与える手
夏が来て、藍畑が青くなった。かつて雑草と見なされ、誰も見向きもしなかった藍だ。それがいまは、村じゅうの暮らしを支えている。
渋沢は畑の畔に立ち、その青をしばらく眺めた。半年前、この村に色はなかった。あったのは飢えの灰色と、怯えの青だけ。同じ村が、いまは藍の青に染まっている。
畑では、大勢が藍を摘んでいた。その顔ぶれに、渋沢は見覚えがあった。物乞いに落ちていた老人は、いまは日陰で藍葉を選り分けている。施しの椀を握るしかなかった寡婦は、若い娘に藍の寝かせ方を教えている。「そう、もっと優しく。藍は急かすと拗ねるからね」——その声が、明るい。
誰の手も、遊んでいなかった。かつて村から零れ落ちた手が、いまは村を回していた。
*
帳場を覗くと、クルトがいた。
一人ではなかった。傍らに、痩せた若い男が立っている。見慣れぬ顔だ。おどおどと、指で反物を数えていた。
「違う。そこは二反ひと組で数えるんだ」クルトが言った。「慌てるな。数を間違えるより、遅いほうがずっといい」
「合ってるか、わからなくて」若い男が、消え入りそうな声で言った。「間違えたら、怒られるかと」
「怒りゃしない」クルトは笑った。「俺も、初めは何度も数え間違えた。教えてくれる人がいたから、今がある。あんたにも、それを返すだけだ」
若い男は、こくこくと頷いた。指の動きは、まだぎこちない。だが、その手つきを見るクルトの目は根気強かった。
クルトの足は、相変わらず引きずっている。半年前、村の外れで乞食に落ちていた、あの足だ。だが背中は、もう乞食のそれではなかった。人に何かを教える者の、まっすぐな背だった。
渋沢は声をかけず、柱の陰に寄って静かに見ていた。
「……あの」若い男が、ふいに手を止めた。「俺、隣の領から流れてきたんでさ。畑を追われて、食い詰めて。こんな半端者に、仕事なんか務まるんですかね」
その声には聞き覚えのある響きがあった。自分をはなから諦めている者の声だ。
クルトが、手を止めた。
すぐには答えなかった。若い男の痩せた肩をしばらく見ていた。それから、ぽつりと言った。
「あんたの手は、まだ働ける」
柱の陰で、渋沢は息を止めた。
その言葉を渋沢は知っていた。忘れるはずもない。半年前、村の外れで、足を引きずるクルトの前にしゃがんで、渋沢自身が言った言葉だった。
(——伝わっている。私の手を、離れて)
クルトは若い男の手元に自分の手を添えた。ずれた反物を、そっと直してやる。
「俺も、そう言われたんだ」クルトの声は低かった。「この足で、もう終わりだと思ってた時にな。……働く場所があるってのは、明日を数えられるってことだ。今日を生き延びるだけじゃない。明日を、数えられる」
言葉を、切った。
「俺は、それで生き直した。あんたも、そうなる」
若い男の喉の奥が、熱くなった。込み上げるものを堪えるように、唇を結んだ。
その顔を見られまいと、男は下を向き、また反物を数えはじめた。一反。二反。今度はさっきより、ずっと丁寧に。背筋が、少しだけ伸びていた。
*
その夜、渋沢はニケと村を歩いた。
夏の夜気に藍の匂いが溶けている。あちこちの家に灯がともっていた。半年前は、日が落ちれば真っ暗になる村だった。灯を点す油さえ、惜しむ村だった。
「変わったろ、この村」ニケが言った。誇らしげだった。「昔は、食い詰めた奴が出ていく村だった。夜逃げして、二度と戻らない。……今は逆だ。食い詰めた奴が、流れて来る。隣の領からも、その先からも」
「受け入れて、いるのですか」
「あんたが言ったんだろ。働けぬ人などいない、合う仕事が見つかってないだけだって」ニケは肩をすくめた。「だから、あたしらもそうしてる。昔は、もらうことしか知らない村だった。それが今は、人に与えてる。……妙な気分だよ。悪くない、妙な気分さ」
渋沢は頷いた。
(もらう村が、与える村になった。……これが、いちばん見たかった景色だ)
かつて渋沢は五百の会社を興した。六百の事業を育てた。だが会社は、潰れることもある。仕組みは真似られ、時とともに忘れられることもある。形あるものは、いつか崩れる。
言葉だけは、違った。
一度、人の心の底に根づいた言葉は、その人から次の人へ静かに伝わっていく。クルトの「あんたの手は、まだ働ける」が、まだ耳の奥に残っていた。あれはもう、渋沢の言葉ではない。クルトの言葉だ。そして明日には、あの若い男の言葉になる。
前の生の終わりが不意によぎった。九十一年を生き、たくさんの手に見送られ、光の中へ歩いた夜。遺した会社も事業も、いつか誰かが忘れるだろう。だが、人の手に渡した言葉だけは消えない。
それを、今日この村で見た。
「ニケ」渋沢は言った。「私は、いつか死にます」
「……急に、どうしたんだい。縁起でもない」
「ですが今日、安心しました」渋沢は微笑んだ。「私がこの世から消えても、この村はもう回っていく。人が人に、手を渡していくからです。仕組みではなく、心に根づいた。——それが、いちばん強い」
ニケはしばらく黙っていた。それから、ふん、と鼻を鳴らす。
「あんたは時々、遠くを見すぎるよ」
「そうですか」
「そうさ。今は、今を喜びな」ニケは、ぶっきらぼうに笑った。「せっかくの、いい夏なんだから」
渋沢も、笑った。
*
だが、その繁栄は、遠くの目を引きはじめていた。
村が潤う。人が集まる。金が回り、藍が王都へ流れていく。——王都で貨幣を握る者たちが、この辺境の小さな変化に、いつまでも気づかずにいるはずがなかった。
その夜、ゼーバルトが一通の書状を携えてやってきた。
「殿。王都から、これが」ゼーバルトが書状を差し出した。「差出人は、両替商連合にございます」
渋沢は封を切り、目を通した。文面は丁重だった。近ごろ評判の合本商会について、一度話をうかがいたいという、まだそれだけの用件だ。
「……ただの挨拶、のようですが」ゼーバルトが渋沢の顔色をうかがった。
「ええ」渋沢は書状を畳んだ。だが、その丁重な文字の底に冷たいものを嗅ぎ取っていた。
(合本が、大きくなりすぎた。眠る金を起こす、その前に——見えぬ壁が、もう動きはじめている)
嵐は、まだ見えない。だが藍畑の向こう、王都のある方角の空だけが、その夜は、少しだけ暗く見えた。
*
渋沢は、もう一度、藍畑を振り返った。
夜の畑は、青を沈めて黒く広がっている。だが渋沢には見えていた。明日の朝、また風が渡れば、あの青い波が村じゅうを駆けていくことが。
忘れられた雑草が、村を養う藍になった。行き場のなかった手が、人に手を渡す手になった。
それだけのことに、半年かかった。そして、それだけのことが、何より難しかったのだ。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
前話でクルトを救った時から、いつか「救われた人が、今度は誰かを救う」場面を書きたいと思っていました。もらうだけだった人が、与える側に回る。それができて初めて、その村は本当に立ち直ったと言えるのだと思います。だから今回は、一人の劇的な救いではなく、村ぜんたいの景色が変わったことを書きました。
いちばん書きたかったのは、クルトが新入りに「あんたの手は、まだ働ける」と言う場面です。これは、渋沢が前話でクルトに言った、まさにその言葉でした。渋沢の言葉が、渋沢の手を離れて、村人の口から村人へ伝わっていく。会社は潰れ、仕組みは忘れられることがあっても、一度根づいた言葉は消えない。渋沢栄一が生涯「論語」を手放さなかったのも、たぶん同じ理由だったのだと思います。制度より前に、まず人の心に何を残すか。彼はいつも、そこを見ていた気がします。
「私が消えても、この村はもう回っていく」——この台詞が出てきた時、書いている私自身が、少し救われた気持ちになりました。人が人に手を渡していく。それが根づけば、作った本人がいなくなっても続いていく。物語を書くというのも、どこか似たことなのかもしれません。
さて、いい夏の景色の裏で、王都の両替商が動きはじめました。次章から、渋沢はいよいよ「お金そのものを握る者たち」と向き合います。眠る金を起こす銀行の話も、いよいよです。どうぞお楽しみに。
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