惜しみなく
その領主は値踏みする目で村を歩いていた。
隣領のローゼンベルク男爵。歳は五十がらみ。仕立ての良い衣に、武人らしい太い眉。ブルーメンタールの繁栄を聞きつけ、供も連れず、自ら足を運んできたのだ。
彼が驚いていたのは、村の景色だった。
物乞いだった者が、荷を検めている。女房が機を織って銭を稼ぐ。子どもまでが、藍の束を数えている。ローゼンベルクの領では、飢えた者は飢えたまま路傍に転がるのが常だった。
「妙な村だ」ローゼンベルクが唸った。「働けぬ者まで働いている。……いったい、何をした」
彼は渋沢に向き直った。
「ブルーメンタール男爵。単刀直入に言おう。あなたの繁栄の秘訣を、教えてほしい」ローゼンベルクは重い革袋を卓に置いた。「金なら払う。銀貨で五百枚。それで足りるか」
渋沢はその革袋を押し返した。
「金は、要りません」
「……なに」ローゼンベルクの眉が動いた。「聞き間違いか。五百枚では、不足か」
「不足ではありません。要らないのです」渋沢は微笑んだ。「秘訣なら、いくらでもお教えします。ただで。合本も、銀行も、隠すつもりはありません。お知りになりたいなら、洗いざらいお見せしましょう」
ローゼンベルクがぽかんとした。それから、疑わしげに眉を寄せる。
「……罠か。秘訣をただで教える者など、いるものか」彼は声を低めた。「教えれば、あなたの領の独り勝ちが崩れるだろう。私の領が富めば、あなたの藍は、私の領でも作られる。あなたの儲けが、減る。……なぜ、それをみすみす」
「独り勝ち」渋沢はその言葉を静かに繰り返した。「男爵。私は、独り勝ちを望んでいません」
*
渋沢は窓の外へ目をやった。夏の藍畑が、青い波を風に揺らしている。
「一つ、伺います」渋沢は言った。「あなたの領の民は、いま、飢えていますか」
ローゼンベルクは口をつぐんだ。それが、答えだった。
「飢えた民は、いずれ隣の富を奪いに来ます」渋沢は続けた。「私の領だけが富んで、周りが貧しいまま。それは、砂上の楼閣です。妬まれ、狙われ、いつか崩れる。豊かさは、一領で抱え込むほど脆くなる」
「では、どうしろと」
「皆で、富むのです」渋沢はローゼンベルクをまっすぐ見た。「あなたの領も、その隣も、藍を植え、合本を興し、銀行を作る。金が、領の境を越えて回りはじめる。人が行き来し、荷が行き来する。そうなれば、この一帯が、まるごと豊かになる。……奪い合う理由が、消えるのです」
「秘訣は、隠せば一領のもの」渋沢は言った。「分ければ、一国のものになります。……私は、後のほうが、いい」
ローゼンベルクは長いこと渋沢を見ていた。武骨な顔に、いくつもの表情が通り過ぎていく。疑い。戸惑い。そして——。
やがて、彼は深く息を吐いた。
「……あなたは、変わった男だ」ローゼンベルクは初めて笑った。「私は五十年、生きてきた。だが、こんな話は、聞いたことがない。その変わった話に、乗ってみたくなった」
彼は革袋を懐に戻した。そして、頭を下げた。
「教えてくれ。……いや、教えて、ください」
*
その日から、ローゼンベルクはブルーメンタールに幾度も通った。
合本の仕組みを、銀行の帳簿を、渋沢は惜しみなく教えた。ニケが藍の育て方を、ボルグが複式の帳面の付け方を、それぞれ手ほどきした。
「妙な話だよ」ニケが、帰っていくローゼンベルクの背を見ながら言った。「よその領を豊かにして、あんたに何の得があるんだい」
「得なら、あります」渋沢は微笑んだ。「隣が豊かになれば、うちの藍も隣で売れる。人が行き来し、金が大きく回りはじめる。……一つの村より、六つの村。六つの村より、六つの領。回る輪が大きいほど、皆が潤うのです」
「……ふうん」ニケは腑に落ちない顔をした。それから、ふっと笑う。「まあ、あんたの妙な理屈は、いつも当たるからね」
やがて、ローゼンベルクの領にも藍畑が広がった。合本の会社が生まれ、小さな銀行ができた。飢えていた者に仕事が配られた。眠っていた富が、また一つ目を覚ました。
噂は、さらに遠くへ広がっていく。三つ目の領。四つ目の領。「ブルーメンタール式」は、一つの領を越えて経済圏を形づくりはじめていた。
*
だが、富が領を越えて回りはじめたとき、それを苦々しく見ている者たちがいた。
王都の、両替商連合。
一領の繁栄なら、ヴェーバー一人を切って済ませられた。だが、経済圏がいくつもの領に広がれば、それは、彼らの握る王都の金融そのものを脅かしはじめる。眠っていた金が起きて、連合を通さずに回りだす。それは連合にとって、貨幣の支配そのものが揺らぐことを意味した。
(連合は、いずれ動く。ヴェーバーのような末端ではない。……連合そのものが)
渋沢はその気配を肌で感じていた。
*
夕暮れ、渋沢は物見台に立っていた。
眼下では、荷馬車が隣領へと藍を運んでいく。かつてこの領だけで回っていた金が、今は領の境を越えて流れはじめていた。
(金は、天下の回り物。……ようやく、天下が回りはじめました)
二度目の生で渋沢が挑むのは、もはや一つの村でも、一つの領でもない。国そのものの、金の流れだった。眠らせず、回す。奪わず、分ける。その一点を、この国の隅々にまで根づかせること。
だが、その流れが大きくなるほど、渋沢は貨幣を握る者たちの本丸へ近づいていく。
王都。両替商連合。そして、その奥の、王家。
(次は——こちらから、乗り込む番かもしれません)
物見台の下を、荷馬車の車輪が軋みながら領の境へと向かっていった。眠っていた金が、いま国の背骨を流れはじめていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
今回は、渋沢の「独占しない」という思想を、いちばん分かりやすい形で書きました。ふつう、儲かる秘訣は隠します。真似されたら、自分の取り分が減るからです。でも渋沢は、逆でした。隣の領主に「洗いざらいお見せする」「ただで教える」と言う。
なぜか。彼にとって経済とは、パイの奪い合いではなく、パイそのものを大きくすることだったからです。一つの村が豊かになるより、周り全部が豊かになるほうが、めぐりめぐって、みんなが潤う。「秘訣は、隠せば一領のもの。分ければ、一国のものになります」——この台詞は、第6話でガルムに言った「奪い合えば足りない、分け合えば余る」の、ずっと大きなスケール版です。
実際の渋沢栄一も、そういう人でした。彼が関わった五百の会社は、そのどれも彼の独占物ではなく、競争相手にも惜しみなく知恵を貸しました。「日本全体が豊かにならなければ、意味がない」——それが、生涯変わらぬ姿勢でした。
さて、富が一つの領を越えて、いくつもの領に広がりはじめました。それは同時に、王都の金融を握る両替商連合の、根っこを揺らしはじめています。ヴェーバーは、末端の一人にすぎませんでした。次章、渋沢はいよいよ、その本丸——王都へ乗り込みます。第2章も、次でひとまずの区切りです。どうぞお楽しみに。
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