眠れる金貨、目を覚ます
王都ヴェルデンブルクから、金の匂いが消えていた。
半年前、この都に着いた日、渋沢の鼻を真っ先に打ったのはその匂いだった。分厚い扉の奥、鉄の錠に守られた蔵の中で、富がじっと息をひそめている匂い。今はもう、しない。
両替商の通りに、槌の音が鳴っていた。看板を掛け替える音だった。「両替」の文字が並んでいた店の半分近くが、香油屋や仕立屋、菓子屋の看板に変わっている。金を数えるだけだった場所で、誰かが小麦粉を量り、誰かが反物を測っていた。
通りの端に、小さな露店が出ていた。
「旦那様」ハンスが声を張った。「今日は、娘たちに土産を選びに来たんです」
痩せていた行商人はもう痩せて見えなかった。頬に赤みが差し、笑うと目尻に皺が寄る。懐の証文を数えて銀貨に換える指先に、盗賊に怯えていた頃の震えはなかった。
峠を越える足取りにももう怯えはないという。
「良い土産が、見つかりますように」渋沢は頭を下げた。
露店の並びに、かつて両替商だった店があった。今はパン種の匂いがしている。店先に立つ主人が、渋沢に気づいて頭を下げた。
「旦那様のおかげで、看板を替えられました」主人は言った。「両替の客より、パンの客のほうがよほど気が楽です」
少し先で、腰の曲がった老女が杖をつきながら歩いていた。証文を握り直していた、あの老女だった。今日は証文でなく、小さな包みを胸に抱えている。
「蜂蜜飴だよ」老女は渋沢に気づき、皺だらけの顔をほころばせた。「証文が、飴に化けた。悪くない化け方だね」
ゼーバルトが袖で目元を押さえた。
「殿。あの方の頬が、こんなに丸くなるとは」ゼーバルトは鼻をすすった。「この老いた目には、眩しいものです」
「まだ半分です」渋沢は答えた。「頬が丸くなった人が、あと何百人おられるか」
ボルツは腕を組み、通りを見渡していた。
「剣も抜かず、都をひとつ作り替えたか」ボルツは低く言った。「大した戦だ」
人垣を割って、馬車が一台止まった。ガルムだった。
「小僧」ガルムは馬車を降りながら怒鳴った。「聞いたぞ。連合の元締めがまた三軒、証文を学びに来たそうだな」
「総帥のおかげです」渋沢は微笑んだ。
「世辞はいい」ガルムは肥えた腹を揺すって笑った。「はっはっは。ただし、預けた二千枚は利子をつけて返してもらうぞ」
「必ず」渋沢は頷いた。
ガルムは満足げに頷き、また馬車で去っていった。
連合の本部はもう静かだった。
半年前は取次の列が絶えなかった扉の前に、今日は誰もいない。渋沢は一人でその扉をくぐった。
奥の間に、ザロモンがいた。
卓の上には何もなかった。帳簿も、証書も、印章も。黒い衣だけを纏った男が、窓辺に立っていた。
「おいでになると思っておりました、男爵」ザロモンは振り向かずに言った。声から、猫なで声は消えていた。
「連合は」渋沢は言葉を選んだ。「畳まれるのですか」
「畳むというより」ザロモンは窓の外へ目をやった。「畳まれた、というのが正しいでしょうな。元締めどもは、あなたの証文の書き方を学びに行きました。私が半生かけて束ねたものが、紙切れ一枚に負けたのです」
「紙切れではありません」渋沢は静かに答えた。「信用でございます」
「同じことでございましょう」ザロモンは言った。「信用も紙も、私には同じ重さに見えていた。それが誤りだったと、今にして分かります」
沈黙が落ちた。窓の外で、槌の音がまた響いた。
「ザロモン殿」渋沢は言った。「私はあなたを、詐術師とは思っておりません」
ザロモンがようやく振り向いた。
「情けは、いりませぬ」
「情けではなく」渋沢は返した。「事実を申し上げております。眠った金は、死んだ金です。私はただ、起こして回しただけです」
ザロモンの目が一瞬だけ揺れた。
「あなたは負けていません」渋沢は続けた。「ただ、時代が変わっただけです」
「……面白いことを、おっしゃる」ザロモンは笑みを作り直した。だが今度は、計算のための笑みではなかった。
「あの晩、あなたは私に言われましたな」ザロモンは言った。「檻の鼠は、蔵の穴を見つけるのが得意だと」
「覚えております」渋沢は答えた。
「穴を見つけられたのは、鼠ではなく」ザロモンは静かに言った。「蔵そのものが、要らなくなっていたのです。……私はそれを、最後まで見誤りました」
渋沢はふと、ヴェーバーの名を思い出した。
「ヴェーバー殿は、息災でしょうか」渋沢は尋ねた。
「あの男は」ザロモンは目を伏せた。「連合を追われてから、行方を存じません。……駒は、使えなくなれば捨てる。それが、私のやり方でございました」
「そのやり方で」渋沢は静かに言った。「泣いた人がおりました。冬の銀貨を紙切れにされかけた老婆も、証文を疑いかけて列に並んだ行商人も。……私は、その顔を忘れません」
ザロモンが、初めて言葉に詰まった。
「私は、顔を数えたことがなかった」しばらくして、低くそう言った。「金の音だけを、数えてまいりました。……それが、負けの理由やもしれませぬ」
ザロモンは卓の上に、束ねた証書を置いた。
「これは」渋沢が問うた。
「陛下への貸し付けの証にございます」ザロモンは言った。「もう、取り立てるつもりはありません。借りを返せというだけの器量も、私にはもうないようです」
ザロモンは黒い外套を纏い直し、扉へ向かった。振り返らなかった。
「ザロモン殿」渋沢が声をかけた。
足が止まった。
「良い、商いをなさってください。次の場所でも」
ザロモンはしばらく動かずにいた。それから小さく一礼だけ返し、部屋を出ていった。
連合も、蔵の財も、握り続けた帳簿すらも手放した男だった。都を出ていく背には、束ねるべきものが、もう何も残っていなかった。
(奪い合えば、足りません。信じ合えば、足りるのです——あなたには、ついぞ届きませんでしたね)
渋沢はその背を見送った。
王城からの使いが来たのはその夕刻だった。
「陛下が、お呼びです」
玉座の間は以前より静かだった。モーリッツの席はもうない。アイゼンブルク卿が壁際に控え、渋沢に小さく頷いた。ゼーバルトとボルツは、戸口で控えていた。
ラインハルト三世は肘掛けに指を置いたまま渋沢を見下ろした。
「近う」王の声は、低く重かった。「連合は畳まれたそうだな」
「はい」渋沢は進み出て一礼した。
「ザロモンから、証書の束が届いた」王は言った。「余の借財の証だ。……もう、取り立てぬそうだ」
「贋金の讒訴も、それを申し立てた者が地に落ちた今、根を失った」王は続けた。「グラーフェンベルクは造営の帳を偽り、国庫を食んでいた。爵位を剥がれ、王都を追われた。……あの者の唱えた差し止めも、すでに解いてある。二度と、宮廷の敷居はまたがせぬ」
「陛下」渋沢はひと呼吸置いた。「なれば、国庫は」
「軽くなったわけではない」王は懐から一冊の帳面を取り出し、玉座の脇へ置かせた。「見よ。これが、余の国庫だ」
渋沢はその帳面に目を落とした。数字を読むまでもなかった。表紙の薄さが、もう答えを語っていた。
「戦費と、宮殿の造営で」王は言葉を継いだ。「国庫は、底を割って久しい。連合という綱が切れた今、支える手は他にない」
「戦は、武で終わらせられる」王は続けた。「だが借財は、剣では斬れぬと知った」
王は肘掛けを指で叩いた。かつて渋沢を試した時と同じ、思案の癖だった。
「ブルーメンタール」王は言った。「そなたに、この帳面を預ける。連合に代わる金の道を、余のために作れ。……できるか」
玉座の間が静まった。
渋沢は一度、目を伏せた。まぶたの裏を、鞭に打たれていた領民の顔が過ぎった。それから顔を上げた。
「陛下」渋沢は言った。「お引き受けいたします」
「褒美と思うな」王は言った。「これは、賭けだ。……もう一度、大きな口を叩いてみせよ」
「大きな口は、叩きません」渋沢は答えた。「算盤で、お応えいたします」
王がわずかに口の端を上げた。値踏みも侮りもない、ただの笑みだった。
「見事な度胸だ」アイゼンブルク卿が壁際から低く言った。「武人が束になっても、示せぬ度胸だな」
玉座の間を辞して外に出ると、ゼーバルトが目元を袖で押さえていた。
「殿。国という帳面を預かる日が来ようとは」ゼーバルトは声を詰まらせた。
「泣くのは、まだ早いです」渋沢は微笑んだ。「開けてすらいません」
「贅沢を言うな」ボルツが呟いた。「国の帳面を任される男爵なんぞ、聞いたこともない。……それを、あんたが今から作るんだろう」
ボルツは短く笑った。
アイゼンブルク卿が戸口ですれ違いざま、ボルツに小さく頷いた。
「今度は、抜かずに済む戦か」ボルツはその背に呟いた。「悪くない」
その夜、渋沢は宿の窓辺に立った。
半年前と同じ窓だった。眼下に広がる王都の灯も、同じはずだった。だが灯の色が、違って見えた。あの晩、灯の狭間に黒くうずくまっていた連合の蔵は、もうない。
懐から、古びた算盤を取り出した。前の当主が賭博の借金を数えた、あの一挺だった。
珠を、ひとつ弾く。
かちり、と乾いた音が、王都の夜にひとつ、落ちた。
半年前と同じ音だった。ただ、意味が違った。あの晩の音は、これから起こす者の宣言だった。今夜の音は、起こし終えた者の、ただの息継ぎだった。
フリッツが帳面を抱えて隣に立った。指は、もう震えていなかった。
「旦那様」フリッツが言った。「次は、何を開くのですか」
渋沢は窓の外、王都の向こう、北の空を見やった。星の下に、遠く霞んだ山並みがあった。
「国という帳面です」渋沢は答えた。「まだ、開いたばかりで」
その先に何があるのか、まだ分からなかった。運河か、鉄の道か、あるいは山の向こうの隣人か。
宮廷には、扇の陰に隠れたままの者がまだいる。銀貨でしか商わぬと去っていった者もいる。どれも、いつか同じ帳面の上で会うことになるだろう。今日はまだ、閉じておけばいい。
卓の上には王城から渡された帳面のほかに、まだ封を切っていない書状が一通あった。宛名も差出人も、見慣れぬ北の綴りで記されている。
封蝋には見たことのない紋が押してあった。
開けるのはまた明日でいい。
渋沢の胸に、恐れはなかった。
(焼け野原ほど、よく育つ)
二度目の生の初めに、自分で口にした言葉だった。眠っていた金貨の都も、結局は同じだったのかもしれない。
二度目の生で、また一つ、目を覚まさせるものがある。それだけで、十分だった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
第三章「王都・貨幣編」、これにて完結です。第22話の終わりで渋沢が算盤を弾き「さあ——起こしましょうか。この、眠れる金貨の都を」と挑んだあの宣言を、今回ようやく「起こした」で回収できました。同じ「かちり」という音を、今回も鳴らしています。ただ、あの晩は宣言の音で、今回は息継ぎの音になりました。音そのものは変えず、意味だけを変えたくて、ここは何度も書き直しました。
ザロモンの退場は、この章でいちばん悩んだ場面です。宮廷派モーリッツは前回、数字の前に崩れて連れていかれましたが、ザロモンには同じ幕引きをさせたくありませんでした。彼は最後まで転向しません。悪びれもしません。ただ、時代に負けたことだけを認めて去っていく。ガルムが渋沢の側に付いたのとは正反対の道です。「あなたは負けていません。ただ、時代が変わっただけです」は、書いていて自分でも一番好きな一言になりました。
国王ラインハルト三世が渋沢に国の帳面を託す場面で、いよいよ物語の舞台が一つの領地から一つの国へ広がります。次章、第四章「鉄道と国債編」では、渋沢は剣も魔法も持たぬまま、国家という桁違いの相手と向き合うことになります。ここまでお付き合いくださった皆様、本当にありがとうございました。第四章もどうぞお楽しみに。
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