紙の中の金貨
「その紙を、燃やしてみてもよろしいか」
老婆の声に、行列がぴたりと止まった。
渋沢は蝋燭の火を見つめる皺だらけの指先を、そっと押しとどめた。
合本銀行の板戸を開けて、三日目の朝である。木の香りもまだ新しい帳場に、朝から長い列ができていた。手に手に握られているのは、あの薄い紙——兌換券だった。
鉋屑の匂いがまだ残る梁の下、真新しい看板が朝日を弾いている。三日前まで、ここはただの空き倉庫だった。
「燃やせば、蔵の金貨まで灰になっちまうんじゃないかと思ってねえ」
列の後ろで、誰かがどっと笑った。渋沢は笑わなかった。丁寧に紙を受け取り、少し掲げてみせる。
「灰になるのは、紙だけです」渋沢は答えた。「金貨は蔵の中で、静かに眠ったままですよ」
「本当かい」
「試しに、燃やしてみますか」
老婆はぎょっとした顔で紙を引っ込めた。
「い、いいよ。もったいない」
渋沢は口元だけで笑った。老婆の後ろで、フリッツが帳面に何か書き足しながら肩を揺らして笑いをこらえている。
列の先頭に並んでいた鍛冶屋の亭主が、証文を光にかざしてためつすがめつしていた。
「これ、端が擦り切れたら金貨のほうも目減りするのかね」
「紙が傷んでも、金貨は無事です」渋沢は続けた。「傷んだ紙は、いつでも新しいものに替えられます」
「そりゃ、便利なもんだ」
鍛冶屋の亭主は感心した様子で証文を懐にしまい込んだ。
列の後ろで、誰かがつぶやいた。
「案外、道理の通った紙じゃないか」
行列の中ほどから、威勢のいい声が飛んだ。
「なあ旦那、俺もこの紙を刷っていいか。うちの窯なら一晩で百枚は焼ける」
渋沢は声のほうへ目をやった。若い男が得意げに胸を張っている。
「あなたが刷った紙を、誰が金貨と信じますか」渋沢は静かに問い返した。
「そりゃ……」
男の勢いが、みるみる萎んだ。
ボルツが腕を組んだまま鼻を鳴らす。
「この帳場の裏に何が積んであるか、見せてやったらどうだ」
渋沢が男へ向き直ると、酷薄な美貌に射すくめられた男は、へっぴり腰で列の後ろへ下がった。
次に窓口へ進んだのは、恰幅のいい女商人だった。懐から紙を取り出し、窓口に置く。
「これを、もう一度預けたらまた一枚もらえるのかい」
フリッツが筆を止めた。
「もう一度、とは」
「証を預けたら証をもらえるんだろう。なら、この証をまた預ければまた証が出るはずだ。そうやって増やせないのかい」
渋沢は思わず頬を緩めた。この誤解だけは、責める気になれない。
「残念ながら、それでは金貨は増えません」渋沢は言った。「その紙は、すでに金貨と交換した証です。同じ金貨は、二度と数えられません」
「じゃあ、この紙はもう用済みかい」
「いいえ。その紙のまま、店で買い物にお使いください。金貨を運ぶよりよほど身軽です」
女は釈然としない顔で紙を懐に戻した。
列のずっと後ろで、聞き覚えのある声がした。
「これは、もう幾日も持ち歩いている。盗まれる心配がないのは、本当にありがたい」
ハンスだった。連れの行商人に、自分の証文を得意げに見せている。渋沢と目が合うと、深く一礼した。
「旦那様のおかげで、この冬は娘たちに土産を持って帰れそうです」
「峠は、今も怖いですか」渋沢は尋ねた。
「もう、怖くありません」ハンスは懐を叩いた。「盗られて困るものが、何もありませんので」
渋沢は小さく頭を下げ返した。ひとつの安堵が、また誰かに語られている。それだけで、今日という日は十分だった。
昼近くになる頃には、行列は東門のそれに劣らぬ長さになっていた。フリッツの帳面は、朝一枚だった頁がすでに三枚に増えている。
「殿、この分では夕刻まで手が足りません」ゼーバルトが眉をひそめた。
「足りない手は、増やしましょう」渋沢は返した。「信用は、抱え込むものではありません」
昼過ぎ、帳場の奥がにわかに騒がしくなった。
「そこを退け、退け」
肥えた体を揺すりながら、ガルムが入ってきた。供の男が、革袋を担いでいる。
「総帥」渋沢は迎えた。「わざわざのお運び、恐れ入ります」
「金を運ぶのに、わざわざも何もあるか」ガルムは革袋を帳場に投げ出した。金貨の触れ合う音が響く。「合本銀行の金蔵に、これを積み増しに来ただけだ」
どよめきが、周りの客に広がった。ボルツが袋の口を検めて眉を上げる。
「随分な数だな」
「四百枚だ」ガルムは胸を張った。「私の看板が、紙切れ一枚のためにひっくり返っては困る」
客の何人かが、革袋の金貨を覗き込もうと首を伸ばした。ガルムはそれを見て、鼻を鳴らして袋の口を閉じた。
「見世物ではないぞ」
渋沢は帳場の台に、証文の束と、蔵から出した金貨を並べた。証文は百枚、金貨はその半分にも満たない。
客の間から、不安げな声が上がった。
「金貨が、足りてないじゃないか」
「その通りです」渋沢はうなずいた。「証文百枚に、金貨は四十枚しかありません」
「そんなことで、大丈夫なのかい」
「一枚の金貨に、二つの仕事をさせているだけです」渋沢は告げた。「蔵で証文を支える仕事と、紙の姿で市を巡る仕事と」
ボルツが金貨の山を指で弾いた。硬い音が響く。
「戦の資金繰りと同じ理屈だな。全軍に配れずとも、後詰めがいれば前線は崩れん」
「よい喩えです」渋沢は満足げに応じた。「後詰めの数だけ、前線を支えられます」
フリッツが帳面をめくった。
「この三日で金貨に換えに来た方は、五人だけです」フリッツが言い添えた。「残る九十五人は、紙のまま懐にしまっております」
ざわめきが、少しずつ収まっていった。
ゼーバルトが、帳場を覗き込んだ。
「殿。皆が一度に金貨を求めたら、いかがなさいます」
「その時は、足りません」渋沢は正直に打ち明けた。「ですが百人のうち、今日来るのはいつも数人です」
先ほど紙を刷ると息巻いていた男が、進み出た。
「なら、俺のこの一枚を今すぐ金貨に換えてくれ」
渋沢は表情を変えずに応じた。
「どうぞ」
フリッツが帳面と照らし合わせ、金貨を一枚、男の掌に載せた。男はしばらくそれを眺め、ばつが悪そうに紙を差し戻した。
「……いや、今日は紙のままでいい。持ち歩くのも、こっちのほうが軽い」
どっと笑いが起きた。ガルムが腹を抱えた。
「はっはっは。田舎の紙一枚が、王都の男を黙らせたか」
「総帥の金貨も、その一枚を支えております」渋沢は言った。「重さは、皆で分けて持てば軽くなります」
「屁理屈だな」ガルムは鼻を鳴らした。「だが、嫌いではない」
夕刻、帳場の戸口に、見慣れぬ男が立った。宮廷の紋を縫い取った上着姿である。
「王室財務よりの、確認にまいった」男は横柄に言った。「その紙は、貨幣であるか」
場が、しんと静まった。
渋沢は歩を進めた。
「いいえ」渋沢は静かに首を振った。「これは貨幣ではありません。金貨をお預かりした証、預り証にございます」
「屁理屈を申すな。市中で、金貨のごとく使われておるではないか」
「使い方は、皆さんのご随意です」渋沢は告げた。「刷っておりますのは、紙の証文だけにございます。陛下の貨幣鋳造権に、指一本触れておりません」
「証を見せよ」男は帳場に踏み込んだ。
ボルツが一歩踏み出しかけたが、渋沢の目配せに止まった。
フリッツの手が、帳面を抱えて強張った。渋沢はその肩に軽く触れ、代わりに帳面を差し出した。
「どうぞ、お検めください。隠すことは、何もございません」
男は帳面をめくり、数字の几帳面さに一瞬たじろいだ。持参した書面と見比べ、舌打ちを一つ残して去っていく。
ゼーバルトが、青い顔で見送った。
「殿。あの言い分、いつまで通じましょう」
「通じなくなる日まで」渋沢は答えた。「回せる分だけ、回しておきましょう」
男が去った通りの角に、黒い外套の影が一瞬揺れた。今日はもう驚かない。渋沢はただ、その影が消えるのを見届けた。
その足で、渋沢はフリッツと両替商の通りへ向かった。
通りは、いつもより静かだった。
軒先の商人が、証文を差し出す客に舌打ちする。
「うちは、金貨でなければ扱わん」
「じゃあ、隣で買う」
客は証文を懐に、あっさり背を向けた。
両替商は算盤を握ったまま、しばらく動かなかった。
背を向けられた両替商の隣で、別の店主が愛想笑いを浮かべていた。
「うちは、その紙をいただきますよ。金貨に替える手間が省ける」
受け取ると聞いて、客の顔がぱっと明るくなった。噂を聞きつけたのか、別の客が財布から証文を取り出しながら列に並びはじめた。
「あの店、今日はまだ一人も客がついておりません」フリッツが小声で言った。
「そうですか」渋沢は歩みを緩めなかった。「紙が回るほど、両替の出番は減ります」
「連合は、黙っておりますまい」
「黙らせるために、参ったのではありません」渋沢は返した。「回すために、参ったのです」
(一枚の金貨が、二つの仕事をこなしている。ならばこの都には、まだ何百何千もの、眠ったままの金貨がある)
フリッツの帳面には、今日一日で記した名が、また一段増えていた。
通りの向こうで、両替商の看板が、風もないのに小さく軋んだ。
渋沢は足を止め、その軋みにしばし耳を傾けてから、また歩き出した。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
紙幣の回を書くと決めた時、一番の悩みは「信用創造をどう講義にせず書くか」でした。教科書的に説明すれば三行で済む話です。でも三行の説明は、三行ぶんの退屈しか残しません。だから今回は、証文と金貨を実際に帳場の台に並べて、目の前で数えさせることにしました。百枚の紙に四十枚の金貨。読者の方にも、あの不安げな声と一緒に「本当に大丈夫なのか」と思っていただけたら、うまく書けたということだと思います。
紙を燃やそうとする老婆も、証を預けたら証が増えると信じた女商人も、実は経済学の教科書に出てくる素朴な疑問そのものです。人類が最初に紙幣と出会った時、きっと似たような戸惑いを抱いたはずだと思うと、荒唐無稽な誤解ではなく、むしろ真っ当な反応に思えてきました。
ガルムが金貨を運んでくる場面は、書いていて一番楽しかったところです。看板を貸したからには自分の懐も張るという、あの豪快さが好きです。「重さは、皆で分けて持てば軽くなります」——渋沢の返しは、次話へ向けたささやかな伏線のつもりで置きました。
宮廷の使者が「貨幣ではなく預り証」の理屈にすごすご帰る場面は、書きながら痛快でした。ただ、この理屈がいつまで通じるかは、渋沢自身にも分かっていません。黒い外套の影は、今回もまだ何も語りません。次はいよいよ、両替そのものが要らなくなる日です。第3章も、どうかお付き合いください。
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