剥がれない懐
前夜、宿の卓に蝋燭が一本灯っていた。
渋沢は紙を幾枚も並べ、フリッツと額を突き合わせていた。
「金額と、日付と、名」渋沢は筆先で示した。「そして、私の署名。これだけで、紙が銀貨の代わりになります」
「では、判はいかがなさいます」フリッツが尋ねた。「証文の偽りを防ぐには」
「蝋の封をしましょう。ブルーメンタール家の紋を使います」
ゼーバルトが恭しく蝋燭を差し出した。
「殿の御紋を、かような紙切れに捺すとは。もったいのうございます」
「執事、もったいないのはこの紙ではありません。明日まで救われずにいる人たちのほうです」
ボルツは腕を組んで卓の隅から眺めていた。
「そんな紙一枚、誰が信じる」
「今日は、誰も信じません」渋沢は答えた。「ですが明日には一人。明後日には、また一人」
蝋が垂れ、紋章の型が押される。冷えて固まるまでの、短い間があった。
「フリッツ」渋沢は言った。「額の書き方は、こうしましょう。銀貨の枚数だけでなく、目方も併記する。品位の違いで揉めぬように」
「なるほど。……両替商のやり口を、逆手に取るわけですな」
「同じ道具でも、使い方一つで盾にも剣にもなります」
フリッツはしばらく紙の上の数字を見つめてから、小さく頷いた。
*
夜明け前の東門は、革と汗と、濡れた藁の匂いが立ち込めていた。
松明の明かりの下、旅人たちが肩を落として立っている。誰もが帯や胴着の裏に銀貨を縫い込んだ重みを抱えていた。先月、単独で発ったなめし革商人が峠の手前で身ぐるみ剥がされたという噂が、まだ生々しく残っている。
「三人まとめてでどうだ」「今朝は五人組しか受け付けん」
護衛を雇う声があちこちで交わされていた。人数を揃えねば、街道は歩けない。それがこの都の朝の作法だった。
渋沢は懐の紙の薄さを指先で確かめた。
昨夜のうちに用意した一枚だ。折りたたんでも、掌にすっぽり収まる重さしかない。周りの旅人たちが抱える重みとは、比べものにならなかった。
群衆の端に痩せた男を見つけた。外套の下で、何かを何度も確かめる仕草をしている。銀貨を縫いつけた場所を、指でたどっているのだ。
(あの時、六掛け五分で削られていた人です)
両替商の帳場で色をつけてくれと、掠れた声で哀願していた背中を渋沢は覚えていた。荷を背負い直す拍子に、革袋の擦れる乾いた音が耳に残っている。
*
「もし」渋沢は声をかけた。「以前、両替商の帳場でお見かけした者です」
男が顔を上げた。酷薄な美貌に射すくめられ、一瞬身を硬くする。だがすぐに記憶をたどるように眉を寄せた。
「……ああ。あの、静かに値を聞いた旦那様」男は乾いた声で言った。「両替商が、青くなっておりましたな」
「青ざめさせたつもりはないのですが」渋沢は苦笑した。「名を、伺っても」
「ハンスと申します」男は用心深く答えた。「旦那様が、私に何のご用で」
ボルツが顎で忙しない周囲を示した。
「あんた、こんな朝っぱらから何をびくついてる」
ハンスの肩が、びくりと跳ねた。
「峠のことは、耳に届いておいででしょう」低く押し殺した声だった。「先月、革商人が一人身ぐるみ剥がされて谷底に。銀貨を運ぶたび、命を的にしているようなものです」
「それでも、運ぶほかない」
「今年の冬を越す金です」ハンスは懐を押さえた。「娘が二人、村で待っております。この銀貨がなければ、越せません」
ゼーバルトが、たまらず洟をすすった。
「なんと、痛ましい……」
「その銀貨を」渋沢は声をやわらげた。「今日、私に預けてはいただけませんか」
ハンスの顔が、強張った。
「旦那様まで、巻き上げるおつもりで」
「取り上げはしません。かわりに、これを」
懐からあの薄い紙を取り出す。
「ただの紙切れに、見えますか」
ハンスは紙を一瞥し、露骨に眉をひそめた。
「……失礼ながら、屑紙にしか」
ボルツが噴き出した。
「あんたも同じことを言うのか。魚屋と同じ台詞だな」
*
フリッツが進み出て、帳面を広げた。
「今日あなたが預けた額を、ここに記します」筆を構えながら言った。「あなたの名も、日付も。この紙が、その証です」
「証があっても」ハンスは首を振った。「銀貨がなければ、家族に何を渡せば」
「銀貨は、あなたより先に村に届きます」
ハンスが怪訝な顔をした。
「私より、先に……?」
「フリッツの縁者が、あなたの村の近くにおります」渋沢は言った。「今日のうちに私の兵を二人、その者のもとへ走らせます。あなたが三日かけて歩く道を、身軽な早馬なら一日半で行けるでしょう」
フリッツが頷いた。
「私の母の生まれた村です。酒好きの、しかし堅い男が金物屋を営んでおります。文を添えれば、必ず払います」
ボルツが渋い顔をした。
「俺の手勢を、菓子折りの届け物に使うのか」
「大事な荷です」渋沢は動じなかった。「剣より、よほど重い荷ですよ」
ボルツは鼻を鳴らしたが、それ以上は渋らなかった。
*
ハンスは、しばらく黙っていた。それから、外套の裏地をほどき始めた。
縫い込んだ銀貨が一枚また一枚、フリッツの帳面の上に積まれていく。長靴の底からも、腰の帯からも。隠していた場所の数だけ、銀貨が出てきた。裏地の縫い目には、細かな針目の跡が幾重にも重なっていた。何年も、こうして縫い直してきた跡だった。
最後の一枚を置いた時、ハンスの手はまだ震えていた。
フリッツが銀貨を数え終え、天秤に載せて確かめた。それから証文にハンスの名と額を記す筆先が、わずかに震えていた。
この世で最初の一枚を、自分の手が記しているのだと、今更のように気づいたふうだった。渋沢の署名を添え、丁寧に折りたたむ。
「これを」フリッツはその一枚をハンスの手に握らせた。
紙は驚くほど軽かった。
ハンスは、その軽さに戸惑うように何度も掌の上で紙を返した。ついさっきまで、そこには銀貨の重みがあったのだ。
「旦那様」ハンスの声が、掠れた。「これだけで……もう、狙われずに済むと」
渋沢は口元だけでうなずいた。
「奪われる心配は、もう要りません。何も、持っていないのですから」
ハンスの目に、みるみる涙が盛り上がった。堪えようとした喉から、くぐもった声が漏れる。
「三日の道を……今日まで、幾度歩いたか。歩くたび、峠の前で足がすくみました。今日も、震えて発つはずでした」
声が、そこで割れた。
重さが消えた。恐れも、消えた。あとには、紙が一枚。
ゼーバルトが盛大に洟をすすった。
「殿……手前、また目頭が」
「執事、今日ばかりは大目に見ましょう」渋沢はめずらしく口元を緩めた。
*
東門の外、旅人たちの列が動き出した。護衛に囲まれた商人たちは、まだ胸元を押さえながら歩いている。
その中でハンスだけが両手を懐に入れず、まっすぐ歩いていた。
隣を歩く別の行商人が、怪訝な顔でハンスに囁いた。
「おい。お前、荷はどうした」
「荷は、届く」ハンスは短く答えた。「先に、な」
もう一人は、狐につままれたような顔で黙り込んだ。
その声を聞きつけたのか、護衛待ちの列から二人、三人と旅人が近づいてきた。
「旦那様。俺の銀貨も、その紙にしていただけんか」
「私も」「私も御願いしとうございます」
たちまち人垣ができた。ボルツがうんざりした顔で渋沢を見た。
「あんた、今日は何人分の兵を出す気だ」
「今日は、ハンス殿の一件で精一杯です」渋沢は集まった人々に一礼した。「ですが、皆さんの名は覚えました。次にこの門で会う時までに、仕組みを整えておきます」
落胆の声と、それでも希望の残る顔とが半々に交じった。ゼーバルトが帳面の端に急いで名を書き留めていく。増えていく行の数に、老執事の筆先が忙しなく躍った。
東門とは反対の北の道から、ボルツの手勢が二騎駆け出していく音が聞こえた。鞍に括られた小さな箱には、フリッツが数え終えたばかりの銀貨が収まっている。旅人たちの誰もその馬に目を留めなかった。
渋沢は遠ざかるハンスの背をしばらく見送った。
(一人分の恐れが今日、消えました。次は、二人。それから、十人)
ふと両替商の通りの方角に目をやると、軒先の陰に見覚えのない男が一人、こちらを見ていた。会釈も、目礼もせず、ただ見ている。黒い外套の襟を立て、顔の下半分を隠していた。渋沢が視線を返すと、男は音もなく人混みに紛れて消えた。
(耳の早い方が、いらっしゃるようです)
振り返ると、フリッツが帳面を閉じていた。表紙をめくった一枚に、たった一行の数字が記されている。ハンスの名と、預かった額。それだけの、簡素な記録だった。
だが渋沢には、それが千の行の最初の一行に見えた。壁は三つあると、昨日は数えた。今日崩れたのは、そのうちのほんの一枚。その崩し方を知る者が、また一人増えた。
東の空が、白みはじめていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
ハンスという名前に、特別な元ネタはありません。隣領から三日歩いてくる行商人という響きに、どこにでもいそうな、素朴な名前を探して選びました。
この話は、為替の仕組みを先に説明せず、ハンスが懐から銀貨を一枚ずつ出していく場面から先に書きました。隠し場所の数だけ銀貨が出てくるくだりを書いていて、この人がどれほど長く、体に金を巻きつけて生きてきたのかが、自分でも見えてくる気がしました。
「奪われる心配は、もう要りません。何も、持っていないのですから」——為替という仕組みの本質を、渋沢の言葉で一番短く言うとしたらどうなるかを考えて、この一言に落ち着きました。金を守る方法は、隠すことではなく、運ばないことなのだと、書きながら腑に落ちた台詞です。
次話、この一枚の証文が、少しずつ信用を得ていきます。第3章も、どうかお付き合いください。
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