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国一番の悪徳領主に転生したが、中身が渋沢栄一なので、搾り取った税を全部返したら領民にガチで怯えられた件  作者: 藍田 算


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両替のいらない金

 朝靄の中、両替商の呼び込みが今日はやけに甲高い。


「さあ、両替はいらんかね。良い値をつけるよ」


 足を止める者は、誰もいなかった。


 渋沢は雑踏の隅から、その声を聞いていた。恰幅のよい男が、帳場の前で空を切るように両手を広げている。以前この店で、辺境の銀貨を鋳の品が落ちると難癖され、四割近くをむしり取られたことがあった。


 あの日と同じ声。同じ愛想笑い。ただ並ぶ客だけがいない。


 男の傍らで、算盤の玉が意味もなく上下していた。弾く相手のいない算盤は、ただの木片と変わらない。


 男の目が、ふと渋沢を捉えた。


「……ヴァルド男爵」男は乾いた声で言った。「うちの店に、何か御用でも」


「いいえ」渋沢は静かに答えた。「通りかかっただけです」


「そうかい」男は肩を落とした。「近頃は誰も彼も、あんたの紙を持って歩く」


「恨み言なら聞きます」渋沢は言った。「ですが詫びる気はありません」


 男は苦笑いを浮かべ、何も言わずに算盤へ視線を戻した。


 その横顔に、渋沢は小さく頭を下げた。男はもう、こちらを見ていなかった。


「あの男、前にあんたを吹っかけた店だな」ボルツが顎で示した。「今日はずいぶん暇そうだ」


「暇になったのではありません」渋沢は返した。「客が要らなくなっただけです」


「剣が要らんと言われるのは、こっちも身につまされる」ボルツは自分の柄を軽く叩いた。「両替商と同じ道を辿るのは御免だがな」


 渋沢は思わず口元を緩めた。


「殿。あちらをご覧ください」ゼーバルトが指差した先で、見覚えのある老婆が焼きたてのパンを買っていた。懐から出したのは金貨でも銀貨でもない。あの薄い紙だった。


 パン屋の亭主は数えもせず紙を受け取り、釣りに銅貨を添えた。老婆は礼を言うでもなく、当然の顔でパンを懐へしまい込む。三日前、燃やしてよいかと恐る恐る渋沢に尋ねた同じ手だった。


 老婆が、渋沢に気づいて振り返った。


「旦那様のおかげで、火にくべずに済みましたよ」老婆はにっと笑った。「今じゃ燃やすなんて勿体なくて」


「それは何よりです」渋沢は目元を緩めた。


 老婆はパンを抱え、軽い足取りで去っていった。


 通りを進むと、同じ光景が続いた。


 魚屋の亭主は差し出された証文を数えもせず、無造作に木箱へ放り込んだ。先だって、屑紙と間違えて突き返した同じ手だった。


 布地の元締めは、隼の印を一瞥しただけで頷き、両替商の店先には目もくれず通り過ぎていった。


 両替商の通りでは、軒先を畳む店が一つ、また一つと現れはじめていた。戸を半分だけ開け、主が居眠りする店もある。算盤の音は、あちこちでまばらに、途切れ途切れに鳴っていた。


 軒先の一つに、板切れが打ちつけられていた。墨で「本日、休業」と乱雑に記されている。それだけの札が、これほど雄弁だとは渋沢も思わなかった。


 東門の方角から、今日も長い列の気配が漂ってきた。証文を求める人々が、まだ絶えない。誰かが証文を掲げて笑い、誰かはそれを大事そうに懐へしまっていた。


「旦那様」フリッツが帳面を抱えて駆けてきた。息を切らしながら数字を告げる。「今日はもう五十を超えました」


「ご苦労様です」渋沢はねぎらった。「無理はなさらず」


「無理などしておりません」フリッツは帳面を胸に抱え直した。「この帳面が重くなるのが、近頃はただ嬉しいのです」


「ならば」渋沢は微笑んだ。「もう少しだけ、重くしてしまいましょうか」


「望むところです」フリッツは笑い返した。


 フリッツは頭を下げると、また路地へ駆け戻っていった。その背は、初めて会った日よりずっと伸びて見えた。


 (領の藍を皆で束ねた日と同じだ)渋沢は雑踏の中でひとりごちた。(今度は、国の金が束ねられていく)


 風に乗って両替商の呼び込みがまた聞こえた。さっきよりも幾らか掠れていた。




 連合本部の大広間は、いつもより静かだった。


 壁際に積まれた両替の記録簿が、日ごとに薄くなっていく。ザロモンは、その帳面を一枚ずつ繰った。


 配下の帳付けが、声を落として告げた。


「今月は手数料の上がりが三割落ちております」


「三割」ザロモンは繰り返した。声に抑揚はなかった。


「東門の証文が原因かと」帳付けは続けた。「布地の元締めまで、両替を素通りするようになりました」


「都合六軒が店を閉じております」帳付けはさらに続けた。「残る軒も客足はご覧の通りかと」


「ヴェーバーの縄張りも、同じ有様でございます」帳付けは付け加えた。


 窓の外をザロモンは一瞥した。かつて長い列を作っていた通りに、今は数人の影しかない。


 (分断こそが、我らの糧だ)ザロモンは胸の内でつぶやいた。(それが、音もなく溶けていく)


「連合の目は、まだ届いているか」ザロモンは尋ねた。


「街々の元締めには、まだ揺らぎはございません」帳付けは答えた。「乱れておりますのは、この王都だけにございます」


「ならば、王都から締める」ザロモンは言った。「木の一本が枯れる前に、根を断つ」


「陛下の耳に入れば、如何なさいます」帳付けが恐る恐る尋ねた。


「陛下の耳より先に、私の懐に入れておけばよい」ザロモンは薄く笑った。


 広間の隅に、誰も弾かぬ算盤が一つ卓に置かれたままだった。玉は動かず、静まり返っている。その静けさが、数字よりも雄弁だった。


 ザロモンは、しばし目を閉じた。


「……ブルーメンタールの、あの田舎者が」


 言葉が口の中で苦く転がった。侮りのつもりで発したはずが、思うより重い響きを持って落ちた。


 笑みを作り直す。今日はいつもより一拍長くかかった。


 辺境の鼠と侮っていた男の顔が脳裏に浮かんだ。物腰は丁寧なまま、一歩も退かなかった目。あの目が、今この帳面の数字を作っている。


「モーリッツを、呼べ」ザロモンは静かに命じた。「紙一枚で崩れる商いなら、紙一枚で縛ればよい」


 配下が一礼して下がると、ザロモンは動かぬ算盤にそっと指を置いた。冷えた木の感触だけが、掌に残った。


 窓の外は、まだ静かなままだった。




 夕暮れ近く、市はまだ賑わっていた。呼び売りの声、荷車の軋み、値切り合う客の声が入り混じっている。


 その喧騒の外れで、渋沢は足を止めた。


 女が一人、両替商の方角へ歩きかけては、立ち止まっていた。粗末な外套に、痩せた頬。抱えた籠には、売れ残りの根菜が幾つか転がっている。踵の擦り切れた靴が、迷うように土を踏んでいた。


 女の手には、一枚の証文が握られていた。


 足は両替商へ向きかけ、また止まる。それを幾度も繰り返していた。


 ゼーバルトが声をかけた。「どうなさいました」


「い、いえ」女は、はっと顔を上げた。「……つい、いつもの癖で」


 女は証文を見つめ、また両替商のほうを見た。


「地方の銅貨しか持たないと、いつもあの店の前で頭を下げておりました」女は声を絞り出した。「良い値をつけてくれと、何度も何度も乞いました」


「今朝も体が勝手にあちらへ向いておりました」女は乾いた笑いをこぼした。「もう頭を下げなくていいのだと、頭では分かっているのに」


 女は言葉を切り、証文をぎゅっと握りしめた。指の節が白くなった。


「頭を、下げなくていいんですね」


 行き交う人々は、気にも留めず通り過ぎていく。この都の片隅で起きている小さな出来事に、誰も気づいていなかった。


 渋沢はゆっくり歩み寄った。女が、はっと膝を折りかけた。渋沢はそれを静かに手で止めた。


「頭を下げる相手は、私でも両替商でもありません」渋沢は言った。「むしられていたのは、あなたの金です。取り戻すのに、剣は要りませんでした」


 女の目に、みるみる涙が盛り上がった。


「分けて隔てて儲ける商いは、隔てが消えれば消えます」渋沢は続けた。


 女は証文を胸に抱いた。涙が一粒、根菜の籠に落ちた。


「ありがとう、ございます」


 それだけを言うと女は深く息を吸い、市の雑踏へ戻っていった。両替商の前を、今度は振り返りもせずに。


 その足取りは、来た時よりずっと軽かった。


 (この都のどこかで、同じ光景がまた起きているだろう)渋沢は思った。(名も知らぬ手が、名も知らぬ肩の荷を、静かに下ろしている)


 ゼーバルトが小さく洟をすすった。


「殿。今の御方は、いったい」


「存じません」渋沢は静かに答えた。「同じ顔をした方が、この都に何百人もいます」


「何百人、でございますか」ゼーバルトは声を震わせた。


「いずれ、何千人にもなります」渋沢は言い添えた。


 ボルツが黙って空を見上げた。何か言いかけて、結局は何も言わなかった。


 しばらくして、ボルツがぽつりと言った。


「剣より、紙のほうが人を泣かせる時代か」


 誰も、答えなかった。


 (人ではなく、仕組みを変える)渋沢は胸の内で繰り返した。(今度は、国がその仕組みの中にいる)




 その夜、王城の裏手で使者の靴音が石畳を鳴らした。


 封をした書状が一通、宮廷の闇へ運ばれていく。


 受け取ったのは、黒い外套の男だった。灯りの下で一度だけ封を確かめ、足早に闇へ消えていった。


 宮廷の窓に、灯りが一つ、また一つと灯っていった。


 その灯りは、朝までいくつも消えなかった。



最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


今回、いちばん時間をかけたのは、実は「名前をつけないこと」でした。市の女性に名前を与えれば、もっと書き込めたと思います。でも、頭を下げなくてよくなったのは、この人ひとりではないはずです。名を伏せることで、この都のどこにでもいる誰か、という手触りを残したくて、最後まで「女」のままにしました。


ザロモンを書くときは、負けさせないことだけを守りました。数字が三割落ちたと聞いても声を荒げず、笑みを作り直すのに一拍長くかかっただけ。それだけで、彼がどれほど動揺したかが伝わればいいなと思いながら書きました。モーリッツを呼ぶ最後の一言も、まだ余裕のうちの布石です。本当の反撃は次回からです。


魚屋が証文を屑紙と間違えた話は、四話前の小さな笑いでした。あの手が今日は迷いなく紙を受け取る場面を書けて、地味に嬉しかったです。積み重ねが、こういうところで効いてくるんだなと実感しました。


第3章もいよいよ本丸へ近づいてきました。次回はザロモンの反撃と、宮廷派の動きが本格化します。どうかお付き合いください。


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