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国一番の悪徳領主に転生したが、中身が渋沢栄一なので、搾り取った税を全部返したら領民にガチで怯えられた件  作者: 藍田 算


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扇の陰に、日が差す

 扇の骨が乾いた音を立てて開いた。


「本日をもって、辺境の茶番も終わりですわね」モーリッツは扇の陰から笑った。「証文だ紙幣だと、都をさんざん騒がせて。血も知れぬ成り上がりの限界というものですこと」


 白髪の老貴族が扇を口元に当てて忍び笑った。取り巻きの貴族たちも、扇の内緒話のように囁き合った。


「詮議とは名ばかり」モーリッツは続けた。「陛下がわざわざ辺境者の顔を立てておやりになる、最後のお慈悲でございますわね」


「グラーフェンベルク卿のご采配、いつもながら見事にございますな」若い廷臣がすかさず追従した。


 モーリッツは満足げに扇を鳴らした。


 玉座の間に、宮廷人たちの含み笑いが低く広がった。天井の高い広間には、朝の光が差し込み、大理石の床に長い影を落としていた。居並ぶ廷臣の間に、赤い外套の武官と黒衣の文官が入り混じっていた。誰もがモーリッツの勝利を疑っていないようだった。


 渋沢は今日も飾らぬ商人風の装いのまま、フリッツとともに広間の中央へ進んだ。豪奢な衣の廷臣たちの中で、その質素さがかえって浮いて見えた。渋沢はその笑いを黙って受け止めた。


(勝ち誇るのも今日までだ)


 三日前、陛下から届いた文には一行だけあった。国庫の帳合わせに、目を貸せ。渋沢はその一行に応え、国庫の帳簿を洗い直した。フリッツとともに、書庫の焚火から救われた造営の帳の写しとも突き合わせた。夜を徹して数字を追い、指先にインクの染みを作りながら、三日をかけて一枚ずつ照らし合わせた。数字は、隠れる場所を持たなかった。




 玉座には、ラインハルト三世が肘掛けに指を置いていた。傍らに侍る廷臣たちの列の端に、アイゼンブルクの姿もあった。傷だらけの革鎧のまま、剣の柄に手を添え、黙して成り行きを見ていた。


「近う」王の声は低く重かった。「その帳面、余の前で開いてみせよ」


 渋沢は進み出て一礼した。フリッツが帳面の束を抱え、その隣に立った。指先が強張っているのが分かった。だが震えてはいなかった。三日の突き合わせで、指はもう迷わなくなっていた。ボルツは戸口で腕を組み、ゼーバルトはこわばる手で帳面の端を支えた。


「グラーフェンベルク卿」渋沢はモーリッツへ向き直った。「王室財務のご報告、拝見いたしました。今日は、その数字を国庫の帳簿と重ねてみたいと思います」


「重ねるも何も」モーリッツは扇を揺らした。「造営の帳など、とうに片付けましたこと。見せる帳面など、どこにもありませんわ」


「片付けたはずの帳面の、写しがございます」渋沢は懐から紙片を取り出した。「書庫の炉にくべられる前に、拾われたものです」


 モーリッツの扇が一瞬止まった。


「そんなものが、どこから」モーリッツの声がわずかに硬くなった。「証拠と呼ぶには、あまりに心もとない紙切れですこと」


「心もとないかどうかは」渋沢は言葉を継いだ。「国庫の帳簿と重ねてから、お決めください」




 フリッツが国庫の帳面を開いた。


「造営費、実費にしておよそ四千ゴルト」フリッツは声を抑えて読み上げた。「王室財務の計上は、一万二千ゴルト」


 どよめきが玉座の間を渡った。


「三倍……」誰かが呟いた。


 廷臣の列がじわりと後ずさった。


 フリッツが次の頁をめくった。


「建国祭の宴、膳は三百のはずが帳面には五百とございます」フリッツは続けた。


 白髪の老貴族が手にした扇をぽとりと落とした。かつて扇で叩かれたことのある小姓が人垣の陰で口元をそっとほころばせた。


「連合からの用立ての一部も、こちらに流れております」渋沢は言葉を添えた。


「連合への返済に充てるはずの二千ゴルトも」フリッツが帳面を指でなぞった。「届いた記録がございません」


 モーリッツの顔から、笑みが抜け落ちた。


「な……何かの間違いですこと」モーリッツは扇を握り直した。「宮廷の慣例というものが、あなたには分かりませんのね」


「慣例で消える数字なら」渋沢は答えた。「最初から、書かずともよかったはずです」


「これは、書記の手違いに過ぎませんこと」モーリッツは声を上ずらせた。「私は、何も存じません」


「書記の名も、ここに記されております」渋沢は帳面を指した。「ですが命じた署名は、グラーフェンベルク卿のものです」


 モーリッツは扇で辺りを払うように見回した。


「ザロモン殿に、使いを……」モーリッツの声が尻すぼみになった。


 連合の手代の姿はどこにもなかった。今日この場に、モーリッツの後ろ盾は誰もいなかった。


 モーリッツの喉が動いた。場が凍りついた。誰も次の言葉を継がなかった。廷臣の一人が、そっと列の後ろへ下がっていった。




 渋沢は帳面を一枚めくった。フリッツの指がその頁の隅を押さえた。


「グラーフェンベルク卿、三口を合わせておよそ一万二千ゴルトです」渋沢は告げた。


 その数字が落ちた瞬間、モーリッツの香油に固めた巻き毛の下から、脂汗がひとすじ流れた。扇を握る指の関節が白く浮いていた。


「そ……そんな帳簿は……で、出鱈目だ! 私を、この私を、誰と心得る——!」


 扇の骨が指の間できしんだ。


 王の指が肘掛けの上で止まった。アイゼンブルクは眉ひとつ動かさず、成り行きを見届けていた。


 渋沢はその崩れを静かに見ていた。勝ち誇る声も、居丈高な物言いも、もうそこにはなかった。


「嘘は、帳簿に残ります」渋沢は言った。「数字は、賄賂を受け取りません」


 玉座の間に、しばらく誰の声もしなかった。廷臣の誰かが小さく息を吐く音だけが静けさの底に沈んでいた。




 アイゼンブルクが初めて口を開いた。


「見事な太刀筋だ」アイゼンブルクは言った。「剣も使わず、数字だけで裸にする。武人が束になっても敵わぬ戦い方だな」


 モーリッツは何も言い返せなかった。膝から、力が抜けていくのが見えた。


「陛下」渋沢は玉座へ一礼した。「私に申し上げられるのは、ここまでにございます。裁きは、陛下のご判断に」


 ラインハルト三世はしばらく黙って帳面を見下ろしていた。肘掛けを叩く指が一度、二度と止まった。


「グラーフェンベルク」王は低く告げた。「そなたの職を解く。財務より逐い、沙汰が下るまで屋敷にて謹慎せよ」


「陛下……お待ちを、私は……」モーリッツは膝をつきかけた。


「余の貨幣に、十年も泥を塗っていたとはな」王は続けた。「その口で、まだ言い訳をするか」


 衛兵が二人、音もなくモーリッツの両脇に立った。縄も、鞭も、そこにはなかった。ただ両脇を挟まれて歩かされるだけだった。


 廷臣の間から、安堵したような小さなため息がいくつも漏れた。誰もモーリッツをかばう声を上げなかった。


 モーリッツは何かを言いかけ、結局、何も言わずに連れられていった。扇が床に落ちる音だけが玉座の間に響いた。


 窓から差し込む朝の光が落ちた扇の骨をひとすじ照らした。数字を隠す陰はもうどこにもなかった。


 廷臣の列から、幾人かが人知れず姿を消していた。アイゼンブルクが言ったとおり、扇の陰を隠れ蓑にしてきた者はモーリッツひとりではないのだろう。




 人垣が崩れ、囁きが広がっていく。


 ゼーバルトが目元を袖で押さえながら、渋沢の隣に来た。


「殿。この老いた耳で、あの扇の落ちる音を聞けるとは思いませんでした」ゼーバルトは声を詰まらせた。


「まだ、途中です」渋沢は答えた。「宮廷の膿を出しただけで、国は良くなりません」


「贅沢を言うな」ボルツが呟いた。「剣も使わず、あの扇を叩き折ったんだ。今日くらい、胸を張れ」


「胸を張るのは」渋沢は微笑んだ。「もう少し、先にとっておきます」


「へそ曲がりめ」ボルツは短く笑った。


 アイゼンブルクが渋沢の前に立ち、深く一礼した。


「宮廷に、我に続く者は多くない」アイゼンブルクは言った。「だが、今日で少し増えるはずだ」


「ありがとうございます」渋沢は頭を下げた。


 王座を見上げると、ラインハルト三世の目には今までと違う色があった。侮りでも、値踏みでもない、何かだった。


「ブルーメンタール」王が呼んだ。「そなたの帳面は、まだ続くのか」


「続きます」渋沢は言った。「まだ開いていない帳面が、この国には残っております」


 王は何も言わず、ただ小さく頷いた。


 その一言に、渋沢は王を見上げた。その目にはもう、値踏みの色はなかった。三日前までは辺境の鼠と侮っていた男に、王が国の帳面を託そうとしている——渋沢はその変化を黙って受け止めた。


 フリッツが小さく息をついた。


「旦那様」フリッツが言った。「最初にお会いした日、私はあなたを警戒しておりました」


「存じております」渋沢は微笑んだ。


「今は」フリッツは帳面を抱え直した。「この帳面を、誇りに思っております」


 玉座の間を辞し、外へ出ると、王都の空は晴れていた。フリッツが帳面を閉じた。その指は最後まで震えなかった。詰めていた息を、ようやく吐き出した。ゼーバルトはいつの間にか涙ぐんでいた。ボルツは剣の柄から、ようやく手を離した。


 辺境から王都に着いたばかりの頃、剣も魔法も持たぬ自分に何ができるのかと案じた夜があった。今は、算盤ひとつで国の帳面を開く日が来ている。


 渋沢の胸には、まだ片づいていない一つの名が残っていた——両替商連合、盟主ザロモン。


 宮廷の膿は出た。残るは都そのものの決着だった。



最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


宮廷派モーリッツの断罪、今回でようやく決着です。EP25で初登場した時から、彼の血筋マウントと弱者蔑視をずっと溜め続けてきました。EP1で横領代官ボルグを金貨四百枚の帳面で断じた場面を、今回は国家規模、しかも玉座の間で再演したつもりです。規模は上がっても、渋沢のやり方は変わりません。数字を並べるだけで、剣も鞭も使いません。


EP31-32で勝ち誇っていたモーリッツが、EP36で自ら証拠を燃やしながら、その帳面を従者に一冊だけ抜き取られていたのは、彼自身が最後まで気づかない墓穴でした。今回、書記の手違いのせいにしようとあがく場面を書き足したのですが、あがけばあがくほど自分の首を締めていく感じが、書いていて一番気持ちよかったです(褒め言葉です)。


アイゼンブルク卿という新しい味方の目を通して、渋沢の戦い方を「武の正道」と評してもらえたのも、書いていて嬉しい場面でした。廷臣たちがそっと姿を消す一文は、モーリッツひとりの腐敗では終わらない宮廷の奥行きを匂わせたくて入れました。


タイトルの「扇の陰に、日が差す」は、EP35・EP36で繰り返し使った「あの帳簿にもいずれ日が差す」という独白を、今回の落ちた扇に重ねてみました。


宮廷の決着はつきましたが、両替商連合の盟主ザロモンの結末は、まだ残っています。次回、いよいよ第三章の完結です。どうぞお楽しみに。


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