一枚残らず、お見せする
朝から、館の門が怒号に揺れていた。
「金を返せ!」「俺の預けた金を、今すぐだ!」
門の前に、村人が押し寄せていた。昨日までの、穏やかに金を預けに来た列ではない。血相を変え、我先にと蔵へ押し入ろうとする群衆だった。
ヴェーバーの毒が一晩で村じゅうに回っていた。
*
渋沢は蔵の前に立った。
会計のボルグが、額に汗を浮かべて金を数えては渡していた。一人、また一人。銀貨を握った村人が、ほっとした顔で去っていく。だが、列は減らない。
「殿」ボルグの声が掠れた。「まずい。手元の三分が、もう半分を切った。……この調子じゃ、あと半刻もたねえ」
渋沢は答えなかった。答えようが、なかった。
ヴェーバーの言葉が耳の奥で蘇る。皆が一斉に引き出しに来たら、あなたの手元に、払う金はない。——その通りになっていた。
「見ろ! やっぱり、金がねえんだ!」列の後ろで、誰かが叫んだ。「領主は俺たちの金を、使い込んだんだ!」
群衆がどよめいた。押し合いが激しくなる。私兵のボルツが剣の柄に手をかけたが、渋沢は目で止めた。
(剣では、止まらない。これは暴徒ではない。ただ、怯えている人々だ)
その群衆の中に、渋沢は見知った顔を見た。
あの老婆だった。半年前、いちばんに銅貨を差し出した人。今は皺だらけの手で、不安げに胸を押さえている。その隣にはヨーナス。初めての配当に、涙を流した男。二人とも揺れていた。
(——この人たちの信用を、私は失おうとしている)
渋沢の掌の内側が、じわりと湿った。半年かけて一枚ずつ積み上げた信用が、たった一晩の噂で崩れていく。築くのに半年。崩れるのは、一日。……いや、半刻だった。
(金は、もうない。ないものは、出せぬ。……隠すか。もう金はないと、認めぬか)
(——いや)
渋沢は目を閉じ、そして開けた。
*
「——蔵を、開けます」
渋沢の声は、怒号の中でも届いた。彼は蔵の扉を大きく開け放った。
群衆が、一瞬静まった。蔵の中が、丸見えになっている。銀貨の山は、もうわずかしかない。空に近い蔵だった。
「見てのとおりです」渋沢は言った。「蔵の金は、もうほとんどありません」
どよめきが走った。それ見たことか、という声。
「ですが」渋沢は帳面を頭上高く掲げた。「金は、消えていません。ここに、すべて書いてある。——あなたの預けた金が、いまどこにあるか」
彼は帳面を開いて読み上げた。
「ヨーナス。あなたの銀貨は、畑を広げる鋤と、種になりました。……足の悪いクルトが荷を検める、その日当になりました。……隣の村の寡婦の、賄いになりました」
渋沢は群衆を見渡した。
「あなたの金は、蔵にはない。ですが、消えてもいない。——この村のあちこちで、働いています。人を、生かしています」
彼は帳面を、群衆の前へ差し出した。
「信用とは、隠さないことです」その声が通った。「私は一枚残らず、お見せする。誤魔化しは、しない。……疑うなら、この帳面を隅から隅まで検めてください」
群衆が静まりかえった。怒号は、消えていた。
誰も、帳面を奪い取ろうとはしなかった。ただ、開かれた蔵と、掲げられた帳面を、見つめていた。
*
その静寂を破る者がいた。
群衆の後ろから、一人の大男が進み出た。肥えた体に、豪奢な衣。——ガルムだった。王都から、駆けつけていたのだ。
ガルムは群衆をかき分け、まっすぐ蔵の前へ歩いた。そして懐から重い革袋を取り出した。
「私は、オーレンダール商会のガルムだ」よく通る声だった。「この銀行に、銀貨五千枚を預けている。……今日は、もう千枚を預けに来た」
群衆が息を呑んだ。王都一の大商人が、この銀行に、金を、預ける。逃げるのではなく、増やしに来た。
ガルムは渋沢を見て、にやりと笑った。
「奪い合えば、足りん。だが信じ合えば、足りる」革袋を、ボルグの前にどんと置く。「この小僧に……いや、男爵にか。それを教わった。呼び方は、いまだに慣れんが。私は、引き出さん。——さあ、お前たちはどうする」
群衆が顔を見合わせた。
最初に動いたのは、あの老婆だった。皺だらけの手を、胸から離す。握りしめていた引き出しの札を、そっと懐に戻した。
「……あたしは」老婆は掠れた声で言った。「引き出さないよ。あたしの銅貨は、村で働いてるんだろ。……なら、いいさ。取り上げたら、可哀想だ」
その隣でヨーナスが頷いた。
「俺もだ。俺の金は、俺の畑になった。引き出したら、畑が消えちまう」
ひとり、またひとりと、引き出しの列から人が抜けていった。押し合いは収まっていた。怯えは消えていた。
半刻前、蔵へ押し入ろうとした群衆が、今は静かに散りはじめていた。
*
その群衆のいちばん後ろに、香水の匂いの男が立っていた。
ヴェーバーだった。工作の成果を見届けに来ていたのだ。だが、その顔は青ざめていた。
「ヴェーバー殿」渋沢は静かに言った。「わざわざ、見物ですか」
ガルムがその男をじろりと見た。
「ヴェーバー。村に妙な噂を流したのは、お前の手の者だな」ガルムの声が低くなった。「王都でも有名だぞ。お前が潰したい相手に、いつも同じ手を使うことは」
「な……」ヴェーバーの扇が震えた。「証拠が、あるのか。言いがかりを——」
「証拠」ガルムが鼻で笑った。「お前の、その顔が証拠だ。勝ったと思って見物に来て、その様か」
群衆の視線が、一斉にヴェーバーに集まった。敵意のこもった目だった。ヴェーバーは一歩後ずさった。それから何も言わず、香水の匂いを残して、逃げるように去っていった。
(信念のない者だ。……勝てば胸を張り、負ければ逃げる。それだけの男)
*
群衆が去ったあと、蔵の扉は開いたままだった。
渋沢は、そのがらんとした蔵を見た。銀貨は、ほとんど残っていない。だが渋沢の胸には、来た時よりも確かなものがあった。
(信用は、崩れかけた。だが、隠さずに晒したことで、より固くなった。……奪い合えば足りず、信じ合えば足りる。あの言葉を、群衆が、証してくれた)
ボルグが算盤を弾きはじめた。昨日止まっていた指が、また軽やかに動いている。パチ、パチ、と。館の前には、いつのまにか、また金を預けに来た村人の列ができはじめていた。
嵐は、過ぎた。
だが渋沢は知っていた。ヴェーバーは、退いただけだ。その背後の、両替商連合という、もっと大きな壁は、まだ王都にそびえている。
開いた蔵の扉が、朝の風にかたりと鳴った。渋沢は、それを閉めなかった。
(もう、隠すものは、何もありません。——これが、私の銀行です)
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
第2章、いちばんの山場です。取り付け騒ぎ。銀行が、いちばん恐れる瞬間です。
この回で、どうしても書きたかったことが、二つありました。一つは、渋沢に「本当に負けさせる」こと。これまで彼は、劣勢に立っても、最後は知恵で切り抜けてきました。でも今回だけは、蔵の金が本当に尽きて、半刻ももたない、というところまで追い詰めました。彼が万能でないこと、いちばん大きな敵の前で、一度は本当に膝が折れかけること。それを描かないと、逆転が嘘になると思ったのです。
もう一つは、その逆転を「隠さないこと」で果たすこと。ふつう、金がないと知られたら、銀行は終わりです。だから、みんな隠す。でも渋沢は、逆をやった。蔵を開け、帳面を掲げ、「金は蔵にはないが、あなたの畑になり、隣人の仕事になっている」と、すべてを見せた。信用とは、隠さないこと。——これは、渋沢栄一が本当に大切にした考え方でした。
そして、ガルムです。第6話で渋沢が言った「奪い合えば足りない、分け合えば余る」。あの言葉を、今度はガルムが、群衆の前で言う。かつての宿敵が、渋沢の信用の、いちばんの証人になる。ここを書けたのが、いちばん嬉しかったところです。
ヴェーバーは、逃げました。彼のような男は、いつもそうです。勝てば威張り、負ければ消える。彼への本当の落とし前は、次の話で。——両替商連合との戦いは、まだ、始まったばかりです。どうぞお楽しみに。
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