表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
19/21

見限られた男

 取り付け騒ぎの翌日から、館の前の列がまた伸びはじめた。


 もっとも今度は、引き出す列ではない。預けに来た列だった。


 金がないと晒しても、潰れなかった銀行。蔵を開け、帳面を掲げ、一枚残らず見せた領主。その正直さが、人の口から口へ渡っていく。


「あの領主は、嘘をつかねえ」


「金の行き先を、洗いざらい見せたそうだ。あんな金貸しは、聞いたことがねえ」


 噂は村を越えた。他領からも、金を預けに来る者が現れはじめた。ヴェーバーが潰そうとした信用は、かえって天下に広まっていた。


(皮肉なものだ。あの男は、私を潰そうとして、私の名を王都まで運んでくれた)


 渋沢はその皮肉を胸のうちで味わった。


     *


 それでも、ヴェーバーは諦めていなかった。


 数日後、村にまた影が差した。ヴェーバーの手の者が村を回っている。今度は噂ではない。金だった。


 預金者を一人ずつ買収して回っていたのだ。銀貨十枚を握らせ、銀行から金を引き出させ、もう一度「銀行が危ない」と騒がせる。取り付けを、人の手で作り出そうとしていた。


 けれど村人は、その十枚を受け取らなかった。


 あのヨーナスは、買収に来た男を門前で追い返した。


「俺の銀貨は、俺の畑で働いてる」ヨーナスは言った。「あんたの十枚は、ただの十枚だ。だが俺の預けた金は、増えて返ってくる。……どっちが得か、俺にだってわかる。帰んな」


 老婆も、皺だらけの手でその金を押し返した。


「領主さまは、あたしらに蔵を開けて見せてくれた。中が空っぽなのも、隠さずにさ」老婆は言った。「あんたは、何を見せてくれるんだい。……何も見せられないだろう。誰を信じるかなんて、決まってるよ」


 ヴェーバーの毒は、もう村に効かなかった。一度透明にした信用は、金でも噂でも崩れなくなっていた。


(信用は、隠せば脆い。だが、晒せば、これほど固くなる)


     *


 そして、王都からガルムがやってきた。


 豪快な足取りで館へ入り、渋沢の前にどかりと腰を下ろす。


「聞いたか、小僧」肥えた腹を揺すって笑う。「ヴェーバーが、両替商連合から外されたぞ」


「外された」


「そうだ」ガルムは杯を傾けた。「連合はな、負けた駒を、いちばん早く捨てる。辺境の男爵ひとりに、連合の名を使って仕掛けて、しくじった。おまけに、正直者の噂が王都まで届いた。連合は、面目を潰されるのを何より嫌う。……ヴェーバーは、後ろ盾を失ったのよ」


「あなたが、動かれたのですか」


「私は、事実を王都に流しただけだ」ガルムがにやりとする。「あの男が、どんな無様な負け方をしたかをな。あとは、連合が勝手に切った」


 ガルムは杯を置いた。


「あの手の男はな。勝てば大きな顔をするが、負ければ、いちばん早く身内に見捨てられる。信念がないからだ。……守るものを持たん者は、いざという時、誰にも守ってはもらえん」


 渋沢はその言葉を胸に刻んだ。


     *


 その夜、館の門に一人の男が立っていた。


 ヴェーバーだった。だが、香水の匂いはしなかった。仕立ての良かった衣は皺だらけ。指の指輪は、いくつか消えていた。金に換えたのだろう。


「男爵……」その声は掠れ、いつもの慇懃さすら取り繕えなくなっていた。「私めを、拾ってはいただけませんでしょうか。金融のことなら、誰よりも詳しゅうございます」


 渋沢はその男をしばらく見た。


 かつて村人を「返せぬ屑」と呼び、娘が売られようが借りた者の勝手だと嗤った男。その男が今、自分が拾われることを乞うている。


(哀れとは、思わぬ。この人は、人を数としてしか見てこなかった。その報いを、受けているだけだ)


「ヴェーバー殿」渋沢は言った。「あなたの金融の腕は、確かでしょう。ですが、あなたは、人を信じない」


「それが、金融でございます。信じた者から、潰れていく」


「いいえ」渋沢は首を振った。「信じ合うから、金は回る。奪い合えば、足りなくなる。それを、この村の者たちが証してくれました。……人を信じない人に、信用を扱う仕事は、務まりません」


「なん、だと……」


「お引き取りを」渋沢は頭を下げた。「この村では、あなたのやり方は、もう通じません」


 ヴェーバーは、何か言いかけて口をつぐんだ。それから、よろめくように背を向けた。香水も宝石も後ろ盾も失った、ただの白い手の男が、闇の中へ消えていった。


 渋沢はその背を追わなかった。潰しもせず、拾いもしない。ただ見送った。それが、この男への渋沢の答えだった。


     *


 ヴェーバーが去っても、勝った気はなかった。


(あの男は、一人にすぎない。本当の壁は、その背後にある)


 両替商連合。王都の金融をことごとく握る組織。負けた仲間を平然と切り捨てる、その冷たさこそが連合の本当の顔だった。その背後に、王家がある。国王すら、彼らに借りがあるという。


 渋沢は窓の外を見た。館の前の預金の列が、月明かりの下に続いている。眠っていた金が起きて、村を回りはじめていた。一枚の銅貨が、畑になり、賃金になり、また誰かの手へと渡っていく。


 その金が村を出て、王都の海へ流れ込むとき——渋沢はいよいよ、貨幣そのものを握る者たちと向き合うことになる。


 帳場では、ボルグが算盤を弾いていた。パチ、パチ、と。あの取り付けの朝に止まった指は、もう止まらない。その音が、夜更けの館に絶えず響いていた。


(さあ——次は、王都です)



最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


前話で逃げたヴェーバーに、今回、落とし前をつけました。ただ、渋沢自身の手で叩き潰す、という形にはしませんでした。渋沢は、そういう人ではないからです。


彼のような信念のない男の、本当の罰は「身内に見捨てられること」だと思うのです。勝っているあいだは、連合の力を笠に着て威張れる。でも一度負ければ、その連合が、いちばん早く彼を切る。守るもの——信じるもの、大切にするものを持たない者は、いざという時、誰にも守ってもらえない。ガルムに「信念がないからだ」と言わせたのは、書いているうちに、それがヴェーバーへの、いちばん重い言葉だと気づいたからでした。


落ちぶれたヴェーバーが「拾ってくれ」と来る場面。ここで渋沢が復讐しないのが、この物語の大事なところです。彼は潰さない。でも、拾いもしない。「人を信じない人に、信用を扱う仕事は務まらない」——ただ、それだけ。呑み込む価値もない相手を、静かに見送る。第6話でガルムを潰さず呑み込んだ渋沢と、ちょうど裏返しの結末です。


さて、ヴェーバーという駒は落ちましたが、その背後の両替商連合、そして王家という、もっと大きな盤は、まだ手つかずです。次章、渋沢はいよいよ王都へ。貨幣そのものを握る者たちとの、本当の戦いが始まります。第2章も、残りわずか。どうぞ最後までお付き合いください。


☆評価・ブックマーク・感想をいただけると、次話の大きな励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ