金が、足りない
初めての配当が、村を変えた。
「合本に金を出せば、増えて返る」——その噂は、風より速く広がった。銅貨を握った村人が、次々と名簿に並ぶ。それだけではない。藍の評判を聞きつけた王都の問屋から、注文が雪崩れ込んできた。
ブルーメンタールの加工場は、朝から晩まで、藍の匂いに満ちていた。
「あんた、また注文が来たよ」
ニケが帳面を抱えて駆け込んできた。頬に藍の染みをつけ、声が弾んでいる。
「王都のギルドから、反物を千反。……千反だよ。うちの村が総出でも、ひと月じゃ織りきれない」
「嬉しい悲鳴ですな」渋沢は微笑んだ。
「悲鳴には違いないさ。嬉しいけど、目が回る」ニケは笑った。「甕も足りない、人手も足りない。でも……いい忙しさだ。飢えて暇なより、ずっといい」
*
渋沢は、拡大を決めた。
藍を売るだけでは、儲けは薄い。染めて、織って、反物にして売る。手をかけるほど、値は上がる。ならば川下まで、皆で手がければいい。
「人を、配りましょう」渋沢は言った。「ニケ。あなたは現場の頭です。村々の職人を、まとめてください」
「あたしが? 村を束ねるだけで手一杯だよ」
「あなたが藁を束ねたから、藍は折れなかった。人も、同じです」
ニケは口を尖らせたが、まんざらでもない顔で、鼻の頭を掻いた。
織りの上手い寡婦を、織り頭に。手先の器用な若者を、染め方に。ボルツの私兵の何人かは、反物を運ぶ荷の護衛へ回した。剣が、また暮らしを守る側に回る。
そして渋沢は、帳場のボルグを、会計の頭に据えた。
「元代官を、会社の金庫番に」ボルツが眉をひそめた。「正気か」
「これほどの適任は、おりません」渋沢は微笑んだ。「盗みの手口を知り尽くした者ほど、盗ませぬ帳簿を作れる。——のう、代官殿」
「……へえ」ボルグは渋い顔で算盤を弾いた。「盗人に金庫を守らせるとは、酔狂なお人だ。ひひ」
ひと月で、加工場は倍の広さになった。空き家だった納屋が、織り場に変わる。糸を紡ぐ音、機を織る音、甕を叩いて藍を寝かせる音。かつて鞭の鳴った村に、今は仕事の音が満ちていた。
その活気の裏で、渋沢は静かに算盤を弾いていた。
*
ところが、その活気に、ほどなく影が差した。
ボルグが、青い顔で帳場から出てきた。
「殿。……まずいことに、なりました」
「どうしました」
「金が、足りません」ボルグは帳面を突き出した。「注文はある。売れれば儲けも出る。帳面の上じゃ、ちゃんと儲かってるんでさ。……ですが、手元の銭が尽きかけてる」
渋沢は帳面を繰った。数字は、確かに黒い。儲けは、出ている。だが——
「仕入れが、先ですか」
「へえ」ボルグは唸った。「藍を仕入れるにも、織り手に賃金を払うにも、銭がいる。反物が売れて金が入るのは、三月も先だ。それまでの銭が、ない。おまけに——」声を落とした。「配当も、約束しちまってる」
渋沢は、しばらく黙った。
(黒字なのに、金がない。……これは、厄介だ)
帳面の上では、豊かだ。だが金は、要るところに無い。仕入れに、賃金に、配当に——金はみな、これから要る。手元には、無い。
(それに、配当を約束した)
背に、冷たいものが走った。もし次の配当が払えなければ、「増えて返る」というあの信用は、たった一度で崩れる。ヨーナスの涙も、老婆の震える手も、みな「金は回る」という一点を信じたからこそだった。その一点が折れれば、村は元の不信へ逆戻りする。
(信用は、築くのに半年。……壊れるのは、一日だ)
渋沢は窓の外を見た。村は活気に満ちている。
と、ニケが注文票を手に駆け込んできた。声が弾んでいる。
「あんた、隣の領からも話が来たよ。反物を、二千反。断る手はないよね」
「……ええ」渋沢は微笑んだ。その笑みが少し硬いのに、ニケは気づかなかった。
(注文は、取れる。それでも、それをこなす金が、ない)
喜ぶニケに、渋沢は金詰まりを言わなかった。案じさせるのは、手を打ってからでいい。まず道を見つける。
村の活気の裏で、金はあちこちに眠っていた。蔵の底に。壺の中に。使われず、動かず、ただ死蔵されている金が。
(金は、あるのだ。……ただ、眠っている)
渋沢の目が、少年のように光った。商機を見つけた時の、あの目だった。
「ボルグ」
「へえ」
「面白いことを、思いつきました」
「……また、その顔だ」ボルグが後ずさった。「碌なことにならねえ顔だ。ひひ、勘弁してくだせえ」
*
その夜、渋沢は物見台で、村の灯りを見下ろしていた。
あちこちの家に、小さな灯が点っている。その一つ一つに、暮らしがあり、蓄えがある。わずかな銭が、壺の底で眠っている。
(一軒の壺には、たいした銭はない。それでも、百軒、千軒を合わせれば)
合本と、同じだった。一人では起こせぬことを、皆で。一人の壺は空でも、皆の壺を合わせれば、大河になる。
(眠る金を預かり、要る者へ貸す。金を、回す場所を作りましょう)
それは、この世界の誰も見たことのない場所だった。銭を預ける。銭を借りる。信用で、金を動かす。——後の世が、銀行と呼ぶものだった。
背後で、足音がした。ボルツだった。
「灯りを、数えているのか」
「いいえ」渋沢は微笑んだ。「眠っている金を、数えていました」
「……相変わらず、妙なことを言う」ボルツは村を見下ろした。「だが、あんたのその妙な思いつきで村は飢えを忘れた。次は、何を起こす気だ」
「金を、貸し借りする場所を」
「金を、貸す」ボルツの眉が寄った。「それは……高利貸しの、やることだろう。人を食い物にする」
「同じ道具でも、使い方が違います」渋沢は静かに言った。「奪うために貸すか、育てるために貸すか。——剣と、同じですな」
ボルツは、しばらく黙った。それから、ふっと笑った。
「その理屈は、前にも聞いた」
「よく、覚えておいでだ」
村の灯が、風に揺れた。眠る金の、ありかのように。渋沢はその一つ一つを、目に灼きつけた。
(また、壁が見えました。……ですが、壁の向こうには、いつも道がある)
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
今回は「うれしい悲鳴」の、その先を書きました。事業が当たる。注文が来る。儲けも出る。——なのに、金が足りない。帳簿は黒いのに、手元の銭が尽きかける。これは現代でも「黒字倒産」と呼ばれる、成長する事業がまず必ずぶつかる壁です。剣も魔法もない世界で、渋沢が次にぶつかるのが「お金が回らない」という、地味だけれど本当に恐ろしい壁だというのが、書いていて面白いところでした。
そしてこの壁こそ、渋沢栄一が「銀行」を作った理由そのものでした。金は、無いのではない。あちこちの壺の底で、眠っているだけ。それを預かって、要る人へ回せば、金は生きる。実際の渋沢も、日本で最初の銀行(第一国立銀行)を作るとき、まさに同じことを考えていました。「金は集めて回してこそ、力になる」と。
ボルグを会計の頭に据える場面は、書いていて楽しかったです。盗みの手口を知り尽くした男ほど、盗ませない帳簿を作れる。渋沢の人の使い方は、いつもこの調子です。罪は罰し、才は活かす。「盗人に金庫を守らせる」——ボルグ本人がいちばん困惑しているのが、なんだか可笑しくて。
次は、拡大していく会社が、村の人々に何をもたらすのか。飢えていた者、行き場のなかった者に、居場所が配られていく話を書きたいと思っています。どうぞお楽しみに。
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