小僧に、看板を貸そう
東門の人だかりは、三日で長い列になっていた。初めは十人足らずだった列が、今では五十人を超えていた。
旅人が一人、また一人と帳面へ名を連ねる。ゼーバルトの筆先には、もう指だこができかけていた。
証文を懐に発つ者の足取りは、来た時より軽く見えた。荷を守る術を得た者の背は、心なしか伸びていた。
列の先頭では、行商人たちがハンスの名を口にしていた。あの朝、峠を身軽に発ったハンスの話は、もう門番の耳にまで届いていた。
だが同じだけの数、突き返す者も現れていた。
朝市の喧騒に、干し魚と焼きたてのパンの匂いが混じっていた。呼び込みの声の合間に、旅人たちが証文の噂を囁き合う声も混じるようになった。
昼過ぎ、布地を積んだ荷馬車の主が証文を一瞥し、鼻先で笑った。
「三十反の払いだぜ、旦那。ブルーメンタールなんて聞いたこともない家の紙一枚じゃ、うちの元締めは得心しない」
渋沢は証文を懐へ戻した。
「思いません。……ですが、いずれ得心していただきます」
「口ばっかりだ」
男は舌打ちして荷を引いていった。轍の跡に、朝の砂埃が舞った。ボルツが低く唸る。
「あんたの紙、ハンスの時のようにはいかんな」
「小口は救えても、大口には足りません」渋沢は乾いた唇を舐めた。「私の名一つでは、まだ軽すぎるようです」
ゼーバルトが帳面を繰りながら、渋い声で言った。
「殿。似たような話が、昨日今日で三件ございます。証文だけでは、五十枚を超える取引は誰も頷きません」
軽い方に、重しを乗せればいい。
渋沢は考えを固めた。この都に、渋沢の名より遥かに重い名を持つ男が、一人いる。
「執事、ボルツ」渋沢は顔を上げた。「オーレンダール商会へ、参ります」
「ガルム様の……」ゼーバルトが目を見開いた。「まさか、あの御方に頭を下げに」
「頭は下げません。ただ、名を借りに参ります」
商会までの道すがら、三人は無言で歩いた。
大通りに差し掛かると、辻に立つ物売りの声が耳に飛び込んできた。
「証文だ証文だ、ブルーメンタール男爵の証文だぞ。……なあ、これは本当に金になるのか」
声の主は、証文を模した紙切れを掲げて客を呼び込んでいた。渋沢は思わず足を止めた。
(贋物まで、出回り始めましたか)
ボルツが忌々しげに舌打ちした。
「あんたの紙、もう真似されてるぞ」
「困ったものです」渋沢は苦笑した。「ですが、真似されるほど本物が値打ちを増すのも道理です」
ゼーバルトが真似の証文をひったくるように取り上げた。
「殿の御紋を騙るとは、不届き千万」
「執事、それも証拠に一枚残しておきましょう」渋沢は言った。「あとで、隼の印との違いを見比べてみせます」
ロランが商会本館の扉を自ら開けた。
「これは……男爵様」番頭は驚いた顔をすぐに崩し、深く一礼した。「お噂はかねがね。東門の一件、都じゅうで話題にございます」
「お耳が早いですね」
「総帥の耳の早さには敵いません」ロランは目を細めた。「どうぞ、奥へ」
通された広間の長椅子に、ガルムはでっぷりと沈み込み、葡萄酒の杯を傾けていた。指の金の指輪が、燭台の光を弾いている。壁には意匠を凝らした絨毯が掛けられ、金の燭台が贅沢に並んでいた。
久しく見ぬ顔だったが、その巨躯も、値踏みする眼光も、記憶のままだった。渋沢の姿を認めると、肥えた頬が緩んだ。
「男爵、来たか」ガルムは杯を置いた。「聞いたぞ。東門で紙切れを配って、旅人を泣かせているそうだな」
「泣かせたのは、峠の盗賊のほうです」渋沢はかるく頭を下げた。「私はただ、荷を軽くして差し上げただけで」
「はっはっは」ガルムは腹を揺すった。「相変わらず、口の減らん小僧だ」
「して、今日は何用だ。まさか、私の懐まで軽くしに来たのではあるまいな」
「総帥のお名前を、少しだけお貸し願いたく」
ガルムの目つきが、値踏みする商人のそれに変わった。
「名を貸せ、か」ガルムは低く笑った。「ただの紙切れに、この私の看板をか。図々しいことを言う」
「ですが」渋沢は引かなかった。「総帥の商いにも、損はない話です」
「ほう」ガルムは片眉を上げた。「聞かせてもらおうか」
「総帥の荷は、いまも街道で盗賊に狙われております。銀貨を運ばずに済めば、荷を守る費えも減りましょう」
「けちな理屈だな」
「むしろ逆でございます。回る道が一本増えれば、それだけ総帥の荷も速く回ります」渋沢は言葉を継いだ。「それに——総帥は、もう合本銀行の株主であられる」
「私の証文の裏には、総帥ご自身が肥やした合本銀行の金蔵がございます。総帥の看板は他人の紙にではなく、ご自分の蔵に信を貸すことになります」
「屁理屈だ」ガルムは唸った。「だが、道理は通っている」
ガルムはしばし黙り、杯の中の酒を回した。
「……忘れていたわけではないぞ。あの時、面白がって出資しただけだ」
「存じております」渋沢は微笑んだ。「ですが忘れてはいらっしゃらなかった」
「あの日、私は総帥に申し上げました。奪い合えば、足りません。信じ合えば、足りるのです」
ガルムの目がふっと緩んだ。
「……忘れたとでも思ったか」
ガルムは腹を抱えて笑った。「はっはっは。田舎の小僧が、こっちの懐まで見透かしていたか」
「良かろう。私の名を貸してやる。ただし——」
「手形が一枚回るたび、割り前をよこせ。ただ働きは性に合わん」
「割り前は」ガルムはにやりと笑った。「一割、といったところか」
「二分でいかがでしょう」渋沢は表情を変えなかった。「手形が回る速さは、総帥の取り分の速さでもあります」
「値切るか、この期に及んで」
「長く続く分け方を、と申し上げているだけです」
ガルムは杯を干し、しばし宙を睨んだ。
「……三分だ。それ以上は譲らん」
「では、三分で」渋沢は一礼した。「悪い取引ではありません。回る手形が増えるほど、総帥の実入りも増えましょう」
「わかっているではないか」ガルムは満足げに頷いた。「面白い。相変わらず、面白い小僧だ」
「言っておくが」ガルムは急に真顔になった。「一度、乗ると決めた話だ。損をしても降りはせん。それが商人の格というものだ」
扉の脇に控えていたボルツが鼻を鳴らした。
「前に来た時は、斬り合いになるかと身構えたもんだがな」
「今日は歓待だ、武人殿」ロランが苦笑いで応じた。「総帥の機嫌がいい証拠です」
ゼーバルトはハンカチで目頭を拭っていた。
「あの折の一触即発が……こうして、和やかに……」
「執事、話が飛びすぎです」渋沢は片眉を上げた。「まだ、割り前の話も終わっていません」
ロランが商会の紋章を刻んだ蝋の型を運んできた。ガルムの看板を示す、隼の意匠だった。
渋沢の証文の隅に、その隼の印が押された。蝋の匂いが、狭い書斎に満ちた。冷えて固まるまでの、短い間があった。
「これで」渋沢は紙を掲げた。「小さな紙が、少し重くなりました」
「まだ足りん」ガルムは鼻を鳴らした。「重さは、回した数だけ増える。励め、男爵」
その日を境に、証文の顔つきが変わった。
隼の印が回るたび、証文への警戒は薄紙のように剥がれていった。布地の元締めも、宿の主人も、隼の印を見ると渋々ながら受け取るようになった。
両替商の通りでは、証文を手にした旅人の列をなす噂が日ごとに大きくなっていった。両替のたびに削られていた者たちが、隼の印を目当てに東門へ足を向けはじめていた。
数日のうちに、あの布地の元締めまでもが証文を受け取るようになった。隼の印を確かめると、渋々ながらも頷いた。
「隼の印なら、話は別だ」
その一言だけを残し、荷を渡していった。ボルツがそれを横目に、片頬だけで笑った。
フリッツの帳面は、日に日に頁を増やしていった。数えきれぬ名が並ぶ帳面を抱え路地から路地へ息を切らして駆ける若い背中を、渋沢は幾度も見かけるようになった。
(金は天下の回り物です)渋沢は雑踏の中でひとりごちた。(回してこそ、価値が出る。……ようやく、回り始めました)
宿へ戻ると、ゼーバルトが青い顔で一通の書状を差し出した。
「殿。また、王室財務の印にございます」
渋沢は封を切った。文言は前より短く、そのぶん刃が鋭かった。
「貨幣に関わるは、王権の専権——」渋沢は声に出して読んだ。「今度は釘ではなく、鎖のようです」
ボルツが眉根を寄せた。
「大商人が味方につくと知って、慌てたか」
「おそらくは」渋沢は書状を畳んだ。「小さな紙が、ようやく見える大きさになった証です」
「鎖なら、断ち切ればいい」ボルツが刀の柄に手をかけた。
「執事、ボルツ」渋沢は静かに制した。「これは剣で断つ鎖ではありません。もう一枚、紙で解く鎖です」
ゼーバルトが震える声で問うた。
「殿。この先、どうなさいます」
「回すのを、やめはしません」渋沢は窓の外の灯りへ目をやった。「鎖が来るなら、鎖より先に回る道を増やすまでです」
ゼーバルトが神妙な顔で頷いた。
「殿のお言葉、胸に刻みます。……紙の鎖とは、いったいどのような品でございましょう」
「それは、次の話にいたしましょう」渋沢は目元だけで笑った。
両替商の通りの方角で、黒い外套の影が揺れて消えた。
窓辺の証文に捺された隼の蝋印は、まだ乾ききっていなかった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
ガルムを主役級に動かすのは、Arc1のEP6の会見以来でした(合本銀行に出資したEP11や取り付け騒ぎのEP18でも顔は見せています)。腰を据えて渋沢とやり合うのは久しぶりです。あの会見で「潰せるのに潰さず取引を差し出す」渋沢を認めた男が、今度は自分から看板を貸す側に回る。書きながら、この人は変わっていないのだと感じました。独占の美学も、割り前への執着も、そのままです。ただ、認めた相手にだけ豪快に器を開く。そこだけは最初から一貫していました。
「奪い合えば、足りません。信じ合えば、足りるのです」——EP6で渋沢がガルムに投げた言葉を、この話でもう一度使いたくてずっと温めていました。同じ台詞が、敵対の場面と信頼の場面の両方で効くように書けたら、というのが今回のひそかな挑戦でした。うまく響いていたら嬉しいです。
割り前の交渉は、書いていて一番楽しい場面でした。一割と言い出すガルムと、二分で切り返す渋沢。三分で手を打つ結末は、最初から決めていたわけではなく、二人のやり取りを書きながら自然に落ち着いた数字です。
ロランも久々の登場です。EP3では圧力の使者、EP7では和解の使者、そして今回は歓待の番頭。同じ男が立場を変えながら渋沢との距離を縮めていく様子を、細く長く追っています。
看板を借りて手形は重くなりましたが、王室からの締め付けも同時に重くなってきました。次はいよいよ、紙そのものの正体——紙幣の話に踏み込みます。第3章も、どうかお付き合いください。
☆評価・ブックマーク・感想をいただけると、次章の大きな励みになります。




