行き場のない手
人手が、足りなかった。
注文は増える一方だ。織り手を集めても、追いつかない。ニケは連日村を駆け回り、目の下に隈を作っていた。
「もう、限界だよ」ニケが卓に突っ伏した。「村中の女房も、年寄りも、みんな機に向かってる。それでも手が足りない。猫の手でも借りたいくらいだ」
「猫の手は、糸を切ってしまいますな」渋沢は微笑んだ。
「笑い事じゃないよ」ニケは睨んだ。「本当に、人がいないんだ」
*
渋沢は、村を歩いた。
機を織る音。糸を紡ぐ音。村はかつてない活気に満ちている。働ける者は、みな働いていた。
(だが……)
村の外れで渋沢は足を止めた。街道の脇に、うずくまる影がいくつかあった。
痩せた身なり。虚ろな目。村の活気から弾かれた者たちだった。老いた女。幼い子。そして、足を引きずる一人の男。
(まだ、働いていない人が、いる)
前の生でも、渋沢は大勢見てきた。時代の変わり目に、真っ先に弾き出される者を。働きたくても、働く場所がない。それは本人のせいでは、なかった。
*
その足を引きずる男を見て、背後のボルツが動きを止めた。
「……クルト」
男が顔を上げた。落ちくぼんだ目がボルツを認める。
「隊長……」掠れた声だった。「よして、くだせえ。今の俺は、ただの乞食だ」
ボルツの拳が握られた。
「知り合いですか」渋沢は尋ねた。
「昔の、部下だ」ボルツは低く言った。「先代の頃、北の討伐で足をやられた。もう戦えぬと……俺が、放り出した。使えぬ兵は、いらぬと」
その声が、苦い。
「俺が、この手で追い出した男だ」
あの討伐から、もう十年になる。ボルツはその名を、一度も口にしなかった。だが切り捨てた部下の顔を、忘れたことも、なかったのだろう。武骨な横顔が、石のように強張っていた。
渋沢はクルトの前にしゃがんだ。足は確かに引きずっている。だが、その手は分厚く、節くれ立っていた。長く槍を握り、荷を担いできた手だった。
「クルトさん。字は、読めますか」
「……多少は」クルトは戸惑った。「隊で荷の帳簿を、つけてたんで」
「では、荷の検めをお願いできますか」渋沢は言った。「うちは今、王都へ運ぶ反物が山とあります。数を間違えれば、大損だ。座ってできる仕事です。足は、要りません」
クルトの目が揺れた。
「……俺に、仕事を。この、足でも」
「あなたの手は、まだ働けます」
クルトは、しばらく黙っていた。それから震える手で地面をつき、立ち上がろうとした。ボルツがとっさに、その腕を取った。
武骨な二本の腕が、久しぶりに並んだ。
「働けぬ人など、おりません」渋沢は言った。「ただ、合う仕事がまだ見つかっていないだけです」
*
その日から、渋沢は村の外れを回った。
物乞いに落ちた者。行き場を失った者。前任ヴァルドの悪政が弾き出した人々。渋沢はその一人ひとりに、仕事を探した。
機に向かえぬ寡婦には、織り手たちの賄いを。走れぬ老人には、加工場の門番を。親を亡くした子には、糸巻きの運びを。
どれも小さな仕事だった。それでも、行き場のなかった手に、それは確かに配られていった。
「妙な人だね、あんたは」ニケが、賄いを配る寡婦を見ながら言った。「人手が足りないからって、乞食を雇うなんて。……普通は、しないよ」
「損には、なりません」渋沢は言った。「働きたい人がいて、働く場所がある。それを結んだだけです。——それに」
言葉を切った。
「働く場所がある人は、明日を数えられる。明日を数えられる人は、村から逃げません」
ニケはしばらく渋沢を見ていた。それから、ふっと笑った。
「……あんたの算盤は、時々、算盤じゃないみたいだ」
*
金は、相変わらず綱渡りだった。仕入れは待ってもらい、ガルムの名を借りて当座を凌いだ。だが渋沢は知っていた。これは、その場しのぎだと。根を断つには、いずれあの構想が要る。眠る金を、回す場所が。
それはもう少し先の話だった。
*
夕暮れ、渋沢は帳場を覗いた。
クルトが、指で反物の数を数えていた。一反、二反、と慎重に。その傍らにボルツが立っている。何も言わず、ただ古い部下の手元を見ていた。
やがてボルツが、ぽつりと言った。
「……すまなかったとは、言わん」
「へえ」
「言っても、足は戻らん」ボルツはそっぽを向いた。「だがこれからは——お前の数える反物を、俺が守る」
クルトの手が止まった。
それから、また動き出した。一反。二反。三反、と。今度は、はっきりと声に出して。数える声が、帳場に低く響いた。
渋沢はそっと帳場を離れた。
(金では、買えぬものだ。……居場所というのは)
クルトの数える声が、まだ聞こえていた。行き場のなかった手が、明日も反物を数える。ただそれだけのことが、この村には、長いあいだ、なかったのだ。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
事業が大きくなる話を書くとき、私はいつも「その拡大が、誰を潤すのか」を考えます。会社が儲かる。注文が増える。——だけでは、物語になりません。大事なのは、その儲けが、それまで弾かれていた人に届くかどうかだと思うのです。
今回、渋沢が雇ったのは、村の活気から零れ落ちた人たちでした。物乞いに落ちた者、足を悪くした元兵、夫を亡くした寡婦。渋沢栄一は現実でも、東京養育院という、身寄りのない人や高齢者を助ける施設を、生涯支え続けました。彼にとって経済とは、強い者がもっと強くなる仕組みではなく、弱い者にも居場所が回ってくる仕組みだったのだと思います。
ボルツとクルトの場面は、書いていて胸が詰まりました。かつて「使えぬ兵」として部下を切り捨てた男が、その同じ部下に「お前の数える反物を、俺が守る」と言う。すまなかった、とは言えない。言っても足は戻らないから。それでも、これからは守る、と。武人の不器用な詫び方が、クルトの数える声になって返ってくる——そこを書けたのが、今回いちばん嬉しかったところです。
「働く場所があるということは、明日を数えられるということ」。次話は、この小さな居場所が、村全体の景色をどう変えるのかを書きたいと思っています。どうぞお楽しみに。
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