灰になる前に
朝の光の中、帳場の前に列ができていた。
ただ、向きが違う。証文を握った手が今日は、こちらへ差し出されていた。石畳を踏む足音も心なしか軽かった。
渋沢はその列をしばらく黙って見ていた。
(引き出す列が預ける列に変わった。それだけで、これほど息がしやすくなるとは)
列の中に、見覚えのある腰の曲がった老女もいた。証文を握りしめ、フリッツに小さく会釈してよこした。
列の先頭に、痩せた男が立っていた。ハンスだった。
「今日は、預けにきました」ハンスは証文を差し出した。「峠は、もう怖くありません」
「良い便りです」渋沢は微笑んだ。
ハンスの後ろに、見知らぬ顔がいくつも並んでいた。噂を聞いて来た者たちだった。
フリッツが帳面を抱えて駆け寄ってきた。
「旦那様、今朝だけで五十七人。皆さん、預けにいらしています」フリッツの声が弾んでいた。「昨日の倍以上です」
「隣町からも、来ていますか」渋沢は問うた。
「はい。街道向こうの商人まで、証文を受け取ってくれと」フリッツは帳面をめくった。「総帥からも、追加の預け入れが届いております」
渋沢は頷いた。喉の奥に残っていた苦さも、消えていた。
ゼーバルトが茶を運んできた。今朝は珍しく涙ぐんでいなかった。
「殿、実はもうひとつ」ゼーバルトが声を潜めた。「両替商の元締めのひとりが、使者をよこしまして」
「なんと」
「証文の仕組みを、教えてほしいと」ゼーバルトは眉を寄せた。「連合の看板を下ろす覚悟だとか」
渋沢は帳面を置いた。
(分断で儲ける仕組みが内側から崩れ始めた)
「断る理由はございません」渋沢は応じた。「開いた戸口に、鍵はかけません」
「殿……この老いた目に、また見せてくださいますか」ゼーバルトはようやく目元を拭った。
「まだ、途中です」渋沢は答えた。
昼下がり、見慣れぬ男が帳場の隅で順番を待っていた。地味な身なりだが、指には両替商特有のたこがあった。
「隣町で、両替商をしております」男は帳面を持つ手を落ち着かせるように握った。「連合の下で、二十年勤めてまいりました」
「何を、お望みですか」渋沢は尋ねた。
「証文の書き方を、教えていただきたい」男は頭を下げた。「もう分断で儲ける商いに、疲れました」
渋沢はその手を取った。
「明日から、フリッツと組んでください」渋沢は告げた。「一枚ずつ、覚えていきましょう」
男は肩の力を抜き、深く息を吐いた。
フリッツがその後ろで、目を丸くしていた。
「元締めが、みずから頭を下げるとは」フリッツは小声で漏らした。
「一人が動けば、次が続きます」渋沢は静かに言った。「連合の壁は、意外に薄いのかもしれません」
日が傾きかけた頃、戸口にボルツが姿を見せた。
「あんた、客だ」ボルツが言った。「妙な客だぞ、これは」
人垣を割って現れたのは、鎧を纏った初老の武人だった。白髪交じりの口髭を蓄え、革の鎧には無数の傷跡が刻まれていた。腰の剣に手を添えたまま、まっすぐに渋沢の前まで歩いてきた。
「ブルーメンタール男爵。我は、コンラート・フォン・アイゼンブルク」男は名乗った。「宮廷にて、武門の末席を汚す者だ」
「アイゼンブルク卿」渋沢は姿勢を正した。「本日は、どのようなご用向きで」
「見に来た」アイゼンブルクは短く答えた。「金貨も剣も持たず、都をひとつ動かした男の顔を」
ボルツが腕を組んで横に立った。二人の視線が一度、剣の柄に落ちた。
「その剣、抜いたことは」アイゼンブルクがボルツに問うた。
「数えきれん」ボルツは平然と返した。「だが、この王都に来てからは一度もない」
「ほう」アイゼンブルクは初めて口の端を上げた。「面白い時代だ」
「型は、崩れておらんな」アイゼンブルクはボルツの構えを一瞥した。「良い型だ」
「褒め言葉には聞こえんな」ボルツは唸った。
「宮廷では、貴殿を紙芝居と嘲る者がいる」アイゼンブルクは渋沢へ向き直った。「我は、蔵を開け放って民に見せる貴殿の姿を恥とは思わぬ」
「畏れ入ります」渋沢は答えた。
「武神アレスは、隠れて戦う者を嫌う」アイゼンブルクは続けた。「正面から名乗り、刃を交えて負ければ潔く退く。それが武人の正道だ」
「私は剣も魔法も持ちません」渋沢は言った。「ですが、隠さぬことだけはいたしております」
「それで、十分だ」アイゼンブルクは頷いた。「グラーフェンベルク卿のように扇の陰で数字を隠す者よりは、よほど武人らしい」
その一言に、渋沢は静かに目を見開いた。
「グラーフェンベルク卿は、近頃様子がおかしいという噂もある」アイゼンブルクは声を落とした。「造営の帳面を、夜な夜な書庫から運び出しているとか」
「書庫から」渋沢は問い返した。
「詳しくは知らぬ」アイゼンブルクは首を振った。「宮廷の噂だ。だが、疚しいことのない者は夜に帳面を抱えて走ったりはせぬ」
渋沢は胸の内で、その一言を静かに刻んだ。
(あの帳簿にもいずれ日が差す。——先日そう思ったばかりだった)
「良い話を、ありがとうございます」渋沢は頭を下げた。
「礼はいらぬ」アイゼンブルクは言った。「我は、我の正道を歩んだだけだ」
「宮廷には、我に続く者もいる」アイゼンブルクは付け加えた。「表立って動くのは、まだ先の話だろうがな」
アイゼンブルクは踵を返し、来た時と同じ足取りで去っていった。
ボルツはその背をしばらく見送っていた。
「剣を抜かん武人がいるとはな」ボルツはぽつりと言った。「あの手の男が敵に回ったら、厄介だったろうよ」
「今は、味方です」渋沢は答えた。
「だな」ボルツは短く笑った。
——その夜、王城の書庫は夜更けても蝋燭の灯りが絶えなかった。窓の外には月もなく、書庫の闇はいつもより深かった。
モーリッツは自らの手で、造営費の帳面を炉にくべていた。
「こんな帳面……最初から、なければよかったのですわ」モーリッツは独りごちた。
香油で固めた巻き毛の下、額に脂汗がにじんでいた。
(あの成り上がりの男爵がザロモン殿すら退けた。次はこの私の番だとでも言うのですか)
扇の骨を握る手に力がこもった。この十年、造営の帳面はいつも都合よく書き換えてきた。今さら、誰にも触らせるつもりはなかった。
「私が、この私が……このような辺境者風情に、脅かされるいわれはありませんこと」
従者が新しい帳面の束を運んでくる。
「殿……本当に、全てをでございますか」従者はためらいがちに尋ねた。
「全てです」モーリッツは声を荒げた。「聞き返すことこそ、無礼と知りなさい」
「造営費も饗宴費も連合への返済も、帳面という帳面を跡形もなく燃やしてしまいなさい」モーリッツは早口で言った。
「かしこまりました」従者は答えた。その声には、いつもの追従の響きがなかった。
モーリッツは気づかなかった。けれど帳面の束のうち一冊だけが、従者の懐にそっと消えていた。
明くる日の夕刻、フリッツが息を切らして戻ってきた。
「旦那様。妙な男が、裏口に」フリッツは声を潜めた。「王城の書記官だと名乗る者です」
案内された男は粗末な外套を纏い、顔を伏せていた。震える手で、帳面の切れ端を差し出した。
「これを、お渡ししたく」男は小さく言った。「造営の帳の、写しの一部です。……夜、燃やされる前に抜き取りました」
渋沢はその紙片を受け取った。数字の羅列がそこにあった。まだ、断ずるには足りない数字だった。
「なぜ、私に」渋沢は問うた。
「あの御方の下で、十年働きました」男は顔を上げずに答えた。「もう、恥じずに歩きたいのです」
男は一礼し、逃げるように去っていった。
同じ夕刻、王家の紋が入った文も届いた。封蝋には鷲を象った王家の印が押されていた。
封を切ると、短い一文だけがあった。
「国庫の帳合わせに、そなたの目を貸せ。——ラインハルト三世」
使者は一礼し、返事も待たずに去っていった。
渋沢はその文をしばらく見つめた。
(陛下ご自身の、御手から)
差し止めを命じた同じ手から、今度は帳面を検める許しが届いていた。人の心も王の心も、動くときには静かに動くものだった。
渋沢は王家の文と帳面の切れ端を並べて机に置いた。
二つの紙は色も紋も違った。それでも渋沢の手の中では、同じ重さがあった。
「フリッツさん」渋沢は口を開いた。「国庫の帳面と、突き合わせる支度を」
「今から、ですか」
「今から」渋沢は静かに告げた。「灰になる前に、間に合わせます」
「時が、かかるかもしれません」フリッツは帳面を抱え直した。
「かまいません」渋沢は言った。「一枚ずつ、数えればよいのです」
ゼーバルトが灯りを運んできて、机の上の二枚の紙にそっと目をやった。
「殿……今度は何をなさるおつもりで」
「数えるだけです」渋沢は言った。「誰の目にも、明らかになるまで」
ボルツは戸口に立ち、腕を組んだまま何も言わなかった。今日もまだ、剣の出番はなかった。
窓の外、隼の看板が夕風に小さく揺れていた。
次に開かれる帳面は、もう渋沢のものではなかった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
今回は、断罪をあえて我慢する回でした。EP35で谷底から立ち上がった渋沢の周りで、静かに潮目が動き始めるところを書きたくて、あえて派手な決着は置かずに進めています。
新しく登場したアイゼンブルク卿は、武神信仰の国だからこそ書けたキャラクターです。腐敗した宮廷派とは対照的に、誇りと透明性を重ね合わせる武人を出すことで、渋沢の『隠さない』という戦い方が、経済の理屈だけでなく、この世界の価値観そのものに届き始めたことを表したいと思いました。
モーリッツの場面は、書いていて一番嫌な気分になれた場面です(褒め言葉です)。従者の懐にそっと消えた一冊の帳面が、次回どう効いてくるか。今から書くのが楽しみです。
宮廷の決着は、次回です。どうぞお楽しみに。
☆評価・ブックマーク・感想をいただけると、次章の大きな励みになります。




