見限られた男
取り付け騒ぎの翌日から、館の前の列がまた伸びはじめた。
もっとも今度は、引き出す列ではない。預けに来た列だった。
金がないと晒しても、潰れなかった銀行。蔵を開け、帳面を掲げ、一枚残らず見せた領主。その正直さが、人の口から口へ渡っていく。
「あの領主は、嘘をつかねえ」
「金の行き先を、洗いざらい見せたそうだ。あんな金貸しは、聞いたことがねえ」
噂は村を越えた。他領からも、金を預けに来る者が現れはじめた。ヴェーバーが潰そうとした信用は、かえって天下に広まっていた。
(皮肉なものだ。あの男は、私を潰そうとして、私の名を王都まで運んでくれた)
渋沢はその皮肉を胸のうちで味わった。
*
それでも、ヴェーバーは諦めていなかった。
数日後、村にまた影が差した。ヴェーバーの手の者が村を回っている。今度は噂ではない。金だった。
預金者を一人ずつ買収して回っていたのだ。銀貨十枚を握らせ、銀行から金を引き出させ、もう一度「銀行が危ない」と騒がせる。取り付けを、人の手で作り出そうとしていた。
けれど村人は、その十枚を受け取らなかった。
あのヨーナスは、買収に来た男を門前で追い返した。
「俺の銀貨は、俺の畑で働いてる」ヨーナスは言った。「あんたの十枚は、ただの十枚だ。だが俺の預けた金は、増えて返ってくる。……どっちが得か、俺にだってわかる。帰んな」
老婆も、皺だらけの手でその金を押し返した。
「領主さまは、あたしらに蔵を開けて見せてくれた。中が空っぽなのも、隠さずにさ」老婆は言った。「あんたは、何を見せてくれるんだい。……何も見せられないだろう。誰を信じるかなんて、決まってるよ」
ヴェーバーの毒は、もう村に効かなかった。一度透明にした信用は、金でも噂でも崩れなくなっていた。
(信用は、隠せば脆い。だが、晒せば、これほど固くなる)
*
そして、王都からガルムがやってきた。
豪快な足取りで館へ入り、渋沢の前にどかりと腰を下ろす。
「聞いたか、小僧」肥えた腹を揺すって笑う。「ヴェーバーが、両替商連合から外されたぞ」
「外された」
「そうだ」ガルムは杯を傾けた。「連合はな、負けた駒を、いちばん早く捨てる。辺境の男爵ひとりに、連合の名を使って仕掛けて、しくじった。おまけに、正直者の噂が王都まで届いた。連合は、面目を潰されるのを何より嫌う。……ヴェーバーは、後ろ盾を失ったのよ」
「あなたが、動かれたのですか」
「私は、事実を王都に流しただけだ」ガルムがにやりとする。「あの男が、どんな無様な負け方をしたかをな。あとは、連合が勝手に切った」
ガルムは杯を置いた。
「あの手の男はな。勝てば大きな顔をするが、負ければ、いちばん早く身内に見捨てられる。信念がないからだ。……守るものを持たん者は、いざという時、誰にも守ってはもらえん」
渋沢はその言葉を胸に刻んだ。
*
その夜、館の門に一人の男が立っていた。
ヴェーバーだった。だが、香水の匂いはしなかった。仕立ての良かった衣は皺だらけ。指の指輪は、いくつか消えていた。金に換えたのだろう。
「男爵……」その声は掠れ、いつもの慇懃さすら取り繕えなくなっていた。「私めを、拾ってはいただけませんでしょうか。金融のことなら、誰よりも詳しゅうございます」
渋沢はその男をしばらく見た。
かつて村人を「返せぬ屑」と呼び、娘が売られようが借りた者の勝手だと嗤った男。その男が今、自分が拾われることを乞うている。
(哀れとは、思わぬ。この人は、人を数としてしか見てこなかった。その報いを、受けているだけだ)
「ヴェーバー殿」渋沢は言った。「あなたの金融の腕は、確かでしょう。ですが、あなたは、人を信じない」
「それが、金融でございます。信じた者から、潰れていく」
「いいえ」渋沢は首を振った。「信じ合うから、金は回る。奪い合えば、足りなくなる。それを、この村の者たちが証してくれました。……人を信じない人に、信用を扱う仕事は、務まりません」
「なん、だと……」
「お引き取りを」渋沢は頭を下げた。「この村では、あなたのやり方は、もう通じません」
ヴェーバーは、何か言いかけて口をつぐんだ。それから、よろめくように背を向けた。香水も宝石も後ろ盾も失った、ただの白い手の男が、闇の中へ消えていった。
渋沢はその背を追わなかった。潰しもせず、拾いもしない。ただ見送った。それが、この男への渋沢の答えだった。
*
ヴェーバーが去っても、勝った気はなかった。
(あの男は、一人にすぎない。本当の壁は、その背後にある)
両替商連合。王都の金融をことごとく握る組織。負けた仲間を平然と切り捨てる、その冷たさこそが連合の本当の顔だった。その背後に、王家がある。国王すら、彼らに借りがあるという。
渋沢は窓の外を見た。館の前の預金の列が、月明かりの下に続いている。眠っていた金が起きて、村を回りはじめていた。一枚の銅貨が、畑になり、賃金になり、また誰かの手へと渡っていく。
その金が村を出て、王都の海へ流れ込むとき——渋沢はいよいよ、貨幣そのものを握る者たちと向き合うことになる。
帳場では、ボルグが算盤を弾いていた。パチ、パチ、と。あの取り付けの朝に止まった指は、もう止まらない。その音が、夜更けの館に絶えず響いていた。
(さあ——次は、王都です)
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
前話で逃げたヴェーバーに、今回、落とし前をつけました。ただ、渋沢自身の手で叩き潰す、という形にはしませんでした。渋沢は、そういう人ではないからです。
彼のような信念のない男の、本当の罰は「身内に見捨てられること」だと思うのです。勝っているあいだは、連合の力を笠に着て威張れる。でも一度負ければ、その連合が、いちばん早く彼を切る。守るもの——信じるもの、大切にするものを持たない者は、いざという時、誰にも守ってもらえない。ガルムに「信念がないからだ」と言わせたのは、書いているうちに、それがヴェーバーへの、いちばん重い言葉だと気づいたからでした。
落ちぶれたヴェーバーが「拾ってくれ」と来る場面。ここで渋沢が復讐しないのが、この物語の大事なところです。彼は潰さない。でも、拾いもしない。「人を信じない人に、信用を扱う仕事は務まらない」——ただ、それだけ。呑み込む価値もない相手を、静かに見送る。第6話でガルムを潰さず呑み込んだ渋沢と、ちょうど裏返しの結末です。
さて、ヴェーバーという駒は落ちましたが、その背後の両替商連合、そして王家という、もっと大きな盤は、まだ手つかずです。次章、渋沢はいよいよ王都へ。貨幣そのものを握る者たちとの、本当の戦いが始まります。第2章も、残りわずか。どうぞ最後までお付き合いください。
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