猫撫で声の間
朝、宿の扉を叩く音があった。
ゼーバルトが応対に出て、すぐに顔色を変えて戻ってきた。差し出された書状には、天秤を象った蝋の封印が押されている。
「殿。……両替商連合より、正式な招きにございます」
声が震えていた。
「正式な、というと」渋沢は書状を受け取った。「昨日の路地の足音が、律儀に使いを寄越したわけですね」
「では殿にも、あの足音が」
「気づかぬわけがありません。あちらも隠す気がなかったようですし」
封を切ると、達筆な文字が並んでいた。連合盟主ザロモンが、ブルーメンタール男爵との対面を望んでいる。刻限は本日、正午。場所は連合本部。
「行くほかありませんね」
「あんな氷みたいな野郎の巣に、のこのこ出向くのか」ボルツが眉根を寄せた。「罠かもしれん」
「罠なら、なおのこと。行かねば何を仕掛けられているのかもわかりません」
ゼーバルトが震える手で礼装を整えにかかった。皺一つない上着を選び、襟を三度も直し、最後にひどく丁寧な一礼を渋沢に捧げた。
「殿。連合の本部へまかり越すとなれば、非礼があってはなりません。……手前、昨夜のうちに礼儀作法をおさらいいたしました」
「執事、それは頼もしいですが」渋沢はわずかに口元をゆるめた。「相手はこちらを田舎者と侮る気でいます。非礼より、そちらのほうが気楽でよいのですが」
「なりません。足元を見られては殿の値打ちに関わります」
真剣な顔で言うので、渋沢はそれ以上茶化さなかった。ゼーバルトは廊下に出て、誰もいない壁を相手に一礼の角度を三度も試している。それを横目に、ボルツが小さく肩を揺らして笑った。
「あの爺さん、こういう時だけ本気だな」
「主家の名誉には、命を賭ける質ですから」渋沢も、つられて口の端を上げた。
*
両替商連合の本部は、両替商の通りの奥、他の店とは明らかに格の違う建物だった。石造りの壁は分厚く、窓は小さく、まるで砦だ。
門番が二人、槍を交差させて道を塞いだ。
「刃物は、こちらへ」
ボルツの手が、思わず剣の柄に伸びかけた。
「話し合いに来ただけだ」
「規則にございます」門番は表情を変えなかった。「連合本部では、何人も帯剣を許しません」
ボルツは長い舌打ちの後、剣を鞘ごと預けた。腰の軽さに、落ち着かなげに手のひらをさすっている。
「あんた」低い声で渋沢に囁いた。「王都に来てから、俺の得物が役に立った試しがない」
「今日もそのようですね」渋沢は静かに答えた。「ここでの得物は、算盤一つです」
ボルツは唸っただけで、それ以上は言わなかった。
石の廊下を進むほど、空気が冷えていくように感じられた。灯りは十分にあるのに、どこか薄暗い。金貨を数える音すらここには届かない。富はここで動くのでなく、眠っているのだ。
途中、開け放たれた小部屋がいくつも見えた。天井まで積まれた帳簿の山。羽根ペンを走らせる書記たちが、顔も上げずに数字だけを追っている。誰も口を利かない。渋沢の脳裏に、都じゅうの堰から集めた通行料が、この石壁の内側に一枚残らず流れ着く様が浮かんだ。
*
大広間の奥、玉座めいた椅子に、ザロモンが腰掛けていた。
「ブルーメンタール男爵。よくおいでくださいました」
慇懃な声だった。あの日、王城の御前で聞いたのと同じ、猫撫で声。白髪を一分の乱れもなく撫でつけ、黒一色の上質な衣を纏っている。目だけが、少しも笑っていなかった。
「ザロモン殿」渋沢は静かに一礼した。「あの折の囁きを、まだ覚えております。……よく眠れておりますでしょうか、私は」
ザロモンの口元が、わずかに引きつった。作り直された笑みが、また元の形に戻る。
「これは手厳しい。飼い殺しにすると申し上げたつもりが、まだ檻の外を歩いておいでとは」
「檻には、まだ穴が見つかっておりませんので」
ザロモンの隣に、恰幅の良いもう一人の男が座っていた。宮廷風の華美な衣を纏い、香油で固めた巻き毛を揺らしている。指には過分な宝飾。扇子を広げ、その陰から渋沢を値踏みしていた。
「これは、また……」男は扇の陰で、ひとつ鼻を鳴らした。「辺境の男爵どのは、噂に違わぬ酷薄な面構えでいらっしゃること」
ゼーバルトが渋沢の耳元で、ごく小さく囁いた。「宮廷で名高い、グラーフェンベルク卿かと」
「グラーフェンベルク卿でいらっしゃいますか」渋沢は、その名を受けて丁寧に頭を下げた。「お初にお目にかかります」
「ええ、ええ。私がモーリッツ・フォン・グラーフェンベルクですこと」男は扇を軽く揺らした。「王室財務を預かる身として、ザロモン殿にご相伴させていただいております」
モーリッツは扇を閉じ、それで自分の掌をとんと打った。
「して、両替のいらぬ金とやらを企んでおいでとか。血も知れぬ成り上がりが、王権の貨幣に指を触れるとは。恐れ入りますこと」
「血筋のことは存じません」渋沢は静かに答えた。「両替で四割を持っていかれた民の顔なら、いくつも見てまいりました」
「民の顔、ですか」モーリッツは笑いを堪えるように扇で口元を隠した。「そのような下々の顔を、いちいち数えてどうなさいます。数える価値があるのは、家柄と血統だけでございますのに」
ゼーバルトの喉が、ひゅっと鳴った。声にこそ出さなかったが、顔が赤らんでいる。
渋沢は表情を変えなかった。ただ、目だけがわずかに冷たくなった。
「グラーフェンベルク卿」渋沢は言った。「数えた顔の分だけ、税は集まります。血統では、税は集まりません」
モーリッツの扇が、ぴたりと止まった。
ザロモンが、片手を上げて制した。
「卿、それくらいで。……男爵は、遠路はるばる参られたのです。少しは商いの話をいたしましょう」
ザロモンは、指を組んで渋沢を見据えた。
「男爵は、両替のいらぬ金をお考えとか。証文一枚で、金貨の代わりをさせるおつもりだと聞きました」
「耳が早くていらっしゃる」
「私の耳は、この都のどこにでも届きます。都ごとの元締めが誰に、いくら上納しているかも——存じておりますよ」
わずかな間があった。ザロモンの目に、初めて小さな光がよぎった気がした。試すような、値踏みするような光だった。
「フリッツという男に、銀貨を渡されたそうですね」
渋沢は動じなかった。
「ええ。帳付けの腕を買っただけです」
「……なるほど」
ザロモンは、それ以上は追及しなかった。だが渋沢は、その一拍の沈黙に、相手が想定より早く動いていることへの、かすかな戸惑いを見た気がした。
(この目は、ガルム殿とは違う)渋沢は思った。(ガルム殿の目には、儲けの火があった。この方の目には、火がない。ただ、数字だけがある)
同じ大商人でも、こうも違うものかと思う。ガルムは奪ってでも太ろうとする獣の熱があった。締め上げ、笑い、認めれば豪快に手を差し出す。ザロモンには、それすらない。怒りも喜びもなく、ただ静かに握り続けるだけの冷たさがある。あの冷たさは、説けば届く類のものではないと、渋沢は肌で悟った。
「ザロモン殿」渋沢は言った。「金は天下の回り物です。抱え込むほどに、澱むだけです」
「回れば、削れるだけのこと。削るのが、私の商いにございます」
「道徳なき利益は、長くは続きません。……それは、いずれあなたにも言えることです」
広間に、しばし沈黙が降りた。
ザロモンの笑みが、また作り直された。今度はさきほどより、少しだけ時間がかかったように見えた。
「面白い。よく回る舌だ。……ですが、舌では帳簿の数字は、一つも動きません」
「では、何が動かすのでしょう」
「数字ですよ、男爵。この都の数字は——すべて私の帳簿にございます」
モーリッツが扇を広げ、口元を隠して笑った。
「所詮、辺境の紙芝居ですこと。……せいぜい、王都に長居なさいませ。飼い殺しがどういうものか——身をもってお知りになれますでしょうから」
渋沢は一礼し、それ以上は取り合わなかった。
*
連合本部を出ると、日はまだ高かった。だが渋沢の背には、冷たいものが残っていた。
「殿」ゼーバルトが、こらえきれぬ様子で言った。「あの、モーリッツとかいう男……手前、あれほど人を見下す物言いは初めて聞きました」
「執事にしては、珍しく怒っていますね」
「怒っております。殿を、紙芝居呼ばわりするなど」
「怒りは、蓄えておきなさい。……使う日が、いずれ来ます」
ボルツが預けた剣を取り戻し、重みを確かめるように鞘を叩いた。
「あんた、あの氷野郎の目を見たか。一瞬、こっちを本気で測ってた」
「ええ。フリッツのことまで掴んでいました」
「筒抜けか。気味の悪い連中だ」
渋沢は歩きながら、懐の算盤に触れた。
(ザロモン殿の帳簿が、この都の数字のすべて。……ならば、私が次にすべきことは一つです)
証文一枚を、この帳簿に対抗させる。両替のいらない金を、この手で。
振り返ると、連合本部の窓の奥に、こちらを見下ろす人影が二つ見えた。ザロモンと、モーリッツだ。窓越しに、モーリッツが扇を開き、また閉じるのが見えた。
渋沢は、静かに一礼だけを返した。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
モーリッツ・フォン・グラーフェンベルクは、書いていて自分でもひどく嫌な気持ちになるキャラクターでした。扇の陰で人を値踏みする仕草は、実は代官ボルグ(第一章の悪役)の宮廷版として設計しています。暴力でなく言葉で殴るぶん、質の悪さは増しているかもしれません。
連合本部を、窓の小さな砦のように描きました。金貨を数える音すら届かず、豊かなのにどこか薄暗い。富が動かず眠っている牢獄のイメージです。渋沢が起こしにきた「眠れる金貨」が、この国でいちばん深く眠っている場所——それが連合本部なのだと、書きながら自分でも腑に落ちました。
「道徳なき利益は、長くは続きません」——この台詞は、渋沢の心の中でずっと温めてきた信念そのものです。ようやく、宿敵の目の前で言わせることができました。
次話、連合への宣戦布告です。剣も魔法もない男が、貨幣の本丸にどう挑むか。第3章も、どうかお付き合いください。
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