悪徳領主、藍の買取所をつくる
行商人を一人、追い払った。
藍を二束三文で買い叩いていた男を、渋沢は算盤ひとつで黙らせた。村の藍を正当な値で買い取ると、村人は久しぶりに腹いっぱい食べたという。
めでたし、めでたし。——とは、渋沢は思わなかった。
館への帰り道、馬上でずっと考え込んでいた。
(一人を追い払って、それでどうなる。来年また別の行商人が来るだけだ。私が毎度、駆けつけるわけにもいかない)
隣を行くゼーバルトが、機嫌よく言った。
「いいお働きでした、ヴァルド様。村の者もたいそう喜んで」
「ゼーバルト。喜ぶのはまだ早い。私は今日、しくじったのです」
「しくじった。あれだけ村を救って、ですか」
「救ったのは一村だけ。しかも私がいなければ、すぐ元通りだ」渋沢は前を見たまま言った。「これは解決ではありません。ただのその場しのぎです」
痩せた畑が街道の両側を流れていく。どの村にも、買い叩かれて萎れた同じ暮らしがある。藍は穫れる。なのに子は痩せ、老人は薬も買えずに咳き込んでいる。一つ救って振り返れば、九十九が残っている。
「人を相手にしていてはきりがない。仕組みを変えるのです」
「仕組み……」
「館に戻ったら図面を引きます。この領に、藍の買取所を作る」
*
「藍の、買取所」
執務室で、ゼーバルトが鸚鵡返しに呟いた。
「ええ」渋沢は羊皮紙にざっと図を描いた。「領が公正な固定の値で、領内すべての藍を買い取る。生のままではなく、領が加工して藍玉にし、王都へ売る。村はもう、行商人に頭を下げなくていい。いつでも領が、決まった値で買う。買い叩く余地が、構造ごと消えるのです」
「しかし、領がすべて買い取る。そんな金がどこに」
「蔵の金を使います」
「あの八千枚を」ゼーバルトの声が裏返った。
「死蔵していた金が、初めて働くのです」渋沢は微笑んだ。「村が藍を育てる。領が買い取り、加工して王都へ売る。王都では何倍もの値がつく。その儲けで、また次の藍を買う。金がぐるぐると回り始める。一度回り出せば、蔵の金は減るどころか増えていきます」
「それに、この買取所が利益を生めば、もう領民から重い税を搾り取る必要もない。領は、商いで自らを養えるようになる」渋沢の声が少し熱を帯びた。「民から奪う領主ではなく、民とともに稼ぐ領主に。それが私の目指すところです」
「待たれよ」
部屋に、私兵隊長のボルツが入ってきた。腕を組み、渋い顔をしている。
「領主が商人の真似事をすると。聞いたことがない。失敗すれば蔵は空。兵の給金も出せなくなる」
「ボルツ隊長。あなたはいつも、いい問いをくれる」渋沢は頷いた。「では数字で答えましょう。村は今、藍を銀貨三枚で売っている。その同じ藍が、加工して王都に出せば金貨二枚。銀貨にして四十枚です。差は三十七枚。この三十七枚を、これまで行商人が丸ごと懐に入れていた」
「三十七枚」ボルツの眉が動いた。
「その差を、領と村で分けるのです。村にはこれまでの何倍もの値を。領には加工と運搬の利益を。双方が潤い、消えるのは行商人の取り分だけ。損をするのは、買い叩いていた者だけですよ」
ボルツが黙った。無精髭の奥で、何かを計算しているようだった。
「……兵の給金は」
「その利益から、必ず。半年と言いましたな。三月で見せます」
「ふん」ボルツは鼻を鳴らした。だが今度は、反論しなかった。「お手並み、拝見する」
*
数日で、館の前庭に、急ごしらえの買取所が建った。
ゼーバルトが領中に触れを出した。藍を持参した者には領が銀貨二十枚で買い取る、行商人に売るよりはるかに高く、と。
はじめの三日、誰も来なかった。
「また来ませんな」ゼーバルトが肩を落とした。
「来ますよ、今度は」渋沢は落ち着いていた。「先日の村が、もう知っている。領主は約束を守る、と。噂は金より速く回ります」
四日目の朝、一台の荷車が買取所の前に止まった。先日の村の老女だった。藍の束を、おそるおそる差し出す。
渋沢はその場で秤にかけ、約束どおり銀貨二十枚を数えて渡した。一枚も欠けることなく。
老女は銀貨を握りしめ、震える声で言った。
「本当に、二十枚だ。あの行商人の、七倍だよ」
その日の夕方には、荷車が三台に増えていた。翌日には、十台。
噂は、本当に金より速かった。藍を抱えた村人たちが、隣の村から、そのまた隣から、買取所に列を作り始めた。誰もが握った銀貨を、信じられないという顔で見つめている。
遠い村から、二日かけて藍を担いできた男もいた。買取所で銀貨を受け取ると、その場に膝をつき、声を上げて泣いた。これで娘を奉公に出さずに済む、と。
藍は、何も変わっていない。同じ畑の、同じ草だ。変わったのは、それを売る相手と値の決め方だけ。たったそれだけで、人がこれほど救われる。
例の行商人が様子を見に来たのは、その頃だった。いつものように村を回って藍を買い叩こうとし、どこへ行っても「領の買取所に売るからいらない」と断られ、真っ青になって帰っていったという。
(買い叩きは、もう成り立たない)渋沢は列を眺めて思った。(人を一人追い払うのではなく、買い叩くこと自体を割に合わなくした。これが、仕組みというものです)
*
ひと月も経つと、領の景色が変わり始めた。
藍を売った銀貨が、村々を巡る。錆びた鍬が打ち直され、潰れていた市が、あちこちで立ち始めた。買取所の裏では村人たちが藍玉を加工し、その手間賃でまた暮らしが回る。止まっていた血が、領じゅうに流れ出していた。
かつて鞭の音に怯えて閉ざされていた村々の戸が、今は開いている。子供らが買取所の周りを駆け回り、母親が藍玉を練る手を止めて、その姿を目で追う。どの煙突からも、煮炊きの煙が立ち昇るようになった。
ある日、買取所にニケが現れた。藍の束ではなく、手ぶらで。
「あんたに、言いに来た」
藍に染まった手で、彼女は渋沢の前に立った。睨むような目は、もうずいぶん和らいでいる。
「うちの村だけじゃなかった。領じゅうの村が、今、息を吹き返してる。あんた一人が、駆けつけたわけでもないのに」
「ええ。私一人では、村は救えません。けれど仕組みは、私がいなくても働き続ける」渋沢は、列を作る村人たちを見やった。「百人の渋沢より、一つの良い仕組みです」
ニケはしばらく、その列を見つめていた。それから、ぽつりと言った。
「……まだ、信じたわけじゃない。でも」
「でも」
「あんたの作るもの、もう少し見ててやる。……うちの父さんも、今朝、買取所に並んでた。あんたに鞭打たれかけた、あの父さんが」
「では、いい藍を持ってきてくれと、お伝えください」
「ふん」
そう言って、彼女は背を向けた。けれど去り際、ほんの少しだけ口の端が上がっているのが見えた。
(信用というのは、こうして一枚ずつ稼ぐものですな)
*
その夜。
王都へ向かう藍玉の荷を見送る渋沢のもとに、ゼーバルトが一通の書状を持ってきた。封蝋には、天秤を握る手の紋。
「王都の、オーレンダール商会からです」ゼーバルトの声が、わずかに緊張していた。「この領の買取所のことを、聞きつけたようで」
渋沢は書状を開き、ざっと目を通すと、ふっと口の端を上げた。
「ふむ。藍の流れを握っていた『王都のお方』とは、この方々でしたか」
「な、何と書いて」
「『一度、お会いしたい』と。実に丁寧な、脅し状ですな」
渋沢は書状を畳み、王都の方角を見やった。買い叩きの黒幕が、ついに重い腰を上げた。一行商人を追い払うのとは、わけが違う。
(さて。次はこの仕組みごと、潰しに来ますぞ)
その目はなぜか、少年のように輝いていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
第2話は、実は何度も書き直しました。最初は「税を全部返す」、次は「いきなり銀行を構想する」。どちらも書きながら順序が違うと感じて、引き返しました。
行き着いたのが、今回の「買取所」です。一人の悪い行商人を追い払っても、来年また別の行商人が来る。だから渋沢は、人ではなく仕組みを変える。領が公正な値で買い取ると決めた瞬間、買い叩きそのものが割に合わなくなる。これが制度というものの力だと思います。
「百人の渋沢より、一つの良い仕組み」という台詞が、今回いちばん書きたかった一行です。英雄が一人で走り回るのではなく、本人がいなくても回り続ける仕組みを残す。史実の渋沢が五百もの会社を自分のものにせず世に放っていったのも、たぶん同じ発想だったのだろうと思います。
そして最後に届いた、オーレンダール商会の丁寧な脅し状。買い叩きの黒幕は、一行商人ではなく王都の巨大商会でした。次話、渋沢の作った仕組みを巡って、商人と商人の本物の知恵比べが始まります。
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