算盤ひとつで、国の御前に
御前会議の間は、天井が高すぎた。
渋沢は磨いた石の床のただ中に立っていた。手にあるのは古びた算盤が一挺きり。左右には鋼の鎧が並んでいる。武勲を刻んだ胸甲が、松明の火を鈍く弾いていた。剣を佩いた老将たちが、その一挺を見下ろしている。
誰かが低く笑った。
「あれが、王都の紙きれをこしらえた男か」
「銭勘定の男爵だ。戦の評定に算盤を提げて参るとはな」
嘲りは隠されもしなかった。渋沢は算盤を持ち直し、深く一礼した。
(笑いたければ、笑えばよろしい。数える者は、いつでも一人から始まります)
玉座にラインハルト三世がいた。肘掛けに指を置いたまま、渋沢を見下ろしている。
「ブルーメンタール、よく参った」王の声は重かった。「皆には、そなたに国庫を預けたと伝えてある」
間が、ざわめいた。武人たちの目が値踏みに変わる。
「戦の評定に、なぜ商人がいる」
太い声が割って入った。列の先頭の偉丈夫だった。白髪を短く刈り込み、鉄灰色の口髭を蓄えている。右肩から胸へ、古い刀傷が走っていた。腰の剣は、この場でも外されていない。
「ファルケンハイン卿」王が名を呼んだ。「この者に、まず帳面を見せよ。……持て」
侍従が一冊の帳面を渋沢の前へ運んだ。表紙は薄く、綴じ紐が擦り切れている。表紙の薄さは、王から一度だけ見せられていた。中を開くのは、これが初めてだった。
渋沢は綴りを開いた。数字を追ううちに、指が止まった。
歳入の欄は短かった。地の税と関の実入りが、痩せた行で並んでいる。その下に、戦費と造営の借りが幾重にも積み上がっていた。片方が細く、片方が分厚い。差引の行まで来て、渋沢は一度、息を整えた。
数字は、表紙の薄さよりなお悪かった。今年の実入りでは、去年の借りの利すら払えない。国庫は、底が抜けていた。
「読み上げよ」王が言った。
玉座の脇の書記官が、痩せた声で数を読んだ。今年の地税が幾ら、関の実入りが幾ら。その倍を超える戦費の借り、さらに宮殿造営の借り。数が積み上がるたびに、間の空気が重くなっていく。渋沢は帳面の行と、読まれる数を一つずつ照らし合わせた。どれも合っていた。一枚の紙が、これほど正直に国の痩せを映すものかと思った。
「これが、余の国だ」王が言った。「連合の綱は切れた。借りだけが残った。……ここから、どう立て直す」
答える前に、ファルケンハインが床を一歩踏んだ。
「陛下。答えなら、千年前から決まっておる」
偉丈夫の声が、間に満ちた。
「国庫が空なら、満たせばよい。奪って満たすまでだ」ファルケンハインは言った。「隣国マルデンの畑も塩も、よく肥えておる。ひと押しでこちらのものだ。兵を出し奪い、持ち帰る。それが武人の勝ち方よ」
列の武人たちが、太い声で同意を漏らした。
「戦は武勲を生む。武勲は、貴族の価値そのもの。銭を数えて縮こまるより、よほど早い」
その声に、私欲の濁りはなかった。信じている者の声だった。渋沢はそれを聞き取った。この男は、私腹のために戦を説いてはいない。国のために、本気で剣を執ろうとしている。
列の若い武人が、拳で胸甲を打った。この老将の下で、幾度も国境を駆けたのだろう。ファルケンハインの一声は、彼らにとって号令そのものだった。渋沢の算盤には、まだ一人の兵もついていない。
ファルケンハインの鷹のような目が、渋沢の算盤へ向いた。
「算盤商人。貴公に、国を語る舌があるのか」
渋沢は算盤を床に置き、一礼してから口を開いた。
「卿の申される勝ち方を、疑うのではありません」渋沢は言った。「ただ一つ、数えさせてください。……その戦は、いくらかかりますか」
「かかる、だと」ファルケンハインが鼻で笑った。「儂は、奪って返すものをかかるとは言わぬ」
「兵の糧や馬の秣、鎧の繕い。運ぶ荷に、焼ける畑」渋沢は指を折った。「それは戦の前に、国庫から出てまいります。奪う前に、まず払う。……この帳面には、もう払う金がありません」
「払う金がなければ、奪った金で払えばよい」
「奪う前に、兵が飢えます」
「飢える前に、勝つ」
会議の間に、また笑いが起きた。今度は渋沢へ真っすぐ向いた笑いだった。
「聞かれたか、皆の衆」ファルケンハインが振り返った。「戦の前に負ける算段を、この男は勝算と呼ぶ」
「男爵」列の奥から、別の老貴族が声を上げた。「貴公が都で紙を回したのは聞いている。国は、紙では守れんぞ。マルデンの兵は、貴公の帳面を読んではくれん」
「戦を厭う者に、国を語る資格はない」ファルケンハインが言い切った。「陛下。銭勘定は銭勘定の場でやらせればよい。ここは武人の評定だ」
渋沢は口を開きかけた。国債という言葉が、喉の手前まで来ていた。皆の小さな金を集め、戦費でなく道と運河に流す。奪わずに国を富ませる道がある——。
だが、この床の上で口にするには、足場が足りなかった。示す数字も、頷く声も、今はない。言葉だけが先に立てば、それこそ嘲りの餌になる。
壁際で、一人の武人が腕を組んでいた。傷だらけの革鎧、白の混じった口髭。アイゼンブルク卿だった。
「ファルケンハイン」アイゼンブルクが言った。「この男の紙が都の膿を一つ出したのは、我もこの目で見た。頭ごなしは武人の流儀ではなかろう」
「見たとも。都の銭勘定をな」ファルケンハインは動じない。「だが戦場を、この男は見ておらぬ。アイゼンブルク、貴公も存外紙に甘くなったものよ」
アイゼンブルクは、それ以上言わなかった。渋沢へ向けた目に、わずかな会釈だけを残した。それが、この場で渋沢に差し出された唯一の手だった。……そして、届く手ではなかった。
ラインハルト三世が、肘掛けを指で叩いた。
「ブルーメンタール」王が言った。「そなたの帳面は、確かに空を映しておる。だが空を満たす手が、そなたにあるか。この場で、示せるか」
渋沢は一度、目を伏せた。答えは、まだ形になっていない。ひと晩あれば、数字に組める。この一瞬に差し出せるものは、まだ手の中になかった。
「……ひと晩、いただけますか」渋沢は言った。
「一晩か」ファルケンハインが鼻を鳴らした。「戦なら、一晩で城が一つ落ちるわ」
王は指の音を止めた。
「下がってよい」王が言った。「戦の支度は、進める。……男爵。次に参る時は、算盤の音より重いものを持て」
渋沢は深く礼をした。石の床が、来た時より広く感じられた。
会議の間を出ると、廊の冷えた空気が肌に触れた。
ゼーバルトが駆け寄った。目元がもう潤んでいる。
「殿。あの侮りよう……手前は、爪が手のひらに食い込みました」
「怒りは、蓄えておいてください」渋沢は言った。「まだ、使う時ではありません」
ボルツが壁に背を預けていた。腕を組んだまま、喉の奥で唸る。
「あんたが黙って頭を下げるのを、初めて見た」ボルツは言った。「都じゃ、あんたが誰かを言い負かす番だったろうに」
「都と国とは、土俵が違うようです」渋沢は答えた。「私は今日、床の広さを一つ数え違えました」
フリッツが帳面を抱えて追いついた。
「旦那様。あの国庫の数字は……本当に、あれきりで」
「本当です」渋沢は言った。「今年の実入りで、去年の利も返せない。あの帳面の底は、私が思うよりずっと深く抜けていました」
フリッツが、抱えた帳面を握り直した。
渋沢は廊の窓から外を見た。王都の屋根の向こうに、北へ延びる街道が霞んでいる。ファルケンハインの声が、まだ耳の底に残っていた。奪って満たす。千年、変わらぬ勝ち方。
立派な信念だった。国を思う心に、嘘はない。ただ一つ、あの勝ち方には抜けている数字があった。奪った土地を守り続ける費えを、あの人は数えていない。
都では、相手の懐の数字を握れば話が動いた。ここでは勝手が違う。武人たちが束ねているのは金ではない。武勲という別の帳面だった。その帳面の読み方を、私はまだ知らない。焦りが、みぞおちの奥で小さく鳴った。九十一年を生きても、初めて踏む土の広さは、やはり足の裏で確かめるしかないらしい。
(奪った土地は、いつか奪い返される。……皆で築いた道は、どうでしょうか)
まだ、声にする言葉ではなかった。胸の底で、種の形をしているだけだった。宿へ戻れば、卓の上にはまだ封を切らぬ北の書状が待っている。それも、いずれ開く。今宵はこの薄い帳面の底を、もう一度数え直すだけだった。
その時、廊の先が慌ただしくなった。埃にまみれた伝令が一人、武人たちの間へ駆け込んでいく。会議の間の扉が、再び開かれた。
すれ違いざま、伝令の声が切れ切れに届いた。
「国境……フライハーフェンの北で、マルデンの兵が……」
続きは、扉の奥へ吸い込まれた。閉じかけた隙間から、ファルケンハインの太い声が漏れた。押し殺した喜びの滲む声だった。
渋沢は、その扉を見つめた。
(戦の足音が、算盤より先に鳴っている)
北の空は、暮れかけていた。街道の霞の向こうに、まだ見ぬ国境の街がある。渋沢は薄い帳面を抱え直し、そちらへ目を凝らした。
数えるべきものが、また一つ増えていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
第四章「鉄道と国債編」、開幕です。前章までの渋沢は、領地でも王都でも、最後には必ず相手を言い負かして終わってきました。今回はあえて、勝たせませんでした。国という土俵は、領地や都よりも一段高い。そこにはまだ、渋沢の足場がありません。算盤ひとつで御前に立ち、居並ぶ武人に嘲笑され、一度は退けられる——その「格上の場での心細さ」を、どうしても一話ぶん、丁寧に描いておきたかったのです。
新しく出てきたファルケンハインは、私がずっと書きたかった型の敵です。腐ってはいません。私腹も肥やしていません。ただ「奪って国を保つ」という千年前の勝ち方を、心の底から信じている。間違っているけれど、立派な人。渋沢が論破して溜飲を下げる相手ではなく、その信念の正しい部分は認めたうえで、手段の古さだけを時間をかけて崩していきたい。だから初手では、渋沢のほうが黙るしかありませんでした。
「奪った土地は、いつか奪い返される」——この一言は、この章全体の背骨になる予定の種です。今はまだ、渋沢の胸の底に転がしただけ。芽が出るのはずっと先です。
戦の足音が近づいてきました。第四章もどうぞお付き合いください。
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