眠り金を起こす
その男を、渋沢は買取所の前で見かけた。
藍で潤ったはずの村の者だ。だが顔色が土のようだった。頬はこけ、足元がふらついている。ひと月前まで、あんなに晴れやかに藍を運び込んでいた男が。
「どうしました」渋沢が声をかけると、男はびくりと肩を震わせた。それから力なく笑う。
「……領主さま。お恥ずかしい話でさ。欲を、かきました」
聞けば、こうだった。藍が売れて気が大きくなった。もっと畑を広げれば、もっと稼げる。そう思って王都の金貸しから金を借りた。銀貨で、五十枚。
「返せなく、なったのですか」
「いえ、返してるんでさ。毎月きっちり、女房の帯まで売って」男の声が震えた。「だが、減らねえんです。借りた五十枚が、半年で八十枚に膨れて。返しても返しても、利息が利息を生んで増えていく。……このままじゃ、畑も、家も、娘まで取られちまう」
娘まで、と男は言った。借金のかたに人が売られる。この世界では、それが当たり前だった。
渋沢はしばらく言葉が出なかった。
(合本で潤したその金が、王都の金貸しに吸われている。桶の底に、穴が開いていた)
この世界の金貸しは、人を育てない。人を、食い物にする。眠った村の金は死蔵されて腐り、動いた金は高利貸しに毟られる。どちらにしても、金はまっとうに回っていなかった。
(穴を塞ぐだけでは足りぬ。金の流れそのものを、こちらで作るのだ)
*
その夜、渋沢はボルグを呼んだ。
「代官殿。この領に、金を貸す場所を作ります」
「金を、貸す」ボルグが算盤から顔を上げた。「……高利貸しを、始めるんで」
「逆です」渋沢は言った。「高利貸しを、潰す場所です」
渋沢は卓に紙を広げ、一本の線を引いた。
「村には、眠った金がある。壺の底に、床下に。使われず、ただ死蔵されている金が。それを預かります。預けた人には、わずかだが利息をつける」
「金を預ければ増える、と」ボルグが眉を寄せた。「……また、信じられねえ話だ」
「合本と、同じ理屈です」渋沢は微笑んだ。「預かった金を、事業を広げたい者へ貸す。ただし高利貸しの十割ではない。一割で」
「一割」ボルグの目が細くなった。算盤を弾く目だった。「預けた者に利息を払い、借りた者から利息を取る。その差で回す……」
「そのとおり。差は薄い。ですが、金は一度貸せば返ってまた貸せる。同じ金が何度も働く」渋沢は線の先に丸をいくつも描いた。「一枚の銀貨が、村を何周もするのです」
「……だが」ボルグが算盤を止めた。「その一周目の金は、どこから出す。預金が集まるまで、貸す金がねえ」
「蔵の死蔵金と、合本商会の儲けを呼び水にします」渋沢は言った。「まず、私どもが一人を高利貸しから救う。その一人が、銀行の信用になる。信用が立てば、村の金は自分から集まってくる」
ボルグはしばらくその図を睨んでいた。それからぼそりと言った。
「……塵も積もれば、どころじゃねえ。同じ塵が、何度も積もるのか」パチ、と珠を弾く。「ひひ。あんた、悪い顔してるぜ。俺より、よっぽど」
「金貸しには、二種類あります」渋沢は静かに言った。「人から奪う金貸しと、人を育てる金貸し。同じ金でも、どう貸すかでまるで逆のものになる。——剣と、同じです」
ボルグは、ふん、と鼻を鳴らした。
「盗人に金庫を守らせて、高利貸しにまで喧嘩を売るか」渋い顔で、また算盤を弾く。「……まったく、退屈しねえお人だ」
*
だが、銀行は、すぐには動かなかった。
村人は金を預けようとしなかった。無理もない。彼らにとって金は、壺の底に隠すものだった。役人にも、盗人にも見つからぬように。それを他人に預けるなど、正気の沙汰ではなかった。
「預けて、増える?」一人の老爺が渋沢を胡散臭そうに見た。「そんな話、あるものか。預けたら最後、二度と戻らねえ。決まってる」
(また、この壁か)と渋沢は思った。
合本のときと同じだった。奪われることしか知らぬ者に、預けて増えると説いても、届かない。信じてもらうには、理屈ではなく目に見える一人が要る。
渋沢は、あの高利貸しに苦しむ男を館へ呼んだ。
「あなたの借金、八十枚。それは私どもが肩代わりいたします」渋沢は言った。「王都の金貸しには、私どもがお支払いします。あなたはこれから、私どもにお返しいただければよいのです。利息は、一割だけ」
男はぽかんとした。言葉の意味が、すぐには呑み込めない顔だった。
「……八十枚が、一割」
「毎月、無理のない額で。畑を続けながら、返せます。娘さんは、どこにも行きません」
男は肩を震わせ、声にならない声を漏らした。膝から崩れ落ちそうになった。それを渋沢は腕で支えた。
その話は、村を駆けた。あの男が、高利貸しの地獄から救われた。銀行というものは、人を食い物にするのではなく、人を助けるらしい。——ひとり、またひとりと、壺の底の金を握って、館へやってくる者が現れはじめた。
*
数日後、王都から二通目の書状が届いた。
差出人は両替商連合。今度は、丁重な挨拶ではなかった。ゼーバルトが青い顔で読み上げた。
『貴殿の営む"銀行"なるもの、我らの商いを著しく害している。速やかに金貸しを閉じられたし。さもなくば、相応の手立てを講じる』
「殿」ゼーバルトの声が震えた。「両替商連合は、王都の金融をことごとく握る連中にございます。国王陛下すら、彼らには借りがあると聞きます。手を出せば、ただでは済みませぬ」
「わかっています」渋沢は書状を置いた。
高利貸しは、両替商連合の金づるだった。人を食い物にして暴利を吸い上げる、その太い管。渋沢の銀行は、その管を村の側から断ちはじめていた。彼らが黙っているはずがなかった。
(剣も魔法もない私が、この世界でいちばん大きな敵に、手をかけた)
だが、退く気はなかった。
(あの男の涙を見た。壺の底で腐るはずだった金が、いま、人を助けはじめている。これを、どうして止められるものか)
*
渋沢は窓の外を見た。
館の前に、また村人が並んでいた。壺を抱え、床下から掘り出した金を握って。誰もが半信半疑の顔だ。それでも、並んでいた。
かつて死蔵され、腐るだけだった金。それがいま、初めて外へ出ようとしている。眠っていた金が、村じゅうで目を覚ましはじめていた。
(起こしてしまった。眠り金と——眠っていた、大きな敵を)
嵐は、もう藍畑の向こうまで来ていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
今回から、いよいよ「銀行」の話です。渋沢栄一といえば、日本で最初の銀行——第一国立銀行を作った人。数ある仕事の中でも、いちばん大きなものかもしれません。でも銀行という仕組みは、いま私たちには当たり前すぎて、どこがすごいのか見えにくい。そこで今回は、「高利貸ししかない世界」を先に見せることにしました。
借りた五十枚が、半年で八十枚になる。返しても返しても減らない。挙げ句、娘まで取られる。——これは決して大げさな話ではありません。まっとうな金貸しがない世界では、金を借りることは、そのまま身の破滅を意味しました。渋沢が銀行で本当にやりたかったのは、この「金を借りると人生が終わる」という理不尽を壊すことだったのだと思います。
「金貸しには二種類ある。人から奪う金貸しと、人を育てる金貸し」——この台詞は、以前ボルグに言った「剣は奪うにも守るにも使える」の言い換えです。渋沢にとって、剣も、算盤も、金も、みんな同じ。道具そのものに善悪はなく、どう使うかがすべて。彼はいつも、そこを見ていました。
ボルグに「あんた、悪い顔してるぜ。俺より、よっぽど」と言わせる場面は、書いていて笑ってしまいました。元・横領代官に「悪い顔」と評される主人公。この二人のやり取りは、書いていていちばん楽しいところです。
さて、眠り金が起きると同時に、眠っていた大きな敵——両替商連合も動きだしました。次話、いよいよ本格的な経済戦争が始まります。どうぞお楽しみに。
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