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国一番の悪徳領主に転生したが、中身が渋沢栄一なので、搾り取った税を全部返したら領民にガチで怯えられた件  作者: 藍田 算


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蔵の底

 夜明け前から、帳場の戸を叩く音が絶えなかった。


 拳の数がいつもの朝の三倍はある。


 戸を開けたフリッツがその人数に一歩たじろいだ。


「証文を、金貨に換えてくれ」


「うちのも頼む。今日だ、今日中に頼む」


 声はどれも切迫していた。渋沢が帳場に降りると、土間はすでに人で埋まっていた。


「合本銀行の蔵は、もう空になるそうだ」誰かが列の後ろで言った。「早いもの勝ちだと聞いた」


 その一言で列の後ろがさらに膨れ上がった。


 老婆が一人、強張った手で証文を握りしめ、列の先のほうへ押し出されていた。


「これが、紙切れになるなんて」老婆は誰にともなく呟いた。「冬を越す銀貨を、これに換えたのに」


 渋沢はその膨らみを見つめた。


(火のない噂は、燃えない。誰かが、火をつけた)


 列は通りの角を折れ、隣の広場にまで伸びていた。数えることを、渋沢はやめた。




 朝のうちはまだ数字で持ちこたえられた。


 フリッツが帳面と金貨箱を交互に見ながら、渡す枚数を数えていく。


「蔵に、五百六十枚」フリッツが小声で告げた。「朝の分で、もう九十枚出ました」


「今日一日、金貨と証文の両方をお渡しします」渋沢は言った。「不安な方には、金貨を」


「はい」


 陽が高くなる頃には蔵は三百を切った。


 通りの向かいでは以前は閑古鳥の鳴いていた両替商が、朝から客を捌ききれずにいた。恰幅のいい主人が揉み手をしながら、愛想笑いを振りまいている。


 列は減らなかった。むしろ増えた。証文を持たない者まで、噂を聞きつけて様子を見に来ていた。


 若い夫婦が赤子を抱いたまま列に並んでいた。夫のほうが、渋沢と目が合うと気まずそうに顔を伏せた。


「旦那様」フリッツの声が乾いていた。「このままでは、夕刻までもちません」


 渋沢は帳面に目を落とした。発行した証文の総額に対し、蔵の備えは四割。日にせいぜい十人ほどが換金に来る前提の数字だった。


 今日はその前提そのものが崩れていた。


 百人が同じ日に、同じことを恐れて列をなしている。


 四割の備えは百人の恐れの前では、四割にすらならなかった。




 正午前、列の中ほどで怒声が上がった。


 順番を巡って、男が二人、胸倉を掴み合っていた。証文を握った手が、宙で振り回されている。


「先に並んだのは俺だ」


「知るか、俺の子は今朝から何も食っていない」


 ボルツが割って入り、二人の間に肩を入れた。


「柄には手をかけていない」ボルツは低く言った。「だが、押し合うのはここまでだ」


 男たちは渋々離れた。ボルツの拳は、開いたままだった。


「剣の出番かと思ったが」ボルツは渋沢に小さく漏らした。「いらんかったな」


「今日、あなたの拳が一番役に立ちました」渋沢は言った。


 ボルツは何も返さず、また列の端へ戻っていった。




 昼を過ぎ、通りに新しい人だかりができた。


 オーレンダール商会の紋を掲げた馬車が止まり、ガルムが降りてきた。肥えた頬に、いつもの余裕がなかった。


「男爵」ガルムは帳場に踏み込むなり言った。「私の積んだ金貨が、もう百を切ったと聞いたが」


「その通りです」渋沢は答えた。「総帥の四百枚から、まだ百枚ほど残っております」


「宮廷のグラーフェンベルクが、愉快そうに笑っていたそうだ」ガルムは唸るように言った。「私の商売にまで、あの男の高笑いが届くとはな」


「まだ、だと」ガルムの声が荒くなった。「私の看板を張った隼が、通りで泥を投げられたぞ。信用の重しだと言った金貨が、こんな形で溶けるとはな」


 渋沢は口を開きかけた。


「言い訳は聞かん」ガルムは扇のように手を振った。「私は商人だ。積んだ金が返らんとなれば、腹の底では別のことも考える」


 その先を、ガルムは言わなかった。


 沈黙が帳場に重く落ちた。


「総帥のお怒りは、当然です」渋沢は静かに頭を下げた。「今は、それしか申せません」


「……ふん」ガルムは鼻を鳴らし、隼の看板のほうへ目をやった。表面に、乾いた泥の筋がまだ残っていた。「面白い小僧だと思っていたが、今日ばかりは面白くもなんともないな」


 ガルムは帳場を出ていった。振り返らなかった。


 ゼーバルトがその背に洟をすすった。


「殿。総帥は、もしや」


「今は、何も言わないでください」渋沢は遮った。


 それだけを言うのが精一杯だった。


 陽が傾く頃には蔵は八十を切った。両替商の呼び込みが、通りに一段と大きく響くようになっていた。




 夕刻、蔵は五十を切った。


 列はまだ、通りの角まで続いていた。


 その列の脇に、黒を基調とした装いの男が、供も連れず立っていた。


 渋沢はすぐに気づいた。


「ザロモン殿」


「ブルーメンタール男爵」ザロモンは、いつもの慇懃な声で頭を垂れた。「盛況で、なによりでございますな」


 その声の穏やかさが渋沢の胸の奥を冷たく撫でた。


「これほどの列は、私の手だけでは作れません」渋沢は言った。「王命の噂に、少しだけ手を貸された方がおいでのようです」


 ザロモンの口元の笑みが一拍だけ止まり、また同じ形に戻った。


「私は、ただ申し上げただけにございます」ザロモンは静かに言った。「『あの証文は、もう金に換えられぬかもしれぬ』——それだけのひとことを」


「デマです」


「デマかどうかは、蔵が決めることにございましょう」ザロモンは列を一瞥した。「信用とは、思い出されずにいる間だけ静かに立っているものにございます。今日、皆さまは思い出された。ただ、それだけのこと」


「あなたは、この蔵を空にして何を得るのですか」渋沢は問うた。


「得るのではございません」ザロモンは笑みを深めた。「戻すだけにございます。都の金は、もとより私どもが束ねてきたものにございますれば」


 渋沢はその言葉を胸の内で数字に置き換えた。


(築くのに十月。壊すのに、一日もいらない)


「築くのは、遅うございます」ザロモンは、渋沢の顔を覗き込むように言った。「壊れるのは、いつも一瞬にございますな」


 渋沢は何も言い返さなかった。


 言い返す数字を、今の渋沢は持っていなかった。


 ザロモンは軽く一礼し、来た道を戻っていった。黒い背中が、列の間をすり抜けて消えた。


 列に並ぶ者たちがその背をひそひそと見送った。


「今の御方が、噂の出所か」誰かが押し殺した声で囁いた。


 誰もそれに答えなかった。




 列の中ほどに、見覚えのある顔があった。


 ハンスだった。証文を握った手が、白くなるほど強張っている。


「旦那様」ハンスの声は、震えていた。「本当に、明日も換えていただけますか」


 渋沢は帳面を見た。


 蔵に残る金貨は四十を切っていた。


「今日のところは、お渡しできます」渋沢は正直に言った。「明日のことは、今は約束できません」


 ハンスの肩ががくりと落ちた。


 列の何人かがざわめいた。


「ですが」ハンスは、しばらく黙ってから言った。「あの東門の朝、旦那様は嘘をつきませんでした」


 ハンスは握った証文を懐に戻した。


「私は、今日は換えません」ハンスは言った。「他の方が先で、いい」


 列の中に、小さなどよめきが走った。


 渋沢はハンスの目をまっすぐ見た。


「ありがとうございます」渋沢はそれだけ言った。


 声が思いのほか掠れた。


 列の後ろで、誰かがぽつりと言った。「先に譲るなら、俺も」


 その声はひとつだけだった。多くの手は、まだ証文を固く握ったままだった。




 蔵の扉を、渋沢は自ら覗いた。かつて八千枚が積まれていた棚に、今は数えるほどの金貨が転がっているだけだった。


 夜、帳場の灯りの下で、フリッツが最後の勘定を告げた。


「蔵に、金貨十二枚」フリッツの声は、ほとんど息だけだった。「明日の朝を、これで迎えます」


 ゼーバルトが帳面を抱えたまま、座り込んだ。


「殿……このままでは」


「わかっています」渋沢は言った。


 ボルツが腕を組み、天井を睨んだ。


「剣が抜ける相手なら、とうに片付けている」ボルツはぼやいた。「だが今日、俺が斬ったのは噂ひとつだ。刃が通らん」


「珍しく、殊勝なことを仰る」ゼーバルトが涙声のまま、かすかに笑った。


「うるさい。今は笑う気になれん」


 その掛け合いにさえ、いつものがなかった。


 フリッツは帳面を抱いたまま、壁にもたれていた。指先に、一日じゅう硬貨を数え続けた痺れが残っている。


 渋沢は十二枚の金貨を見つめた。


(十月かけて築いた信用が、たった一日で底を突いた)


 それを、今日、身をもって食らった。


 算盤でも道理でも、この痛みは弾けなかった。渋沢は二度目の生で初めて、それを骨身に思い知った。


 だがと渋沢は思った。


「蔵の金貨は、あと十二枚です」渋沢は皆を見渡して言った。「けれど、私はまだ尽きておりません」


 誰も口を開かなかった。


 外の列はまだ夜の闇の中に長く伸びていた。


 その先で、誰かが小さく囁いた声を、渋沢は聞いた。


「明日には、本当に空になるらしいぞ」


 渋沢は目を閉じた。


 蔵の底がもうすぐそこに見えていた。



最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


今回は、渋沢を一度もいいところなく負けさせることだけを考えて書きました。取り付けという現象を説明で片付けず、蔵の金貨が朝の五百六十枚から夜の十二枚まで減っていく数字そのもので体感してもらえたら、狙い通りです。


ザロモンには今回、渋沢の店先まで自ら足を運んでもらいました。怒鳴らず、脅さず、ただ「デマかどうかは蔵が決める」と言い切る冷たさが、彼らしいと思って書きました。彼はEP22から一貫して、感情でなく数字と仕組みで人を追い詰めます。今回もその流儀を崩していません。


ガルムの「面白くもなんともない」の一言は、書いていて少し胸が痛みました。彼は転向したわけではなく、まだ怒っています。それでいい、と思っています。器の大きな男が本気で苛立つ姿を、今回は隠さず書きました。


ハンスが列を譲る場面だけは、今回唯一渋沢が救われる場面です。数字ではどうにもならない一日に、数字にならない信頼がひとつだけ残った。そのくらいの光は、谷底へ向かう前に置いておきたかったのです。


次回、蔵は本当に空になります。渋沢が国家規模で初めて本当に負ける底を、正面から書くつもりです。どうかお付き合いください。


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