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渋沢栄一、暴君に転生す

 ああ、いい人生だった。


 九十一年。長いようで、あっという間だった。


 薄れゆく意識の中で、渋沢栄一は、そう思った。


 農家の倅に生まれ、幕末の動乱を駆け抜け、官を辞して商いの道に身を投じた。五百を超える会社を育て、六百もの社会事業に手を貸した。道徳と経済は両立する——その信念ひとつを、生涯かけて、証明し続けた。


 枕元で、誰かが泣いている。子か、孫か。たくさんの手が、自分の手を握っていた。


(泣くことはない。やるべきことは、すべてやった。思い残すことなど、何ひとつ……)


 すうっと、体が軽くなる。


 目の前が、暖かい光に包まれた。


 まぶしくはない。ただ、どこまでも優しい光だった。手招きされているような気がして、渋沢は、ゆっくりと、そちらへ歩いていった。


 一歩、また一歩。


 光が、満ちる。


 そして——


 すべてが、白く溶けた。


     *


(…………おや)


 ふと、意識が浮かび上がった。


 まず見えたのは、天井だった。


 深紅の天鵞絨に、金糸の刺繍。豪奢な天蓋が、ゆらりと垂れている。


(はて。これは、極楽というやつでしょうか)


 渋沢は、ぼんやりと考えた。


(にしては、ずいぶんと趣味が派手ですな。私はもう少し、質素な方が好みなのですが)


 体を、起こそうとする。


 ——すっ、と、軽々に起きた。


(……ん?)


 妙だった。九十一の老体は、もう長らく、自分の意思では起き上がれなかったはずだ。それが、まるで羽根のように。


 自分の手を、見た。


(若い)


 しみひとつない、滑らかな、若者の手だった。骨ばってはいるが、確かに、二十歳そこそこの手だ。


(……これは)


 寝台から下りる。足が、しっかりと床を踏んだ。


 部屋の隅に、大きな姿見があった。渋沢は——いや、渋沢だった誰かは、ふらりと、その前に立った。


 鏡の中に、見知らぬ青年がいた。


 冷たく整った、酷薄そうな美形。藍色の髪。鋭い眼。そして、眉間に深々と刻まれた、癇癪持ちの皺。


 ——どこからどう見ても、悪人面である。


「…………」


 渋沢は、しばらく、無言で鏡を見つめた。


 頬に手を当てる。鏡の中の青年も、頬に手を当てた。口を開ける。青年も、開ける。


(……どうやら、これは、私の顔のようですな)


(うわあ)


 思わず、心の中で声が出た。


(とんでもない悪相だ。前世の私の方が、よほど人相が良かった)


 窓辺に、寄ってみる。


 分厚いカーテンを、そっとめくった。


 ——そこに広がっていたのは、見たこともない光景だった。


 石造りの城壁。槍を持って巡回する、甲冑姿の兵たち。空には、見慣れぬ二つの月の名残。遠くの空を、鳥にしては大きすぎる、翼の生えた何かが、ゆうゆうと横切っていく。


(…………)


(これは)


 渋沢の中で、ようやく、ひとつの考えが、輪郭を結び始めた。


(私は、死んだ。それは、間違いない。光の中を、確かに歩いていった。——けれど、目を覚ましたら、知らぬ若者の体で、知らぬ城にいる。空には月が二つ。竜のごとき獣が飛んでいる)


 ごくり、と喉が鳴った。


(まさか……いや、しかし、そうとしか……)


 長く商いをやってきた男は、目の前の事実を、決して都合よく曲げない。どんなに信じがたくとも、帳尻が合うなら、それを受け入れる。


(私は、見知らぬ世界の、見知らぬ若者に——生まれ変わった、ということですか)


 その時だった。


 こんこん、と扉が叩かれた。


「ヴァルド様。お目覚めでございますか」


(ヴァルド?)


 返事をする前に、扉が開いた。


 入ってきたのは、やせ細った、目つきの鋭い老執事だった。渋沢の顔——いや、ヴァルドの顔を見て、恭しく頭を下げる。


「お加減は、いかがですか。昨夜は、ずいぶんと深酒をなさっておられましたが」


(ヴァルド、というのが、この体の名前のようですな)


 渋沢は、慎重に、口を開いた。


「……ああ。少し、頭が、ぼんやりとしていてな。執事よ。確認のために聞くが——私は、何者だ」


 老執事は、わずかに眉を上げたが、すぐに、淡々と答えた。


「ヴァルド・フォン・ブルーメンタール様。このブルーメンタール男爵領の、ご当主であらせられます。御年、二十一」


「当主」


「左様でございます。——ご気分がすぐれぬのでしたら、医者を」


「いや。よい。……もう少し、聞かせてくれ。私は、その、どのような当主だ」


 老執事は、一瞬、言葉に詰まった。


 それから、視線をわずかに逸らし、実に言いにくそうに、しかし正直に、述べた。


「……近隣三領にその名を轟かせる、稀代の——暴君、と」


「暴君」


「重税、私刑、放蕩。逆らう者は牢へ。納められぬ者は鞭へ。先代様より受け継いだ領を、わずか二年で、見事に絞り尽くしておられます。領民からは『血も涙もない悪鬼』と」


「…………」


 渋沢は、天を仰いだ。


(よりにもよって)


(生まれ変わった先が、領民を泣かせる、悪徳領主とは)


 じわり、と、実感が、込み上げてきた。


 夢ではない。比喩でもない。自分は本当に、別の世界の、それも——よりにもよって最悪の評判の領主の体に、放り込まれてしまったのだ。


 ふと、前世で最期に握ってくれた、たくさんの手の温もりが、よぎった。育てた会社も、交わした約束も、見送ってくれたあの顔も——もう、二度と。


 胸の奥が、きゅう、と縮んだ。


(……まだ、寂しいと思うか。九十一年も生きて、この期に及んで。——存外、私の心は、若いままのようですな)


(……はは)


 普通なら、絶望する場面である。


 だが、九十一年を生き抜いた老人の胸に湧いたのは、不思議と、別の感情だった。


(道徳なき者が、富を独り占めし、人を踏みつけている。——ならば、これほど、やりがいのある荒れ地もありますまい)


「執事」


「は」


「今日の私の、予定は」


「は。本日はこれより、税を納められなかった農夫の——」


 老執事が、淡々と続けた。


「——公開の、鞭打ちにございます。三十回。広間に、もう引き立ててございます」


 渋沢の目つきが、すっと、変わった。


「——案内しろ」


     *


「——領主様ァ! お慈悲を! お慈悲をぉっ!」


 広間に入った渋沢を出迎えたのは、その悲鳴だった。


 縄で後ろ手に縛られた農夫が、床に額をこすりつけて泣いている。その背後で、革鞭を振り上げる、でっぷり肥えた代官。渋沢——ヴァルドの姿を認めると、にやにやと笑った。


「お目覚めですか、ヴァルド様。さあ、いつものように。三十回、可愛がってやりましょうかね」


「……いくら、納められなかったのだ」


「は? ああ、銀貨五枚で」


「五枚」


 渋沢は、こめかみを押さえた。


(たった五枚で、人を縛り、鞭を三十。……正気の沙汰ではない)


「執事。我が家の蔵には、いくらある」


「……金貨にして、八千枚ほどかと」


「八千」


 渋沢は、しばし絶句した。


(八千枚も死蔵しておいて、五枚のために人を打つ。これはもう、なんというか……度し難い)


 久しく忘れていた熱が、腹の底で、ちりりと音を立てた。


(……腹が立つ。九十一年も生きて、まだこんなに腹の立つことが残っていたとは。——結構。その熱があるうちは、まだ働けるということだ)


 すうっと、息を吸う。


 そして、青年の整った悪人面に、にこやかな——だが有無を言わせぬ——笑みを浮かべた。


「縄を解いて、この方を帰しなさい。税は、よろしい。納めずともよい」


「————はぁ!?」


 絶叫したのは、代官だった。


「な、納めずとも、よい!? ヴァルド様、ご乱心ですか! 税を取らねば、我らの——いえ、領の財が——!」


「『我ら』とは、誰のことです」


 渋沢の声が、すっと、低くなった。


 代官が、びくりと肩を震わせる。


「……え?」


「『我らの財』と、今、言いかけましたな。——興味深い。少し、帳簿を見せていただきましょうか。あなたが取り立てを任されてから、今日までの、すべての」


「ちょ……っ、それは、その……」


 代官の額に、玉の汗が浮いた。渋沢は、それをにこにこと眺めた。九十一年商いをやってきた老人の眼が、相手の懐の中身を、すっかり見透かしていた。


(この男、領主の名を借りて、五枚と称して十枚搾り、差額を懐に入れていますな。顔に書いてある)


「執事。帳簿を」


「ただ今」


 老執事が、なぜか妙にいきいきとした足取りで、分厚い帳簿を運んできた。


 渋沢は、ぱらぱらとめくり——三秒で、笑った。


「ああ、これはひどい。税収の記録と、蔵の実数が、まるで合わない。差額、ざっと金貨四百枚。——代官殿。この四百枚は、どこへ消えたのでしょうな?」


「ひっ」


「ご自分の屋敷の改築費でしょうか。それとも、愛人への贈り物? どちらでも構いませんが」


 渋沢は、帳簿を、ぱたんと閉じた。


「横領は、いけません。実に、いけません。あなたを縛って鞭打ちたいくらいですが——私は、そういうのは、好みませんのでね」


 にっこり。


「衛兵。この方を、牢へ。搾り取った分は、耳を揃えて領民に返していただきます。ええ、利息をつけて」


「お、お許しを——! ヴァルド様、これまで散々、甘い汁を分けて差し上げたでしょう!? 女も、酒も——!」


「存じませんなあ、そんな男のことは」


 渋沢は、心の底から、爽やかに言い切った。


(なにしろ私、今朝来たばかりなので)


 縛られていた農夫が、引きずられていく代官を、信じられないという顔で見送っていた。


 そして、おそるおそる、渋沢を見上げ——


「……あ、あの、領主様。これは……これは、何の、罠で?」


「罠?」


「お、俺を泳がせて、もっとひどい目に遭わせる、いつもの……」


 渋沢は、きょとんとし、それから、しょんぼりと肩を落とした。


(ああ……そうか。この体の前の持ち主は、よほど領民に、信じてもらえることをしてこなかったのですな)


「罠では、ありません」


 渋沢は、膝を折り、縄を解かれたばかりの農夫と、目の高さを合わせた。


「税は返します。蔵も開きます。明日からは、誰も縛りません。鞭も、焼き捨てます。——信じてもらえぬのは、当然です。今日まで、ひどいことをしてきたのですから。けれど、これから、少しずつ、証明します。私を信じてくれとは言いません。私の『商い』を、見ていてください」


 その時だった。


「——白々しいッ!」


 広間に、若い娘の声が響いた。


 農夫の娘らしい。気の強そうな目に涙を溜め、まっすぐ渋沢を睨んでいる。


「あんたが今まで何人泣かせたと思ってるの! 父さんを縛っておいて、今さら良い顔して! どうせまた——!」


「ニケ! やめんか、相手は領主様だぞ!」


「いいんですよ」


 渋沢は、娘——ニケを、まっすぐ見返した。怒鳴られて、むしろ、嬉しそうですらあった。


(良い目だ。この娘、芯がある)


「怒って当然です。存分に、お怒りなさい。——その上で、一つだけ。お父上が育てた、あの畑の藍。あれを、私に預けてくれませんか」


「藍……? あんな二束三文の雑草を、どうするのよ」


「雑草ではありません。あれは——宝の山です」


 渋沢の目が、きらり、と光った。


(さあ、ここからが、私の本領ですぞ)


「王都で藍玉に加工すれば、十倍の値がつく。その儲けを、皆で分ける。畑を耕した者、運んだ者、売った者——汗をかいた全員が、潤う。誰も、奪われない。誰も、縛られない」


 ニケが、毒気を抜かれたように、まばたきをした。


「……なに、それ。そんな、うまい話」


「うまい話ではありません。当たり前の話です。今まで、それを誰もやらなかっただけ」


 渋沢は、立ち上がり、開け放たれた窓の外へ目をやった。


 痩せた領地の片隅に、それでも青々と茂る、忘れられた藍の畑が見えた。


「金というのは、ね」


 軽口を引っ込めて、渋沢は、静かに言った。


「天下の、回り物です。蔵に八千枚積み上げて死蔵すれば、ただ腐るだけ。けれど、皆の手から手へ回せば——十が、百になる。剣で奪い、鞭で搾り取った富は、いずれ必ず、奪い返されて終わる。けれど、商いで生んだ富は——生んだ者すべてを、潤すのです」


 しん、とした広間に、その言葉が、染み込んでいった。


 ニケは、何も言えずに、ただ立ち尽くしていた。


「——お労しや」


 ぽつり、と老執事が呟いた。涙ぐんでいる。


「あの暴君ヴァルド様が、こんな……こんなご立派なことを仰るとは。さては昨夜の深酒で頭を打たれ、ご乱心に——」


「正気だ」


「いいえ、これは間違いなくご乱心。喜ばしいご乱心でございます」


「だから正気だと言っているだろう」


 渋沢は、思わず笑ってしまった。青年の悪人面に、ふと、九十一年を生きた老人の、穏やかな皺の気配が浮かぶ。


(さて)


 とんでもない悪党の体に、放り込まれたものだ。借金まみれの信用、怯える領民、横領まみれの帳簿。前途は、多難も多難。


 だが——不思議と、気は重くなかった。むしろ、わくわくしていた。


(焼け野原ですな。けれど、焼け野原ほど、よく育つ。——もう一度、やってみますか)


 光の中を歩いて、たどり着いた、二度目の生。


 悪徳領主の汚名を着た老実業家の物語は——こうして、領民の「何の罠だ」という困惑とともに、静かに幕を開けたのだった。

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