水源を辿る
朝、渋沢が「両替商連合について、少々伺いたい」と尋ねただけで宿の主人は絶句した。
昨日は金を数える音で満ちていた都だ。今日は、その名を口にするだけで誰もが黙り込む。
両替商の通りでは、軒先の天秤がまだ小さく揺れていた。だが渋沢たちが歩み寄ると、その天秤の音までもが、ふっと止んだ。
主人は目を逸らし、逃げるように厨房へ消えた。
(口を割らぬのではない。震えて、割れぬのだ)
渋沢はその背をしばらく見つめていた。
*
通りへ出ても、答えは同じだった。
果物売りの老婆に声をかければ、渋沢の顔を見るなり林檎の籠を取り落とす。八百屋の主人は「知りません」を繰り返すばかりで、目も合わせない。
「殿」ゼーバルトが林檎を拾い集めながら囁いた。「恐れながら、お顔が」
「顔が、何か」
「常より、酷薄に見えます。優しく尋ねておられるのに」
渋沢は自分の頬に触れてみた。前世で五百の会社を興した、老いた実業家の顔のつもりだった。だが今それは、暴君ヴァルドの冷たく整った美貌の上に乗っている。
試しに口元をゆるめてみる。八百屋の主人が、小さな悲鳴を上げて店の奥へ引っ込んだ。
「あんた」ボルツが腕を組んで唸った。「その面で笑うのは、脅しにしかならん」
「脅す気は、毛頭ないのですが」
「知ったことか。この都じゃ、剣より顔のほうが厄介だ」
渋沢は肩をすくめた。悪くない見立てだ、と思う。
半刻ほど歩き回っても、実のある話は拾えなかった。連合の名を出せば口が閉じる。それだけが、確かにわかったことだった。
唯一、金貸しの店先で若い手代が口を滑らせた。
「元締めなら、この都には一人しか……」
言いかけて、手代は自分の口を手で塞いだ。奥から主人らしき声が飛ぶと、蒼白になって頭を下げるばかりになった。
(一人しか、いない。都の元締めが、たった一人)
その糸を手繰る間もなく、二人は路地の奥へ引き込まれることになった。
*
路地の奥で、渋沢たちを呼び止める声があった。
「……ゼーバルト様?」
声の主は、粗末な外套をまとった若い男だった。頬がこけ、目の下に隈がある。
ゼーバルトが目を見開いた。
「フリッツ……そなた、あの……ヴェーバー様の……!」
男は身を縮めた。
「フリッツと申します。かつて、ヴェーバー様の帳付けを」
ゼーバルトの目に、みるみる涙が盛り上がった。
「生きて、おられたのですね……!」
「ゼーバルト」渋沢は静かに声をかけた。「泣くのは、話を聞いてからでも」
フリッツは警戒するように後ずさった。
「あなた方のせいで、ヴェーバー様は」
「存じています」渋沢は遮らなかった。「あの方を退けたのは、私です」
フリッツの拳が震えた。
「主が身代を失って、我ら使用人も路頭に迷いました。この都まで流れて、日雇いで食いつないでおります」
渋沢は深く頭を下げた。
「詫びて済むことではありません。ですが、詫びさせてください」
フリッツは面食らったように渋沢を見た。酷薄な美貌が、深々と頭を下げている。予想していなかった反応らしい。
「……食事は、まだですか」渋沢は尋ねた。
「は……はい」
「では、まず腹を満たしてから話しましょう。空きっ腹では、恨み言も湧きません」
*
安宿の片隅で、フリッツは熱い麦粥を掻き込んだ。数日ぶりの温かい食事だったのだろう。
「正直、ヴェーバー様はろくな主ではありませんでした」フリッツはやがて、ぽつりと言った。「借りた者を屑と呼び、娘が売られようが勝手だと嗤う。仕えていて、何度も嫌気が差しました」
「それでも、放っておけなかったのですね」
「食い扶持が、他になかっただけです」
フリッツは椀を置いた。
「ですが、あの方が連合から切られる様は見ていて寒くなりました」
「切られる……とは」
「両替商連合というのは、一枚岩ではないのです」フリッツは声を落とした。「都ごと、店ごとに元締めがおります。その元締めが、稼ぎの何割かを上納するのです」
「上納」
「はい。その先に、ザロモン様がおられます」
ボルツが片眉を上げた。
「そのザロモンってのが、頭目か」
「頭目、などと申しては罰が当たります」フリッツは声を潜めた。「あの方は国そのものを束ねておいでです。噂では陛下の御用金すら、あの方の蔵から出ているとか」
渋沢は頷いた。それは玉座の間で、ザロモン自身の口から聞いた話でもある。だが今、別の角度から同じ事実を聞くと、腑に落ちるものがあった。
「一軒を潰しても」フリッツは首を振った。「明くる日には、また同じ場所に新しい店が座ります。連合が、次の番人を寄越すのです」
渋沢の脳裏に、昨日の算盤の音が蘇った。
(堰があるかぎり、番人は必ず現れる。……道理です)
「では」渋沢は尋ねた。「ヴェーバー殿も、その上納をしていたと」
「わずかながら。ですが、辺境の一介の顔役に過ぎませんでした。あの方が切られても、連合は痛くも痒くもなかったはずです」
フリッツは目を伏せた。
「私は長らく、ヴェーバー様こそが頂と思っておりました。違いました。あの方は、ただの末端の駒だったのです」
――あの日のことを、フリッツは今でも覚えている。
連合の使者が二人、証を取り上げにきた朝だった。ヴェーバーは食い下がった。何年、連合に尽くしてきたと思っているのか、と。使者は表情一つ変えず、胸の証をむしり取って去った。あとに残ったのは、震える主人と、行き場を失った奉公人たちだけだった。
フリッツはそこまで語って口をつぐんだ。
ゼーバルトが声を殺して洟をすすった。
渋沢は静かに椀を見つめた。
(末端の駒、か……)
*
「フリッツ殿」渋沢は顔を上げた。「一つ、伺いたいのですが」
「何なりと」
「両替商は、なぜこの都にこうも根を張れたのでしょう」
フリッツは少し考えてから答えた。
「貨幣が、領ごとに違うからです。誰かが両替を担わねば、商いが回りません」
渋沢は頷いた。それは自分がすでに見抜いていた道理だった。同じ答えを、別の口から聞くと、点と点が繋がるものがあった。
(両替商が要るのは、貨幣が分かれているからだ。都ごとの番人も、上納の鎖も、みな一つの根から生えている)
「分断が、彼らの根なのですね」渋沢は言った。「ならば分断が消えれば、根も枯れます」
フリッツが怪訝そうな顔をした。
「根を枯らすと仰いますと……まさか、王国中の貨幣を一つに揃えるおつもりで」
「いいえ。境は、そのままで構いません」渋沢は静かに首を振った。「変えるのは、金の形です」
「証文が、金の代わりに」フリッツが眉をひそめた。「まさか、魔道具で金貨を象るような真似を」
「魔法ではありません」渋沢は苦笑した。「ただの紙です。信じる者同士でしか、通じません」
「信じるだけで金が動くと」ボルツが腕組みをほどいて唸った。「そいつは、剣よりよほど得体が知れんな」
「証文……お守りのようなものでございますか」ゼーバルトが、真顔で尋ねた。
「お守りとは、また」渋沢は苦笑した。「まあ、あながち外れでもありません」
フリッツは麦粥の椀を見つめたまま、しばらく黙っていた。
「……もし、それが本当に成るなら」やがて、掠れた声で言った。「ヴェーバー様のような主が、二度と要らなくなるということですか」
「そう願っています」
フリッツは何かを堪えるように、拳を握った。
渋沢は懐から銀貨を数枚取り出し、卓に置いた。
「これは、施しではありません。……あなたの帳付けの腕が要る日が来たら、その時の前渡しです」
フリッツは銀貨を見つめ、それから深く頭を下げた。
「……ご恩は、忘れません」
*
その夜、宿の部屋で渋沢は古びた算盤を取り出した。
フリッツから聞いた話を、珠の上に並べていく。都ごとの元締め、上納の流れ、その頂にいる一人の男。全てが、一本の川のように繋がっていた。
(末端を叩いても、詮ない。水源を、断つほかありません)
「殿」ゼーバルトが、まだ目を赤くしたまま言った。「フリッツの奴、あんな路地裏でよくぞ生きておりました」
「彼には、後日また会いましょう。帳付けの腕は、腐ってはいないはずです」
「まあ……!」ゼーバルトが胸の前で両手を組んだ。
「泣くのは、まだ早いですよ」
渋沢は珠を弾いた。かちり、と乾いた音が鳴る。
「私たちが目指すのは、この都の元締め一人を潰すことではありません。貨幣の分断そのものを、消すことです」
「そいつは」ボルツが窓の外の灯りを見やった。「聞けば聞くほど、途方もない話だな」
「奪い合えば、足りません」渋沢は珠から目を上げた。「信じ合えば、足りるのです。……途方もないことこそ、算盤を弾く甲斐があります」
珠を、もう一つ弾く。
「まずは、一枚の証文から。両替のいらない金を、この手で」
(連合の強さは、ただ一つの水源から都じゅうへ枝分かれしているだけ。水源さえ断てば、末端の店はいずれ自然に涸れます)
卓の隅で、算盤の珠がまだ小さく揺れていた。
窓の外、路地の暗がりを、小さな足音が一つ駆け去っていく。
渋沢は振り返らなかった。ただ、算盤を握る手に少しだけ力がこもった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
今回は、あえてザロモンを舞台に立たせませんでした。前話で名乗りを上げた大物を二話続けて出すより、その名だけが噂として都を走り回っているほうが、怖さが増すと思ったからです。姿を見せない敵ほど、大きく見えるものです。
フリッツは、実はプロット段階にはいませんでした。第2章でヴェーバーを退場させた時、彼に仕えていた者たちのその後がずっと気にかかっていて、筆が自然と呼び寄せた形です。ヴェーバーが「頂」ではなく「末端の駒」だったと、当人ではなく元部下の口から語らせたのは、渋沢に安易な種明かしをさせたくなかったからです。答えは、いつも誰かの人生を通して見えてくる。そこを大事にしたいと思っています。
「奪い合えば、足りません。信じ合えば、足りるのです」——このセリフは第1章のガルム戦、第2章の取り付け騒ぎに続く三度目の変奏です。相手の規模がどんどん大きくなっていくのに、渋沢の答えはずっと変わらない。そこに、この物語の背骨があると信じて書いています。
次話、いよいよ渋沢は連合の盟主ザロモンと再び対峙します。第3章も、どうかお付き合いください。
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