↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
国一番の悪徳領主に転生したが、中身が渋沢栄一なので、搾り取った税を全部返したら領民にガチで怯えられた件  作者: 藍田 算


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
38/56

眠れる金貨、目を覚ます

 王都ヴェルデンブルクから、金の匂いが消えていた。


 半年前、この都に着いた日、渋沢の鼻を真っ先に打ったのはその匂いだった。分厚い扉の奥、鉄の錠に守られた蔵の中で、富がじっと息をひそめている匂い。今はもう、しない。


 両替商の通りに、槌の音が鳴っていた。看板を掛け替える音だった。「両替」の文字が並んでいた店の半分近くが、香油屋や仕立屋、菓子屋の看板に変わっている。金を数えるだけだった場所で、誰かが小麦粉を量り、誰かが反物を測っていた。


 通りの端に、小さな露店が出ていた。


「旦那様」ハンスが声を張った。「今日は、娘たちに土産を選びに来たんです」


 痩せていた行商人はもう痩せて見えなかった。頬に赤みが差し、笑うと目尻に皺が寄る。懐の証文を数えて銀貨に換える指先に、盗賊に怯えていた頃の震えはなかった。


 峠を越える足取りにももう怯えはないという。


「良い土産が、見つかりますように」渋沢は頭を下げた。


 露店の並びに、かつて両替商だった店があった。今はパン種の匂いがしている。店先に立つ主人が、渋沢に気づいて頭を下げた。


「旦那様のおかげで、看板を替えられました」主人は言った。「両替の客より、パンの客のほうがよほど気が楽です」


 少し先で、腰の曲がった老女が杖をつきながら歩いていた。証文を握り直していた、あの老女だった。今日は証文でなく、小さな包みを胸に抱えている。


「蜂蜜飴だよ」老女は渋沢に気づき、皺だらけの顔をほころばせた。「証文が、飴に化けた。悪くない化け方だね」


 ゼーバルトが袖で目元を押さえた。


「殿。あの方の頬が、こんなに丸くなるとは」ゼーバルトは鼻をすすった。「この老いた目には、眩しいものです」


「まだ半分です」渋沢は答えた。「頬が丸くなった人が、あと何百人おられるか」


 ボルツは腕を組み、通りを見渡していた。


「剣も抜かず、都をひとつ作り替えたか」ボルツは低く言った。「大した戦だ」


 人垣を割って、馬車が一台止まった。ガルムだった。


「小僧」ガルムは馬車を降りながら怒鳴った。「聞いたぞ。連合の元締めがまた三軒、証文を学びに来たそうだな」


「総帥のおかげです」渋沢は微笑んだ。


「世辞はいい」ガルムは肥えた腹を揺すって笑った。「はっはっは。ただし、預けた二千枚は利子をつけて返してもらうぞ」


「必ず」渋沢は頷いた。


 ガルムは満足げに頷き、また馬車で去っていった。




 連合の本部はもう静かだった。


 半年前は取次の列が絶えなかった扉の前に、今日は誰もいない。渋沢は一人でその扉をくぐった。


 奥の間に、ザロモンがいた。


 卓の上には何もなかった。帳簿も、証書も、印章も。黒い衣だけを纏った男が、窓辺に立っていた。


「おいでになると思っておりました、男爵」ザロモンは振り向かずに言った。声から、猫なで声は消えていた。


「連合は」渋沢は言葉を選んだ。「畳まれるのですか」


「畳むというより」ザロモンは窓の外へ目をやった。「畳まれた、というのが正しいでしょうな。元締めどもは、あなたの証文の書き方を学びに行きました。私が半生かけて束ねたものが、紙切れ一枚に負けたのです」


「紙切れではありません」渋沢は静かに答えた。「信用でございます」


「同じことでございましょう」ザロモンは言った。「信用も紙も、私には同じ重さに見えていた。それが誤りだったと、今にして分かります」


 沈黙が落ちた。窓の外で、槌の音がまた響いた。


「ザロモン殿」渋沢は言った。「私はあなたを、詐術師とは思っておりません」


 ザロモンがようやく振り向いた。


「情けは、いりませぬ」


「情けではなく」渋沢は返した。「事実を申し上げております。眠った金は、死んだ金です。私はただ、起こして回しただけです」


 ザロモンの目が一瞬だけ揺れた。


「あなたは負けていません」渋沢は続けた。「ただ、時代が変わっただけです」


「……面白いことを、おっしゃる」ザロモンは笑みを作り直した。だが今度は、計算のための笑みではなかった。


「あの晩、あなたは私に言われましたな」ザロモンは言った。「檻の鼠は、蔵の穴を見つけるのが得意だと」


「覚えております」渋沢は答えた。


「穴を見つけられたのは、鼠ではなく」ザロモンは静かに言った。「蔵そのものが、要らなくなっていたのです。……私はそれを、最後まで見誤りました」


 渋沢はふと、ヴェーバーの名を思い出した。


「ヴェーバー殿は、息災でしょうか」渋沢は尋ねた。


「あの男は」ザロモンは目を伏せた。「連合を追われてから、行方を存じません。……駒は、使えなくなれば捨てる。それが、私のやり方でございました」


「そのやり方で」渋沢は静かに言った。「泣いた人がおりました。冬の銀貨を紙切れにされかけた老婆も、証文を疑いかけて列に並んだ行商人も。……私は、その顔を忘れません」


 ザロモンが、初めて言葉に詰まった。


「私は、顔を数えたことがなかった」しばらくして、低くそう言った。「金の音だけを、数えてまいりました。……それが、負けの理由やもしれませぬ」


 ザロモンは卓の上に、束ねた証書を置いた。


「これは」渋沢が問うた。


「陛下への貸し付けの証にございます」ザロモンは言った。「もう、取り立てるつもりはありません。借りを返せというだけの器量も、私にはもうないようです」


 ザロモンは黒い外套を纏い直し、扉へ向かった。振り返らなかった。


「ザロモン殿」渋沢が声をかけた。


 足が止まった。


「良い、商いをなさってください。次の場所でも」


 ザロモンはしばらく動かずにいた。それから小さく一礼だけ返し、部屋を出ていった。


 連合も、蔵の財も、握り続けた帳簿すらも手放した男だった。都を出ていく背には、束ねるべきものが、もう何も残っていなかった。


(奪い合えば、足りません。信じ合えば、足りるのです——あなたには、ついぞ届きませんでしたね)


 渋沢はその背を見送った。




 王城からの使いが来たのはその夕刻だった。


「陛下が、お呼びです」


 玉座の間は以前より静かだった。モーリッツの席はもうない。アイゼンブルク卿が壁際に控え、渋沢に小さく頷いた。ゼーバルトとボルツは、戸口で控えていた。


 ラインハルト三世は肘掛けに指を置いたまま渋沢を見下ろした。


「近う」王の声は、低く重かった。「連合は畳まれたそうだな」


「はい」渋沢は進み出て一礼した。


「ザロモンから、証書の束が届いた」王は言った。「余の借財の証だ。……もう、取り立てぬそうだ」


「贋金の讒訴も、それを申し立てた者が地に落ちた今、根を失った」王は続けた。「グラーフェンベルクは造営の帳を偽り、国庫を食んでいた。爵位を剥がれ、王都を追われた。……あの者の唱えた差し止めも、すでに解いてある。二度と、宮廷の敷居はまたがせぬ」


「陛下」渋沢はひと呼吸置いた。「なれば、国庫は」


「軽くなったわけではない」王は懐から一冊の帳面を取り出し、玉座の脇へ置かせた。「見よ。これが、余の国庫だ」


 渋沢はその帳面に目を落とした。数字を読むまでもなかった。表紙の薄さが、もう答えを語っていた。


「戦費と、宮殿の造営で」王は言葉を継いだ。「国庫は、底を割って久しい。連合という綱が切れた今、支える手は他にない」


「戦は、武で終わらせられる」王は続けた。「だが借財は、剣では斬れぬと知った」


 王は肘掛けを指で叩いた。かつて渋沢を試した時と同じ、思案の癖だった。


「ブルーメンタール」王は言った。「そなたに、この帳面を預ける。連合に代わる金の道を、余のために作れ。……できるか」


 玉座の間が静まった。


 渋沢は一度、目を伏せた。まぶたの裏を、鞭に打たれていた領民の顔が過ぎった。それから顔を上げた。


「陛下」渋沢は言った。「お引き受けいたします」


「褒美と思うな」王は言った。「これは、賭けだ。……もう一度、大きな口を叩いてみせよ」


「大きな口は、叩きません」渋沢は答えた。「算盤で、お応えいたします」


 王がわずかに口の端を上げた。値踏みも侮りもない、ただの笑みだった。


「見事な度胸だ」アイゼンブルク卿が壁際から低く言った。「武人が束になっても、示せぬ度胸だな」


 玉座の間を辞して外に出ると、ゼーバルトが目元を袖で押さえていた。


「殿。国という帳面を預かる日が来ようとは」ゼーバルトは声を詰まらせた。


「泣くのは、まだ早いです」渋沢は微笑んだ。「開けてすらいません」


「贅沢を言うな」ボルツが呟いた。「国の帳面を任される男爵なんぞ、聞いたこともない。……それを、あんたが今から作るんだろう」


 ボルツは短く笑った。


 アイゼンブルク卿が戸口ですれ違いざま、ボルツに小さく頷いた。


「今度は、抜かずに済む戦か」ボルツはその背に呟いた。「悪くない」




 その夜、渋沢は宿の窓辺に立った。


 半年前と同じ窓だった。眼下に広がる王都の灯も、同じはずだった。だが灯の色が、違って見えた。あの晩、灯の狭間に黒くうずくまっていた連合の蔵は、もうない。


 懐から、古びた算盤を取り出した。前の当主が賭博の借金を数えた、あの一挺だった。


 珠を、ひとつ弾く。


 かちり、と乾いた音が、王都の夜にひとつ、落ちた。


 半年前と同じ音だった。ただ、意味が違った。あの晩の音は、これから起こす者の宣言だった。今夜の音は、起こし終えた者の、ただの息継ぎだった。


 フリッツが帳面を抱えて隣に立った。指は、もう震えていなかった。


「旦那様」フリッツが言った。「次は、何を開くのですか」


 渋沢は窓の外、王都の向こう、北の空を見やった。星の下に、遠く霞んだ山並みがあった。


「国という帳面です」渋沢は答えた。「まだ、開いたばかりで」


 その先に何があるのか、まだ分からなかった。運河か、鉄の道か、あるいは山の向こうの隣人か。


 宮廷には、扇の陰に隠れたままの者がまだいる。銀貨でしか商わぬと去っていった者もいる。どれも、いつか同じ帳面の上で会うことになるだろう。今日はまだ、閉じておけばいい。


 卓の上には王城から渡された帳面のほかに、まだ封を切っていない書状が一通あった。宛名も差出人も、見慣れぬ北の綴りで記されている。


 封蝋には見たことのない紋が押してあった。


 開けるのはまた明日でいい。


 渋沢の胸に、恐れはなかった。


(焼け野原ほど、よく育つ)


 二度目の生の初めに、自分で口にした言葉だった。眠っていた金貨の都も、結局は同じだったのかもしれない。


 二度目の生で、また一つ、目を覚まさせるものがある。それだけで、十分だった。



最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


第三章「王都・貨幣編」、これにて完結です。第22話の終わりで渋沢が算盤を弾き「さあ——起こしましょうか。この、眠れる金貨の都を」と挑んだあの宣言を、今回ようやく「起こした」で回収できました。同じ「かちり」という音を、今回も鳴らしています。ただ、あの晩は宣言の音で、今回は息継ぎの音になりました。音そのものは変えず、意味だけを変えたくて、ここは何度も書き直しました。


ザロモンの退場は、この章でいちばん悩んだ場面です。宮廷派モーリッツは前回、数字の前に崩れて連れていかれましたが、ザロモンには同じ幕引きをさせたくありませんでした。彼は最後まで転向しません。悪びれもしません。ただ、時代に負けたことだけを認めて去っていく。ガルムが渋沢の側に付いたのとは正反対の道です。「あなたは負けていません。ただ、時代が変わっただけです」は、書いていて自分でも一番好きな一言になりました。


国王ラインハルト三世が渋沢に国の帳面を託す場面で、いよいよ物語の舞台が一つの領地から一つの国へ広がります。次章、第四章「鉄道と国債編」では、渋沢は剣も魔法も持たぬまま、国家という桁違いの相手と向き合うことになります。ここまでお付き合いくださった皆様、本当にありがとうございました。第四章もどうぞお楽しみに。


☆評価・ブックマーク・感想をいただけると、次章の大きな励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。