算盤が、鳴らない朝
夜明け前、蔵の扉を叩く音で渋沢は目を覚ました。
喉が渇いていた。水差しに手を伸ばす前に、扉の外でフリッツの声がした。
「旦那様。蔵が——空です」
「夜通し、戸を叩く音が絶えませんでした」フリッツの声は上ずっていた。「残りの十二枚も、夜明けを待たずに」
声はそこで途切れた。
渋沢は上着も羽織らず土間へ下りた。昨夜十二枚残っていたはずの棚に、今朝はもう何もなかった。
ゼーバルトが灯りを掲げて後ろに立った。
「殿。まだ夜も明けきらぬというのに、朝一番の客がもう」ゼーバルトの声が上ずった。「戸口に、二十人ほど並んでおります」
「開けてください」渋沢は言った。
「ですが、渡す金貨が」
「開けてください」渋沢はもう一度言った。「換えられないなら、私の口からそう伝えます」
フリッツの指先が空の棚をなぞっていた。
「数え間違いでは、ございません」フリッツは何度も同じ場所を撫でた。「何度も、数えました」
「わかっています」渋沢は短く答えた。
声が思いのほか掠れた。喉の奥に、砂を飲んだような苦さが残っていた。
表に出ると、列は昨日よりも長く通りの向こうまで伸びていた。
「本当に、もう一枚もないのか」
「並んだ意味がなかったってことか」
押し殺した声があちこちで漏れた。誰かが証文を振りかざし、誰かが座り込んでいた。
「皆さん」渋沢は列に向かって声を張った。「今日は、金貨をお渡しできません。ですが、逃げも隠れもいたしません」
「逃げないなら、どうしてくれる」
誰かが投げつけた。渋沢はその声にまっすぐ顔を向けた。
「明日も、ここに立ちます。渡せるものができるまで、幾度でも」
答える声はなかった。ただ、こちらを見る目だけが増えた。
パン屋の店先に、見覚えのある夫婦が立っていた。夫が証文を差し出すと、店主は首を振った。
「これは金じゃない」店主は言った。「今日は、誰の紙も受け取らん」
夫の手から、証文が力なく垂れた。妻が声を殺して泣いた。
渋沢はその光景を、遠くから見ているしかなかった。
(紙が、紙に戻っていく)
誰の罪でもない。ただ、蔵が空になっただけだった。それだけのことがこれほどの重さを持つとは、九十一年生きても知らなかった。
列の端に、見覚えのある痩せた男の姿があった。ハンスだった。今日は証文を出さず、ただ黙って人の列を見つめていた。目が合うと、小さく頭を下げてよこした。それだけで、渋沢の胸に何かがひとつ灯り、すぐに消えた。
列の中ほどで、老いた男が渋沢の前に進み出た。証文を握った手が乾いた音を立てて震えていた。
「男爵様。もう、金貨は本当にないのか」老人は問うた。
「ございません」渋沢は答えた。「今日、一枚も」
「では、この紙は」老人は証文を掲げた。「ただの紙か」
「今日のところは」渋沢は認めた。「はい」
老人はしばらく渋沢の目を見ていた。それから証文を懐にしまい、何も言わずに列を離れた。怒声も、罵声もなかった。言葉のない背中が、渋沢に深く刺さった。
「明日は、どうなさるおつもりですか」隣にいた女が老人の背を見送りながら渋沢に問うた。
「まだ、決めておりません」渋沢は正直に答えた。「ですが、逃げはいたしません」
女は何も言わず、小さく頷いて列の外れへ歩いていった。
昼を待たず、隼の看板の下に馬車が止まった。
ガルムが降りてきた。目の下に隈があり、着物は昨日と同じものだった。
「男爵」ガルムは前置きなしに言った。「隼の看板は、今日で下ろす」
「承知いたしました」渋沢は静かに答えた。
「積んだ金までは、引き上げん」ガルムは唸るように続けた。「意地だ。小僧の面まで見捨てては、私の名が立たん」
その一言に、渋沢は何かにすがるような安堵を覚えた。顔には出さなかった。
「総帥のお情け、忘れません」渋沢は頭を下げた。
「情けではない」ガルムは鼻を鳴らした。「まだ、見限ってはおらんというだけだ」
ガルムは踵を返し、馬車に乗り込んだ。振り返らなかった。
隼の看板が外される音を、渋沢は帳場の中で聞いた。金槌の音は思ったより静かだった。
その日のうちに、看板を借りていた両隣の店も、証文の受け取りを渋り始めた。看板ひとつの重さを、渋沢は今更のように知った。
その直後、連合の紋を掲げた使者が一人、帳場の前で足を止めた。渋沢に文を差し出し、何も言わずに去っていった。
開くと、ザロモンの印があった。
「潮目は、変わるべきところへ変わるのみにございます」短い一文だけが記されていた。
渋沢はその文を、しばらく持ったまま動かなかった。
ボルツが横から覗き込んだ。
「脅しにしちゃ、随分と落ち着いた字だな」ボルツは言った。
「脅しでは、ないのでしょう」渋沢は返した。「もう、脅す必要がないだけです」
午後、革商が帳場を訪ねてきた。証文で紙袋や帳面の革表紙を納めてきた、古い取引先だった。
「旦那様には、世話になった」革商は帽子を胸に当てた。「だが次の納めからは、銀貨でいただきたい」
「承知いたしました」渋沢は言った。
「恨むなよ」革商は目を逸らした。「俺にも、女房子供がいる」
「恨みません」渋沢は答えた。「今日までお付き合いくださって、ありがとうございました」
革商は一礼し、逃げるように帳場を出ていった。
フリッツが帳面に、取引先が一軒減ったことを書き留めた。ペン先がかすかに止まった。
夕方に近づく頃、フリッツがまた駆け込んできた。
「旦那様。隣町からも、同じ噂が届いています」フリッツの声は細く途切れた。「合本銀行の紙は、もう金に換えられないと」
噂は王都だけでは収まらなくなっていた。
渋沢は帳面を握った手に、力を込めた。
「宮廷では、グラーフェンベルク卿が」フリッツは肩で息をしながら続けた。「男爵の紙は、これで終わりだと。ご自分で、方々に触れて回っているそうです」
(届いている。届いた先で、勝利を確信されている)
渋沢はその数字を、胸の内で組み直した。組んでも、答えは変わらなかった。
夕刻、渋沢は帳場の隅に腰を下ろした。
目の奥が重く、瞼を閉じるたび光の名残りが尾を引いた。
算盤を手に取ったが弾く気力が出なかった。握りしめた手がかすかに震えていた。
(数字は、正しかった。道理も、間違っていなかった)
(それでも、崩れるものは崩れる)
ゼーバルトが茶を運んできたが、渋沢は口をつけなかった。
「殿……」ゼーバルトは言いかけて、やめた。
「何か、仰りたいことがあるなら」渋沢は言葉を継いだ。「聞きます」
「いいえ」ゼーバルトは首を振り、袖で目元を拭った。「今は、何も申せません」
その代わり、湯呑みを渋沢の手にそっと押しつけた。渋沢はようやくひと口だけ飲んだ。ぬるい茶が渇いた喉にじんと染みた。
ボルツが戸口に立ち、腕を組んでいた。
「今日は、拳の出番もなかったな」ボルツは呟いた。「列はもう怒りもせん。ただ黙って、去っていくだけだ」
怒声のない見送りのほうが渋沢には応えた。
「フリッツさん」渋沢は帳付けの背に声をかけた。「今日はもう、休んでください」
「まだ、できます」フリッツは首を振った。指先は一日じゅう空の帳面をなぞり続け、白くなっていた。
「命令です」渋沢は告げた。
自分でも驚くほど、硬い声が出た。
フリッツはしばらく渋沢を見つめ、それから小さく頷いて帳面を置いた。
「あんた」ボルツが低く言った。「策は、あるのか」
渋沢はすぐには答えなかった。
「今は、まだ」渋沢は正直に言った。「ありません」
「そうか」ボルツはそれだけ言った。責める色はなかった。
「殿がないと仰るのを、初めて聞きました」ゼーバルトが涙声で漏らした。
「初めて、本当にないのです」渋沢は言葉少なに答えた。
渋沢は目を閉じた。
(私は今日、負けました)
声には出さなかった。胸の内でだけ、はっきりとそう認めた。
九十一年の生を賭けてもこの痛みだけは弾けなかった。信用は築くのに十月かかり、壊れるのに一日もいらないと、前の話で骨身に食らったつもりでいた。今日はその先があった。壊れたものは翌日にはもう戻らない。
「今日という日は、私の負けです」渋沢は静かに言った。「言い訳は、いたしません」
ゼーバルトが声を殺して洟をすすった。
ボルツは何も言わず、ただ頷いた。
「殿は、それでも……」ゼーバルトがかすれた声で続けた。「それでも、明日もこの帳場をお開けになるのですか」
「開けます」渋沢はきっぱりと言った。「渡せるものが、何もなくとも」
ゼーバルトはそれ以上何も言わなかった。
外の列はもう声を上げなかった。ただ静かに、証文を握ったまま散っていった。その静けさが渋沢には、何よりの敗北の証に見えた。
夜、灯りを落とした帳場に、フリッツが戻ってきた。
「旦那様。明日も、私に帳付けをさせてください」フリッツは言った。
「休めと言ったはずです」渋沢は繰り返した。
「休んで、また来ます」フリッツは言った。「それだけは、決めております」
渋沢は頷いた。それ以上、何も言えなかった。
フリッツが去った後、渋沢は空の棚に目をやった。
(隠して、守ろうとした)
(それが、崩れた一因ではなかったか)
——信用とは隠さないことです。
いつか、誰かに言った言葉が耳の奥で鳴った。いつ、誰に言ったのか、すぐには思い出せなかった。その一言だけが灰の底に、小さく残った火のように、消えずにあった。
渋沢はゆっくりと目を開けた。
空の棚はまだそこにあった。
けれど、その先に何かがあるような気が、わずかにした。
言葉にはまだならない。形にもならない。それでも、今日負けた男の胸の底に、確かに小さな火が残っていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
今回は、渋沢を一切立ち直らせないことだけを考えて書きました。前回「蔵はあと十二枚」で終えた谷を、今回は本当にゼロにするところから始めています。算盤を握った手が震えるだけで弾けない場面は、今作で一番書くのがつらい場面でした。
ガルムの「積んだ金までは引き上げん」の一言は、彼の器を最後まで残すために置きました。看板は下ろしても、意地で全部は切らない。転向はまだしていません。EP33の「面白くもなんともない」の続きとして、怒りながらも完全には見捨てない距離感を書いたつもりです。
パン屋で紙を突き返される夫婦の場面は、名も知らぬ誰かとして書きました。数字にできない痛みは、名もない人の顔で書くのが一番効くと思っています。
最後の「隠して、守ろうとした」は、渋沢がまだ答えにたどり着く前の、ただの気づきの芽です。次回、この小さな火がどう形になるか、正面から書くつもりです。どうかお付き合いください。
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