8 紡ぎなおす絆
闇の中で、声がする。
低くて、冷たくて、感情の温度を持たない声。
『無理をする必要はない、ゼフィロス』
『あの少女のそばにいれば、戦いは終わらない』
『傷つき、失い、守れなかったと後悔することになる』
『君はそれに耐えられるのか?』
言葉は、優しい形をしていた。
まるで心配しているように、諭すように。
こちらの苦しみを理解しているのだと、そう思わせるような声だった。
『君は強い。だが、強い者ほど消耗する』
『ステラといれば、君はずっと戦場に立たされる』
『だか、支配を受け入れれば、苦しみから解放される』
ゼフの周囲に、鎖がきしむ音が響く。
体に巻き付いた実体のある鎖と、
心を縛る言葉の鎖が、同時に締め上げてくる。
逃げ場など、どこにもない。
目の前には何も見えないのに、声だけは、まるで耳元で囁かれているかのようにはっきりと聞こえた。
『もう、苦しまなくていい』
『君が戦う必要もない』
『すべて、こちらに委ねればいい』
(……うるさい)
ゼフは、きつく目を閉じた。
その言葉が、まったくの嘘だとは思わなかった。
ステラと旅をする中で、危険な目に遭ったことは何度もある。
守りきれなかったものもあった。
もっと自分に力があればと、悔やんだことだってある。
これから先も、きっと同じようなことは起こるのだろう。
ステラが傷つくかもしれない。
仲間を失うかもしれない。
自分の力が及ばず、何もできない瞬間が来るかもしれない。
それでも。
『彼女は君を危険に晒す存在だ』
『君の優しさを、利用しているだけだ』
「違う」
小さく、でもはっきりと、ゼフは言った。
その言葉に反応するように、鎖がわずかに揺れる。
『彼女のそばにいれば、また傷つく』
『また守れずに後悔するぞ』
「それでも」
声に、力がこもる。
「それでも、俺は……」
言葉が途切れた。
自分の意思で選んだはずなのに、胸の奥に押し込めていた不安が、再び顔を覗かせる。
本当に、これでいいのだろうか。
自分が隣にいることで、ステラを危険に巻き込んでしまうのではないか。
もし、いつか彼女を守れなかったら。
そのとき、自分は——。
一瞬、迷いが生まれる。
その隙を逃さず、鎖が強く締め上げられた。
『そうだ。君はわかっているはずだ』
『彼女と離れれば、もう苦しむことはない』
『君は、自由になれる』
(……自由?)
ゼフは、ゆっくりと顔を上げた。
支配から解放されること。
傷つかずに済むこと。
もう、何も失わずに済むこと。
それは、自由と呼ぶことができるのだろうか。
——違う。
少なくとも、自分が望んでいるものは、そんなものじゃない。
闇の中に、ステラの姿が浮かぶ。
前を向いて、誰かのために手を伸ばし続ける、あの姿。
自分自身の記憶さえ失っていた彼女が、それでも誰かを助けようとする姿を、何度も見てきた。
無茶をするなと、何度も注意した。
もう少し自分を大切にしろと、何度思っただろう。
それでも彼女は、誰かが困っていれば手を伸ばす。
怖くないわけじゃない。
傷つかないわけでもない。
それでも、自分で選んで、前へ進んでいく。
そして、その隣にいる自分もまた、彼女に何度も救われてきた。
「ステラと一緒にいるのは、辛いことも多い」
ゼフは、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「戦いも、別れも、痛い記憶もある」
一度、言葉を切って、ゼフは息を吸う。
「でも……あいつといるから、俺は立ち上がれる」
胸の奥に、確かな温もりが戻ってくる。
「ステラがいるから、俺は俺でいられるんだ」
『感情に流されるな』
冷たい声が、再び響く。
『それは一時の感情だ。いずれ君は後悔する』
「流されてるわけじゃない」
ゼフは、顔を上げた。
目に強い光が宿る。
「俺が、自分の意志で選んでるんだ」
それは、誰かに与えられた命令ではない。
誰かに決められた道でもない。
どんな未来が待っていたとしても、自分で選び、自分の足で進んでいく。
それが、ゼフの望む生き方だった。
その瞬間、体に巻き付いた鎖が、ギリ、と音を立てて締まった。
まるで最後の抵抗をするように。
黒い術式が脈打ち、ゼフの意識を再び押さえ込もうとする。
けれど、もう目を逸らさなかった。
ゼフは、自分の中の風を感じた。
ずっと封じられていた、自分自身の力。
思うように動かせなかった風が、今、確かに胸の奥で渦巻いている。
(少し痛いけど……必要なことだ)
鎖を断ち切るには、力がいる。
支配の術に逆らうためにも、今まで押さえつけられていた力を解き放たなければならない。
そのために自身が傷つくことになったとしても、構わなかった。
次の瞬間——
ゼフは、自分の胸元に向かって、風の刃を放った。
鋭い風が、鎖だけを正確に切り裂く。
ガギンッ、と金属が断ち切られる音が響いた。
砕けた鎖が、黒い光の粒となって散っていく。
力を失った鎖が床に落ちる感覚が、確かに伝わった。
一瞬、全身を鋭い痛みが駆け抜ける。
けれど、それ以上に、体が軽くなるのを感じた。
指先に感覚がだんだん戻ってくる。
胸の奥にずっと存在していた重苦しさが、少しずつ薄れていく。
自分の意思で、風を操れる。
その当たり前のことが、今は何よりも確かな証のように思えた。
『……なぜ、そこまでして……』
アルドラの声が、わずかに揺らぐ。
先ほどまで揺るぎなかった声に、初めて困惑の色が混じっていた。
ゼフは、顔を上げる。
「決まってるだろ」
はっきりと、迷いなく。
「俺は、ステラの隣に立っていたい。
支配される道じゃなく、一緒に戦う道を自分で選ぶ」
闇の中に、風が吹き始めた。
それは、荒れ狂う嵐ではなかった。
誰かを傷つけるための風でも、命令に従うだけの風でもない。
あたたかくて、まっすぐで、帰る場所を示す風。
風は、ゼフの周囲を優しく巡りながら、残された鎖を散らしていく。
その先に——
ステラが、確かに立っていた。




