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国一番の悪徳領主に転生したが、中身が渋沢栄一なので、搾り取った税を全部返したら領民にガチで怯えられた件  作者: 藍田 算


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市は、半日で散る

 国境の朝は、市の匂いから始まった。


 塩の湿った匂いと、藍の葉の青くさい匂いが、まだ薄暗い広場に混じっている。売り手が台を組み、買い手が袋を提げて集まってくる。ローデンの兵が睨みをきかせる関のすぐ下で、両国の民は今日もふつうに商いを始めていた。


 渋沢は、その台の並びを歩いた。手ぶらだった。算盤も帳面も、宿のフリッツに預けてきた。辺境伯に算盤の音を聞かせたら国境の外へ叩き出すと釘を刺されている。ならば音の出ぬ手でやるまでだ、と渋沢は思った。


 「おや、この前の都のお人だね」


 塩売りの女が、台の向こうから声をかけてきた。昨日、岩塩を量ってくれた女だった。藍の束と塩の塊を、相変わらず同じ台に並べている。


 「その節は、塩をありがとうございました」渋沢は頭を下げた。


 「あんた、まだ国境にいたのかい」女は声をひそめた。「なら、いよいよ気をつけな。例の化け物の噂、日に日にひどくなってるよ」


 「化け物、と申しますと」


 「青い髪の算盤売りさ」女は塩の塊を撫でた。「近ごろは、こう言うんだ。あいつが鉄の道で兵を運んできて、国境ごと呑む気だと。塩も藍も根こそぎさらって、みんな紙切れに化かしちまうって」


 「ゆうべなんか、化け物は塩を舐めて人の生き血を勘定するって言い出した奴がいてね」女は肩をすくめた。「あたしゃもう、塩に触られたくないよ」


 昨日は銭をさらう噂、今朝は兵を呑む噂、夜のうちに生き血の話。一日で三度も皮の張り替わる噂は、ひとりでに膨らんだりしない。誰かが夜ごと、この市へ新しい尾ひれを配って回っている。


 渋沢は口の中で苦さを噛み、朝の人混みをそっと見渡した。噂を運ぶ足は、この人垣のどこかにいるはずだった。


 「あなたは」渋沢は台の上を見た。「マルデンの塩とヴェルダンの藍を、同じ台で商っておいでですね」


 「そりゃそうさ」女は当たり前という顔をした。「うちの塩はマルデンの山から来る。藍はヴェルダンの畑から来る。あたしはどっちも仕入れて、どっちも売る。それだけだよ」


 「上のお二方は睨み合っておいでですが」


 「お偉いさんが睨み合うのは勝手さ」女は鼻を鳴らした。「でもね、マルデンの山は塩を作れても藍は作れない。ヴェルダンの畑は藍を作れても塩は出ない。どっちも相手の品がなきゃ、暮らしが回らないんだよ。あたしらはとっくに商ってる。今さら誰が止められるもんかね」


 民のほうが、上の睨み合いよりずっと先を歩いている。渋沢は、その台の上に自分の足がかりを見た。


    *


 その台の前に、大柄な男が袋を提げて立っていた。日に灼けた顔に、マルデンの訛りがある。塩でなく、藍の束をいくつも選っていた。


 「ずいぶん藍をお求めですね」渋沢は声をかけた。


 「マルデンじゃ藍は採れん」男は無愛想に答えた。「うちの村じゃ、婚礼の衣を藍で染める習いでな。毎年ここまで買いに来る。……オトマーだ。穀物を積んできて、藍と塩を積んで帰る」


 「今年は来られただけましだ」オトマーは藍を袋に詰めた。「去年の秋は関が閉じて来られなんだ。上が小競り合いを始めると、真っ先に市が止まる。おかげで、うちの村は染めの衣なしで婚礼を挙げた。戦がなんの得になる。俺の弟は三年前の国境のいざこざで槍に刺されて死んだ。畑を一枚も増やさずにな」


 渋沢は、この男の疲れた声に、上の睨み合いとは別の国境の顔を見た。奪いたくて仕方のない辺境伯の下で、奪い合いに倦んだ民が、それでも敵国の色を婚礼に求めて国境を越えてくる。


 「オトマー殿」渋沢は言った。「一つ、お力を貸していただけませんか」


 渋沢が語ったのは、ごく小さなことだった。次の市の日に、両国の商人を台の前に集める。ヴェルダンの藍とマルデンの穀物を、関税も咎めもなく、皆の目の前で交わして見せる。それをオトマーが一部始終書き付けて、マルデンの市の顔役たち——戦を厭う者たちのもとへ届ける。


 「戦えば、市はまた止まります」渋沢は言った。「商えば、あなたの村は今年も藍で婚礼を挙げられます。その一日を、皆で見るだけでよいのです」


 オトマーは、しばらく渋沢を値踏みした。


 「……お前が、噂の算盤売りか」


 「その化け物です」渋沢は苦笑した。「もっとも、塩を舐めて生き血を勘定した覚えはございませんが」


 オトマーは、初めて口の端をゆるめた。「化け物にしては、話が通じるな」


 傍らのゼーバルトが、感じ入ったように洟をすすった。「殿……敵国の畑の色で、婚礼の衣を染めるとは。手前には、どちらが敵で味方やら分かりませぬ」


 「分からなくて、結構です」渋沢は言った。「その分からなさこそ、商いの下地でございますよ」


    *


 だが、市の話がまとまったその日の夕刻だった。


 国境の標のあたりで、怒声が上がった。


 ボルツが、人混みを割って戻ってきた。


 「小競り合いだ」ボルツは低く言った。「国境の標のところで、マルデンの兵とヴェルダンの兵が小突き合っている。マルデンの兵がヴェルダンの兵に『鉄の道で攻め込む気だろう』と食ってかかったらしい」


 「刃傷沙汰には」


 「今のところ、小突き合いだけだ。だが妙だ」ボルツは眉を寄せた。「火をつけた兵の剣が、また新しい。どこで手に入れた剣だ」


 市の空気が、一息に凍った。塩売りの女が台の品を布に包み始める。買い手が袋を提げて散っていく。


 「言わんこっちゃない」誰かが吐き捨てた。「あの青い髪が鉄の道で兵を呑みに来た。市なんぞ開いてる場合か」


 オトマーが、藍の袋を抱えたまま渋沢のそばへ寄ってきた。その顔から、さっきの緩みは消えている。


 「算盤売り」オトマーの声は硬かった。「お前、本当に鉄の道で兵を運ぶ気か。国じゅうがそう言ってるぞ」


 「運びません」渋沢は言った。「あの道は、荷を運ぶために敷きました」


 「だが、現に兵が小突き合ってる」オトマーは首を振った。「俺は村に妻子がいる。次の市で敵国の商人と並んで立ってたと知れたら、村で何を言われるか。……悪いが、この話はなかったことにしてくれ」


 男は藍の袋だけを抱えて、人混みに紛れていった。せっかく口の端をゆるめた男が、また国境の顔に戻ってしまった。


    *


 その人混みの向こうに、見覚えのある派手な背があった。指輪の光が、夕日に一つ跳ねる。


 シュランゲが、糸のような目で市の散っていくさまを眺めていた。


 「いやあ、賑やかだ」渋沢が近づくと、シュランゲは揉み手で振り返った。「男爵。せっかくの市が、台無しですねえ」


 「シュランゲ殿」渋沢は言った。「あの噂を配って回っているのは、あなたですか」


 「わたしが」シュランゲは心外だという顔で笑った。「まさか。わたしはただ、剣を売っているだけでしてね。噂というのは、勝手に歩くものでしてね」


 男は指輪をくるりと回した。


 「ですがねえ、男爵。市というのは、面白いものでしてね」シュランゲの声は弾んでいた。「火をつけるより、噂を一つ撒くほうがよく燃えるんですよ。台を組むのに十日、散らすのに半日。あなたが藍と穀物を並べるより、わたしが囁きを一つ落とすほうがずっと速い」


 「では、やはりあなたが」


 「さあ」シュランゲは笑った。「証がおありですか。……ないでしょう。あなたは算盤で数えられるものしか、掴めない。噂というものは、算盤では数えられませんよ」


 渋沢は、この男が都でファルケンハインに剣を売り、この国境ではローデンの兵に剣を売っているのを知っている。同じ手が両国の兵を小突き合わせ、その小競り合いをまた次の剣の注文に変えていく。その絵の輪郭は、渋沢にも見えていた。ただ、輪郭のままだった。


 市の誰に問うても、噂の出どころは「みんなが言っている」に溶けてしまう。シュランゲの名にたどり着く一本の線が、どうしても掴めなかった。


    *


 その夜、渋沢はローデンの館へ呼びつけられた。


 辺境伯は、広間で真新しい剣を膝に置いていた。頬の刀傷が、灯りに歪んで見える。


 「聞いたぞ、算盤売り」ローデンは笑った。「貴様の国の兵が、俺の兵に食ってかかったそうだな。鉄の道で攻め込む、と」


 「あれはどちらから手を出したものか、まだ」


 「どちらでもいい」ローデンは遮った。「兵が小突き合った。それで十分だ。これでようやく戦の口実ができた」


 辺境伯は、剣の腹を撫でた。


 「貴様が市で何を並べようと、俺の知ったことじゃない」ローデンは言った。「兵が一度でも血を流せば、あとは雪崩だ。市の商人など、真っ先に逃げる。逃げたあとに残るのは、剣を持った者だけよ。……そうなれば、算盤の出る幕はない」


 渋沢は、この男が小競り合いを喜んでいるのを見た。噂を配るシュランゲと、その噂で戦の口実を拾うローデン。二人は示し合わせてなどいないのに、片方が撒いた火種を、片方が待ち構えて拾い上げている。渋沢がひとつ芽を伸ばすそばから、別の手がその根を抜いていく。


 「一つ、教えておいてやる」ローデンは立ち上がった。「明日、俺は国境に兵を出す。市の立つ広場にだ。商いがしたければ、俺の兵の槍の下で商え。……もっとも、そんな度胸のある商人が何人残っているかな」


    *


 翌朝の広場に、市は立たなかった。


 ローデンの兵が槍を立てて並び、その足元に、組まれなかった台の板が積み上げられている。昨日まで塩と藍が隣り合っていた場所に、今朝は槍の影だけが伸びていた。


 塩売りの女が、たった一人、台の板を荷車に積んでいた。渋沢を見ると、決まり悪そうに手を止める。


 「悪く思わないどくれ」女は言った。「あたしだって、商いたいさ。塩も藍も、売れなきゃ腐る。でもね、槍の下で量る度胸はないんだよ」


 女は荷車を引いて、坂を下っていった。塩と藍を同じ台に並べた、あの下地の一つが、渋沢の目の前で畳まれていく。


 「市というものは、脅せば一日で散ります」渋沢は、誰にともなく言った。「ですが人が塩を欲しがるのは、脅しでは止められません。腹の求めるものは、剣でも噂でも消せないのです」


 ボルツが、槍の列を見て舌打ちした。「あんたが十日かけて組んだ台を、あの死の商人は半日で散らしたな。剣より速い噂だ」


 「速いのではありません」渋沢は言った。「遅いのは、私のほうです」


 都から国境まで、鉄の道は通した。だがその道を挟んで、両国の兵が今、槍を並べ始めている。渋沢が国境で撒いた小さな種は、芽を出す前に踏まれた。撒いた端から踏む足が、どこから伸びているのか——その足の主の名を、渋沢はまだ、一本の線に結べずにいた。


 坂の下へ荷車が消えると、広場には槍の列だけが残った。塩と藍を同じ台で商う者は、今朝はもう一人もいない。上の睨み合いが、初めて下の市まで下りてきた朝だった。


 渋沢は、槍の並ぶ広場に背を向けなかった。この広場にもう一度、どうやって塩と藍を並べさせるか。手はまだ、一つも見えていなかった。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


第四十六話は、谷をもう一段深く掘る回でした。前話で壁を一つ見た渋沢に、今度は「せっかく組んだ台を、半日で散らされる」という別種の負けを味わわせています。壁は動かないだけですが、工作は動いて壊しにくる。押し返せない怖さの質を変えたつもりです。


いちばん気を遣ったのは、シュランゲの「火をつけるより、噂を一つ撒くほうがよく燃える」という一言でした。この男は剣を売る商人ですが、いちばんよく売れる燃料が「噂」だと知っている。しかも、それを陽気な声で言う。証を掴ませないまま渋沢を後手に回らせるには、彼に手を汚させないのがいちばん残酷だと思い、あえて何も認めさせませんでした。


オトマーは、この回のためだけに国境を越えてきてもらった穀物商です。敵国の藍で婚礼の衣を染める村がある——その一行を書きたくて、彼に弟を失わせました。戦を厭う民は、上の号令より先に、とっくに商いで手を結んでいる。その芽を、渋沢は今日は守れませんでした。次話、槍はいよいよ抜かれかけます。どうぞお付き合いください。


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