっと置きました。アイゼンブルクの「握り潰すには惜しい」という半歩と、王が綴りを手元に残したこと。撥ねられた紙が、まだ玉座のそばで息をしている——次話で、その火種が動きます。
戦の足音は、いよいよ扉の外まで来ました。どうぞお付き合いください。
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