本丸へ
街道の彼方に、砂埃が立っていた。
一つ。まっすぐ、こちらを目がけて近づいてくる。
渋沢は館の物見台から、その砂埃を見下ろしていた。荷馬車の類ではない。速い。供も連れず脇目も振らず、この領だけを目指して駆けてくる。
(……来たか)
胸の奥がかすかに騒いだ。予感というより、確信に近かった。
眼下では、いつもの朝が回っていた。街道を荷を背負った家族が歩いてくる。他領の食い詰めた者たちだ。半年前までこの領は人が逃げ出す土地だった。重税と私刑に耐えかね、夜逃げして二度と戻らない領だった。それが今は逆になっている。「あの領に行けば飢えずに暮らせる」——その噂を頼りに、人が流れてくる。門の脇では買取所の若い衆が、新しく来た者たちに畑を割り振っていた。
(豊かさとは、金の多さではない。……人が明日を信じて集まること)
だが渋沢の目は、その平穏を越えて、近づく砂埃へ戻っていく。
(この繁栄は、いずれ王都の目に留まる。……いや、あの砂埃こそ、その報せかもしれません)
*
その馬車が館の前に停まったのは、昼過ぎだった。
王家の紋章を掲げた、四頭立ての立派な馬車。辺境ではまず見ない代物だ。降りてきたのは宮廷の装束をまとった男。物腰は慇懃だが、目の奥は氷のように冷たかった。
「ブルーメンタール男爵に、王命をお届けに参りました」
使者は封蝋の重い書状を、両手で恭しく差し出した。蝋には見慣れぬ王家の印が押されている。
渋沢はそれを開いた。流麗な宮廷の文字が、隙なく並んでいた。
『ブルーメンタール男爵ヴァルドに命ず。速やかに王都へ上り、国王陛下の御前に参上せよ』
たった一行。だが、その一行の重さが、館の空気を変えた。
「……栄誉なことでございますな」使者が薄く笑った。「辺境の一男爵が、陛下の御前に招かれる。滅多にないことでございます。……くれぐれも、お早いお運びを。陛下は、気の長いお方ではございません」
使者はそれだけ告げると、来た時と同じ冷たい笑みを残して去っていった。車輪の音が遠ざかっても、書状の重みだけが手に残った。
*
その書状を前に、館の空気は重く沈んだ。
「殿」ゼーバルトの声が震えていた。「これは……罠かもしれませぬ」
「罠」
「両替商連合は、王家に金を貸しております。戦のたび、宮殿を建てるたび、王家は連合から借りてきた。国王陛下すら、彼らには頭が上がらぬのです」老執事は言った。「その連合が、殿を目障りに思っている。……王家を動かして殿を王都へ呼びつけ、そこで裁くつもりでは」
ボルツも腕を組んで唸った。日に焼けた武人の顔に、めずらしく影が差している。
「王都は連合の庭だ」ボルツは低く言った。「あんたが行けば、丸腰で敵の城へ踏み込むようなものだ。……俺が護衛についても、宮廷の中では剣は抜けん。あそこじゃ、剣より紙切れ一枚のほうが人を殺す」
二人とも、行くな、と目で告げていた。半年、共に領を立て直してきた仲だ。その二人が、初めて渋沢を引き止めようとしていた。
渋沢はしばらく書状を見つめた。それから、静かに顔を上げた。
「行きます」
「殿……!」
「逃げれば、どうなります」渋沢は静かに問い返した。「王命に背いた辺境の反逆者。そう仕立てられて、討伐の口実にされる。せっかく灯した領の火が、兵の松明で焼き払われる。……逃げ道など、初めから無いのです」
彼は書状を、そっと畳んだ。指の動きに、迷いはなかった。
「それに」渋沢の目が、少年のように光った。商機を見つけた時の、あの目だ。「これは罠であると同時に、またとない機会でもあります」
「機会……?」ゼーバルトが眉をひそめた。
「私はずっと、王都の本丸に辿り着きたかった」渋沢は言った。「貨幣を握る者たちの、その中枢に。こちらから乗り込もうにも、辺境の男爵が王都の門を叩いたところで、門前払いが関の山でしょう。……ところが、向こうから招いてくれるという。こんな好都合はありません。罠の口から、堂々と乗り込めるのですから」
ゼーバルトが、言葉を失った。ボルツが、ふっと肩の力を抜いて苦笑する。
「……あんたは、本当に、そういう男だな」ボルツは言った。「絶体絶命を、土産物みたいに嬉しそうに抱える」
*
その夜、渋沢は皆を集めた。
ニケ。ボルグ。ボルツ。そしてクルトや、村の顔役たち。半年前まで飢えと怯えの中にいた者たちだ。今は買取所を回し、藍を育て、帳簿をつけ、領を自分たちの手で動かしている。
「しばらく、留守にします」渋沢は言った。「王都へ上らねばならない。……いつ帰れるかは、わかりません」
村人たちがざわめいた。不安げな顔がいくつも揺れる。「殿がいなくなったら」と、誰かが小さく漏らした。
「案じることは、ありません」渋沢は穏やかに言った。「この領は、もう私がいなくとも回ります。合本も、銀行も、あなたがたが自分の手で動かしている。買取所の帳面を締めるのも、藍畑に水を引くのも、私ではない。あなたがたの手です。……私が消えても、その手が、この領を回しつづける」
渋沢は一人ひとりの顔を、ゆっくりと見渡した。
「私が村に来た日、皆さんは私を信じませんでした。悪徳領主が何の企みだ、と怯えた。……あれから半年。今度は私のほうが、皆さんを信じて留守を託します。仕組みは、もうあなたがたのものです」
ニケが前に出た。いつもの威勢を、無理に張ったような声だった。
「……早く、帰ってきなよ」ニケは言った。目の縁が、わずかに赤い。「あんたの席は、ちゃんと空けておくから。買取所の、あの上座」
渋沢は微笑んだ。
「ありがとう。……行ってまいります」
*
翌朝、渋沢は王都へ発った。
馬車が館の門を出る。振り返ると、村人たちが見送っていた。ニケが。ボルグが。クルトが。かつて物乞いだった老婆までが、皺だらけの手を高く振っている。半年前、この領で振られていたのは、鞭と拳だけだった。
(この人たちのために、私は行くのです)
馬車は街道を進んだ。行く手には王都ヴェルデンブルクがある。貨幣を握る両替商連合。そして、その奥に座す王家。この国の富の水源が、すべてそこに集まっている。
剣も魔法も持たぬ男が、いよいよこの国のいちばん深い場所へ乗り込んでいく。武器は算盤ひとつ。それと、半年で築いた揺るがぬ信用だけだった。
(さあ——本丸です)
街道の先で、朝の光が王都のある方角の空を白く染めはじめていた。渋沢はまっすぐに、その光を見た。眠っていた金を起こし、この一領を変えた男が、今度は国そのものを起こしにいく。その第一歩を、車輪が刻んでいった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
第2章も、いよいよ大詰めです。今回は、王都からの召喚。ふつうなら、絶体絶命のピンチです。敵の本拠地へ、丸腰で呼びつけられる。ゼーバルトもボルツも、行くなと止めます。
でも、渋沢は行く。しかも「罠であると同時に、またとない機会でもある」と言って、むしろ喜ぶ。ここが、渋沢栄一という人のいちばん面白いところだと思うのです。彼は、ピンチを、いつもチャンスに読み替えてしまう。「向こうから招いてくれるなら、堂々と乗り込める」——普通なら怯える場面で、商機を見つけた時のあの目を光らせる。この胆力が、九十一年を生きた男の凄みです。
そして、留守を託す場面。「この領は、もう私がいなくとも回ります」——これは、第15話で村の景色を見ながらつぶやいた「私が消えても、この村は回っていく」の、実践です。彼が作ったのは、彼がいないと回らない仕組みではなく、彼がいなくても回る仕組みでした。だからこそ、安心して、本丸へ乗り込める。
ニケの「あんたの席は、ちゃんと空けておくから。買取所の、あの上座」。この一言を書けて、私は満足でした。半年前、「白々しい」と食ってかかった娘が、今は、帰りの席を空けて待つと言う。二人の距離が、ここまで来たのだと。
次話、第2章の完結です。渋沢がこれまで築いたもののすべてを胸に、王都へ——そして、第3章「王都・貨幣戦争」への扉が開きます。どうか、見届けてください。
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