扇の嗤い
王城の大扉が、音もなく開いた。
油を差したばかりの蝶番より、渋沢はきしむ扉のほうを好んだ。軋む扉は正直だが、静かな扉は何かを隠している。
三日前の使者と同じ紋を掲げた衛兵が、無言で先導した。
ゼーバルトが渋沢のすぐ後ろで、洟をすする音を懸命に殺していた。ボルツは帯剣を預けさせられた腰に、幾度も手をやっては引っ込めていた。
回廊の窓から差す朝日が、石畳に長い影を落としていた。渋沢たちの影だけが、やけに小さく見えた。
玉座の間は、前に来た時よりも人で埋まっていた。
武門の貴族、宮廷の重臣、居並ぶ顔のどれもが、渋沢を珍しい見世物でも眺めるように見ていた。
玉座の脇に、モーリッツ・フォン・グラーフェンベルクが立っていた。扇を胸の高さで閉じ、口元にだけ笑みを浮かべている。
ラインハルト三世は、玉座の肘掛けを指で叩いていた。鷲のような目が、渋沢を一瞥する。
「ブルーメンタール男爵。参ったか」王の声は低く重かった。
「はい、陛下」渋沢は深く頭を垂れた。
沈黙のあと、モーリッツが一歩前へ出た。
「陛下、この者の申し開きなど聞くまでもございませんわ」モーリッツは扇を開いた。「紙切れを金と称する詐術、証は市中の噂話ひとつで十分でございましょう」
「証文は詐術ではありません」渋沢は静かに言った。「金貨の預り証です。合本銀行の蔵には、発行した証文の四割にあたる金貨が備えてございます」
渋沢は懐から帳面を取り出し、書記官へ差し出した。
「これは、この三月の発行高と兌換の記録です。取り付けは一度もございません。数字が、それを証しております」
書記官が帳面を検め、王へ差し出した。王は帳面をしばらく眺めた。肘掛けを叩く指が、一瞬止まった。
「四割で足りると申すか」王が問うた。
「日に金貨へ換える方は、五人からせいぜい十人にございます」渋沢は答えた。「百の証文に、四十の金貨。それで十分に回ります」
「数字の話は、結構でございますわ」モーリッツが扇を鳴らした。「陛下。この者が申しておりますのは、己の帳面にすぎませぬ。血も知れぬ成り上がりの帳面を、陛下の御前でどこまでお信じになりますか」
渋沢は口を開きかけた。
「帳面は嘘をつきません」
「嘘をつくのは、帳面を書いた者にございますわ」モーリッツは即座に返した。「辺境の男爵どのは、算盤こそお得意でしょう。ですが血筋という秤は、お持ちでないご様子。この国の貨幣は、血と武勲によって守られてまいりました。紙切れ一枚の勘定で、その重みが量れるとお思いですこと?」
列席の何人かが、小さく頷いた。
渋沢は、その頷きの意味を見て取った。
(数字は届いている。届いた先で、はねのけられている)
「陛下」渋沢は王へ向き直った。「証文を差し止めれば、今も数百の民が困窮いたします。数字は、彼らの暮らしそのものです」
「その数百のために、陛下の貨幣発行権を汚してよいと申されますの?」モーリッツが割って入った。「本末が転倒しておりましてよ」
王は、しばらく黙っていた。
玉座の間の隅には、まだ連合からの借財の証文が積まれたままだった。渋沢の目にも、それが見えた。
「……男爵の帳面に、偽りは見えぬ」王は低く言った。「だが」
王の声が、一段重くなった。
「王権の貨幣に、紙切れが代わる」王は言葉を切った。「その前例を、余は容易には許せぬ」
渋沢は拳を握り、膝の上でそれだけを許した。
「証文の取り扱いは、当面差し止める」王は言った。「詳らかな詮議を経るまでの間だ。男爵、これは咎めではない。裁定だ」
「御意にございます」渋沢は頭を垂れた。
声に震えは、出さなかった。
王が退出の意を示すと、廷臣たちが一斉に頭を垂れた。
モーリッツが、扇を広げたまま近づいてきた。
「よろしゅうございましたわねえ」モーリッツは声を弾ませた。「咎めではない、裁定だと。陛下のお優しさに、せいぜい感謝なさいませ」
「感謝しております」渋沢は深く頭を下げた。「陛下の裁定に従います」
「素直なこと」モーリッツは扇の陰で笑った。「辺境者にしては、聞き分けがよろしいですこと」
周囲の貴族が、忍び笑いを漏らした。
「紙切れの詐術も、これで打ち止めですわね」モーリッツは続けた。「男爵どのは、算盤で王都を制したおつもりでしたのに。王都には、算盤の届かぬ場所がございましたわね」
「学びました」渋沢は言った。
「学んだところで、もう遅うございますわ」モーリッツは扇の先で宙を突いた。「証文を持つ数百の民は、これから存分に困りましょうね。血も知れぬ成り上がりに従った罰、と申せましょうか」
渋沢は拳をさらに強く握った。
(民を人質に取ったつもりか)
言葉には出さなかった。
「ゼーバルト」渋沢は静かに呼んだ。「戻りましょう」
「は、はい……」ゼーバルトの声は、涙で湿っていた。
ボルツが黙って柄に手をやり、また離した。
回廊を歩く渋沢の背中に、モーリッツの笑い声がいつまでも追いかけてきた。
玉座の間から人が去ると、王は肘掛けから指を離した。
積まれた証文の山に、視線を落とす。連合の印が捺された借財の証書は、数えるのも億劫なほど積み上がっていた。
(金を借りねば城の修繕もままならぬ身が、他人の紙切れを裁くとは)
王は低く独りごちた。
辺境の男爵の帳面には、偽りがなかった。数字は正直だった。正直な数字だけでは、玉座は守れない。血筋も、信仰も、数字では量れぬ重みを持つ。それを軽んじれば、王座そのものが揺らぐ。
王は拳を握った。
(試したかった。あの男が、まことに眠れる金を起こせるか)
同時に、貨幣の権威を紙切れ一枚に委ねる危うさも、王は知っていた。二つの想いが、胸の中で綱を引き合っていた。
従者が一人、静かに歩み寄った。
「陛下。グラーフェンベルク卿がお喜びのご様子で、退出なさいました」
「そうか」王は短く応じた。
王は、しばし黙った。
「モーリッツの屋敷の普請、近頃また手が入ったと聞いたが」王は肘掛けを指で叩いた。「その費え、誰の懐から出ている」
「は……調べさせましょうか」
「今はいい」王は言った。「男爵の裁定が先だ。だが、忘れるな」
従者は一礼し、下がっていった。
王はひとり、証文の山を見つめ続けた。窓の外で、鐘が正午を告げていた。
王城を出ると、日はもう高く昇っていた。
両替商の通りへ差しかかると、渋沢は足を止めた。
以前は閑古鳥の鳴いていた店の戸が、大きく開け放たれていた。恰幅のよい男が、通りに向かって声を張り上げている。
「両替はいらんかね。今日は良い値をつけるよ」
男の声には、以前にはなかった張りがあった。数人の客が、迷うような足取りで店先に立ち止まっていた。
渋沢はその光景を、しばらく見つめた。
(証文が止まると聞いた者から、また金貨を求めはじめる)
男が渋沢に気づき、扇のように片手を振った。会釈というよりは、勝ち誇りに近い仕草だった。渋沢は、黙って頭を下げた。
帳場に着くと、フリッツが青ざめた顔で駆け寄ってきた。
「旦那様。証文を金貨に換えてほしいというお客が、朝から絶えません」
「今日のところは、皆さんに金貨をお渡しできていますか」渋沢は尋ねた。
「なんとか。ですが蔵の目減りが、いつもより早うございます」フリッツは声を落とした。
そこへ、聞き覚えのある声がした。
「旦那様……いらっしゃいますか」
振り返ると、ハンスが息を切らして立っていた。手には、あの手形が握られている。
「ハンスさん」渋沢は歩み寄った。「どうなさいました」
「村の者が、証文はもう紙切れになると言い出して」ハンスは声を震わせた。「本当に、金貨に換えられますでしょうか」
「換えられます」渋沢は、ハンスの手を包むように両手で受け止めた。「今日、この場で」
ハンスの肩から、力が抜けた。
「よかった……よかった」ハンスは何度も繰り返した。
ゼーバルトが、洟をすすりながら帳面を差し出した。
「殿の仰る通り、今日のところは大事ございません」ゼーバルトは涙声で言った。「ですが……この調子が続けば」
ボルツが腕を組んだ。
「両替商の声が、今朝はやけに大きかったな」ボルツは呟いた。「剣より、あの声のほうがよほど厄介に聞こえる」
ゼーバルトが、小さく噴き出した。
「ボルツ殿も、剣以外のものを恐れる日が来ようとは」
「うるさい」ボルツは顔をしかめた。
渋沢は、皆の顔を見渡した。
「証文は、王命で差し止められました」渋沢は言葉を継いだ。「ですが人の信じる心までは、誰にも止められません」
フリッツが、帳面を胸に抱きしめた。
ハンスが、深く頭を下げた。
夕刻、帳場の外に人だかりができはじめていた。
誰かが声高に言うのが聞こえた。
「合本銀行の蔵は、もう空だという話だぞ」
渋沢は、その声のほうを見た。
声の主は、見覚えのない男だった。人だかりの外れで、誰にともなく同じ言葉を囁いて回っていた。
男の背に、見覚えのある紋章が縫い取られていた。
(連合の影が、もう動いている)
渋沢は、それだけを胸に刻んだ。
証文を求める人の姿は、今日も途切れない。だが、その列の端で何かが静かに軋みはじめていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
今回は、渋沢を負けさせることだけを考えて書きました。数字は正しいのに、宮廷では通じない。悔しいけれど啖呵は切らせない。前回「数字の通じない場所がある」と静かに引いた渋沢が、今回はその場所で実際に負ける番でした。
モーリッツの扇の下の笑い声は、今回いちばん力を入れて書いた場所です。勝ち誇る彼を、読んでいて腹立たしいと感じてもらえたなら、それは狙い通りです。彼の断罪は、まだ先の話です。
国王ラインハルト三世は、愚かな王にしたくありませんでした。連合への借財の証文を前に、試したい気持ちと守るべき権威との間で揺れる。愚王でも名君でもない、現実に縛られた一人の男として書いたつもりです。「忘れるな」の一言に、彼なりの含みを込めました。
差し止めの実害が、証文を持つ人々の不安として広がりはじめています。次回、いよいよ連合の総力戦が本格化します。渋沢が本当に足をすくわれる底へ向かいます。どうかお付き合いください。
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