血筋という罪状
帳場の戸を、荒々しく叩く音がした。
朝一番の来客にしては、乱暴に過ぎる。
フリッツが筆を置くより早く、扉が外から押し開かれた。
立っていたのは、宮廷の紋を胸に縫い取った使者だった。昨夜、黒い外套の男を見送った同じ通りを、今度は堂々と歩いてきたらしい。
東門から続く列を横目に、使者は靴の泥も払わず土間へ踏み込んだ。並んでいた客の何人かが、気まずそうに列を離れていく。
「ブルーメンタール男爵に達しである」使者は帳面も見ずに書状を突き出した。「証文の儀、宮廷にて詮議いたす。三日のうちに、釈明の使いを寄越されよ」
ゼーバルトが受け取った書状を開き、みるみる血の気を引かせた。
「殿……これは」ゼーバルトの声が震えた。「贋金の疑い、と」
渋沢は書状に目を通した。文言は硬く格式ばっていたが、書いてあることは単純だった。渋沢の証文が、王権の貨幣発行権を侵す不敬の疑いあり——それだけだった。
署名の欄に、見覚えのある家名があった。
グラーフェンベルク。
(算盤では、解けない議論が来た)
ボルツが柄に手をかけたまま、使者の背を睨んだ。
「斬りかかる相手じゃありません」渋沢はそれだけ言った。
ボルツは舌打ちして手を離した。
使者は一礼もせず、来た道を戻っていった。革靴の音が、しばらく通りに響いていた。
列に戻る客はいなかった。証文を手にしたまま、誰もが顔を見合わせている。
「旦那様」フリッツが帳面を抱えたまま近寄った。「お客の中に、証文を突き返そうとする方が」
「今日のところは、金貨と両方お受けします」渋沢は静かに告げた。「不安な時ほど、選ぶ自由を残しておくものです」
フリッツはうなずき、列のほうへ小走りに戻っていった。
同じ日の払暁、王城の奥では——
モーリッツ・フォン・グラーフェンベルクは、姿見の前で襟を整えていた。
昨夜届いた書状は、もう暖炉の灰になっている。ザロモン殿の筆跡は癖が強く読みにくかったが、意味だけは十分に読み取れた。紙一枚で崩れる商いなら、紙一枚で縛れ、との仰せ。
(ならば、この私が縛って差し上げましょう)
喉の奥で、笑いがこみ上げた。
鏡の中の指に、宝石の指輪が三つ並んでいた。どれも、昨年の饗宴の費えを些か多めに計上した際、余りから誂えたものだった。連合への返済の書き付けも、ザロモン殿の言い値のまま帳面に通してある。誰も、突き合わせになど気づくまい。
小姓が扉を開け損ね、蝶番が軋んだ。
「愚図が」モーリッツは扇の先で小姓の肩を突いた。「陛下の御前に、この私を待たせる気か」
小姓は青ざめて頭を下げた。モーリッツはそれ以上構わず、玉座の間へ足を進めた。
玉座の間は、朝だというのに薄暗かった。分厚い帷が朝日を遮り、居並ぶ廷臣たちの顔に、ろうそくの灯りが黄色く揺れていた。
玉座には、ラインハルト三世が座していた。鷲のような目が、扇を手にしたモーリッツを一瞥する。
「モーリッツか。急な言上とは、何事だ」王の声は低く重かった。
「陛下」モーリッツは深々と頭を垂れた。声を一段甘くする。「由々しき儀にございます。辺境の男爵が紙切れを金と偽り、市中に流しております」
「証文の話か。噂には聞いている」王は肘掛けを指で叩いた。「金貨の預り証と申していたはずだが」
「詭弁にございます」モーリッツは扇を開き、口元を覆った。「紙きれを金と言い張る術も、ここまでくれば大した芸ですこと。金貨の裏付けなど、誰が検めましょう。血も知れぬ成り上がりの申すことを、鵜呑みになさいますな」
王の眉が、わずかに動いた。
「預り証だと、あの者は申していたそうだが」
「預り証と唱えれば、何をしても許されるとお思いですか」モーリッツは扇を握る手に力を込めた。「名を変えれば咎めを逃れられるなら、盗人とて己の盗みを『借用』と呼びましょう」
列席する白髪の重臣が、扇の陰でモーリッツを一瞥した。その目に浮かんだのは、賛同ではなく値踏みだった。モーリッツはその視線に気づかなかった。
「詭弁だと申すなら、証はあるのか」
「市中の民が、紙切れを金貨と信じて疑いませぬ」モーリッツは声を張った。「これぞ、陛下の貨幣発行権を踏みにじる不敬にございます。捨て置けば次に贋金を刷るのは志ある賊にございましょう」
「……成り上がりの詭弁にしては、よくできている」王はしばし黙った。
王は、ふと視線を落とした。連合からの借財の証文が、玉座の間の隅にまだ積まれたままだった。
「金を借りねば城の修繕もままならぬ身で、金を疑えというのも滑稽な話よ」王は低く笑った。「だが、余の貨幣に泥を塗られるのはまた別の話だ」
「陛下のお言葉、まさに」モーリッツは間髪入れずに乗った。「連合への借財は借財、貨幣の権はまた別物にございます。この二つを、あの成り上がりに混同させてはなりませぬ」
(陛下の借財のことなど、私が案じたことは一度もないが)
「して、その紙で泣く民がおるのか」
「泣かぬはずがございませぬ」モーリッツは即座に答えた。「紙が値を失えば、路頭に迷うのは字も読めぬ憐れな民にございます」
(憐れな民のことなど、私が案じたためしもないが)
モーリッツは胸の内で独りごちた。扇の陰で、口の端が上がるのを堪えた。
王は、玉座の肘掛けを指で叩き続けた。
「詮議する。三日のうちに、当人を召し出せ」
「御意にございます」モーリッツは深く一礼した。「陛下の御英断、この身に代えましても——」
言葉を切り、モーリッツは面を上げた。王はすでに興味を失ったように、次の言上者へ目を移していた。
退出する回廊で、モーリッツは扇をわずかに開き、独り笑った。
(造営費の帳尻も、これでしばらくは誰の目にも留まるまい)
柱の陰から、宮廷の女官が一人、慌てて頭を下げた。
「卿、お召し物の裾が——」
「触れるな」モーリッツは女官の手を扇で払った。「薄汚い手で、私の衣に触れるな」
女官は身をすくめ、その場に立ち尽くした。モーリッツは振り返りもせず、大股で去っていった。
窓の外では、朝日が石畳を白く照らしていた。誰の目にも、まだ何も変わっていないように見えた。
夕刻、帳場にフリッツが駆け込んできた。息が荒い。
「旦那様。宮廷のことで、耳にしたことが」フリッツは声を落とした。「今朝方、グラーフェンベルク卿が陛下に直談判なさったと」
渋沢は帳面を閉じた。
「何と」
「旦那様の証文を、贋金だと」フリッツは唾を飲んだ。「血筋のことも、随分と申されたそうです」
渋沢は、しばし黙った。
(何を言われても構わない。気がかりなのは、あの言葉を聞いた者たちがどう思うかだ)
ゼーバルトが拳を握った。
「あの御方は、よくも」ゼーバルトの声がかすれた。「殿を成り上がりと呼んで憚らぬとは……」
「怒りは、蓄えておきなさい」渋沢は遮った。「使う場所を、間違えなければいいのです」
ボルツが腕を組んだ。
「剣なら、今すぐにでも黙らせてやれるんだがな」ボルツは吐き捨てた。「こういう時に限って、抜く相手がおらん」
渋沢は小さく笑った。
「今回ばかりは、剣の出番はありません」
「わかっちゃいるが、腕がなまる」ボルツはぼやいた。「両替商の次は宮廷貴族か。この調子じゃ、俺の剣はそのうち鞘から出られなくなるな」
ゼーバルトが、涙目のまま小さく噴き出した。
「ボルツ殿も、存外お可愛らしいことを仰る」
「うるさい」ボルツは顔をしかめた。
フリッツが帳面の端を指で撫でた。
「もう一つ、妙な噂も」フリッツは声をひそめた。「グラーフェンベルク卿のお屋敷は、ここ数年でやけに立派になったと市中の職人衆が噂しております。造営の費えが、実費の三倍だとも」
「番兵仲間からも聞いた」ボルツが言い添えた。「宮廷の帳簿は、グラーフェンベルクの一存で右にも左にも動くと。誰も表立って口にはせんが、専らの噂だ」
渋沢は目を細めた。
「三倍」渋沢はつぶやいた。「——今はまだ、噂としてしまっておきましょう」
(証がなければ、ただの陰口だ。ただ、覚えておく価値はある)
(力ずくで奪う者となら、道理で渡り合える。だが、生まれで人を裁く者と渡り合う道理を、私はまだ持たない)
ゼーバルトが青い顔で問うた。
「殿。三日のうちに釈明の使いを寄越せとの達し、いかがなさいます」
「私が、参ります」渋沢は言った。
「殿おひとりで、あの魔窟へ」ゼーバルトが声を裏返らせた。
「魔窟でも、算盤は通じないだけです」渋沢は言った。「通じないのなら、通じる言葉を探すまでです」
窓の外は、すでに藍色に暮れていた。証文を求める列は、今日もまだ絶えない。けれど渋沢の耳には、その賑わいがいつもよりわずかに遠く聞こえた。
(算盤で崩した壁の向こうに、算盤の通じない壁がある)
渋沢は静かに立ち上がった。
「数字は噓をつきません」渋沢は言った。「ですが、数字の通じない場所があると今日知りました」
ゼーバルトが涙をこらえるように、洟をすすった。
沈黙が、帳場に重く降りた。
その夜、王城の書庫では、羊皮紙に走らせる筆の音が絶えなかった。
「証文取り扱いの儀、当面差し止めるべきか否か」
文言はまだ推敲の途中だった。筆を執る手は、すでに迷っていなかった。
王城を出た早馬が一頭、夜道を街の外れへ駆けていく。行き先は、両替商連合の本部だった。
窓の外、灯りは今夜も、いくつも消えなかった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
今回はモーリッツにとことん嫌な仕事をさせました。小姓を扇で小突く場面、女官の手を払う場面——渋沢に一言も向けていない意地悪さを先に書きたかったんです。強者にはとことん媚び、弱者にはとことん居丈高。この二面性こそが、彼の一番気持ち悪いところだと思っています。玉座の間での長台詞は、あえて読点を多めに残しました。彼だけは、生きた宮廷の口舌でまくし立てる人物にしたかったからです。
「造営費の帳尻も、これでしばらくは誰の目にも留まるまい」の一行は、今回いちばん書きたかった一文でした。まだ渋沢には見えていない証拠が、モーリッツの独り言の中にだけ転がっている。この歪みが、いつか帳簿の数字になって返ってくる日を、今から楽しみに書いています。
渋沢が「数字の通じない場所があると今日知りました」と認める場面は、彼にとって初めての本当の手詰まりです。ここで無理に啖呵を切らせず、静かに引かせることに、今回いちばん時間を使いました。第3章はここから谷へ向かいます。次回、証文がついに王命で差し止められます。どうかお付き合いください。
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