5 抗う意志
風が、荒れていた。
本当は、ゼフ自身の魔力なのに。
今は、誰かの命令をなぞるだけの刃になって、ステラへと向かっている。
風が唸る。
床を削り、柱を砕き、石片を巻き上げる。
その中心にいるのは、自分自身だった。
違う。
こんなの、俺の風じゃない。
頭の奥で、何度も同じ言葉が響く。
けれど、その声はあまりにも小さかった。
アルドラの術は重く、思考を縛り、身体を操ろうとする。
見えない鎖が意識の奥深くまで食い込み、自分の意志を押し潰していく。
動け。
斬れ。
倒せ。
命令が、脳裏に直接流し込まれてくる。
逆らおうとするたび、身体の内側を何かが締めつけた。
指先ひとつ動かすことさえ、ひどく難しい。
風を、攻撃を止めたい。
目の前の彼女に、これ以上傷を負わせたくない。
そう思っているのに、身体は命令に従おうとする。
腕が動く。
風が集まる。
刃が生まれる。
やめろ。
違う。
俺は、そんなことを望んでいない。
「……っ……」
ゼフの視界に映るのは、傷だらけでも前に立ち続けるステラだった。
頬には、風に切られた赤い線がある。
肩にも傷を負い、呼吸も乱れている。
それなのに、彼女は逃げなかった。
自分の風を受け止めながら、それでも、まっすぐにこちらを見つめている。
どうして。
どうして、逃げないんだ。
このままでは、傷つけてしまう。
次こそ、本当に取り返しのつかないことになるかもしれない。
だから、離れてくれ。
頼むから、もう近づかないでくれ。
そう願う一方で、彼女の姿から目を離すことができなかった。
「ゼフィロス……!」
その声が、胸の奥を強く叩く。
聞き慣れた声だった。
何度も、自分の名前を呼んできた声。
そのたびに、振り返ってきた。
隣にいる彼女を確かめてきた。
なのに、今は。
自分の意志で返事をすることさえ、できない。
——ゼフ。
——ゼフィロス。
頭の奥で、二つの呼び名が重なる。
いつも彼女が呼ぶ、短い名前。
そして、今の彼女が必死に呼びかけている、本当の自分の名前。
その声を聞くたびに、閉ざされていた記憶の奥で、何かが揺れた。
——契約した日。
——初めて風を預けた時。
——一緒に笑った時間。
断片的な記憶が、浮かんでは消えていく。
穏やかな風の吹く道。
仲間たちの賑やかな声。
隣を歩くステラの姿。
彼女が楽しそうに魔法を使っていたこと。
何気ない会話に、小さく笑ったこと。
危険な場面では、互いに背中を預けて戦ったこと。
どれも、特別な出来事ばかりではなかった。
けれど、そのひとつひとつが、確かに自分の中に残っていた。
失いたくないと思った時間だった。
守りたいと思った日々だった。
記憶が、ひとつずつ蘇ってくる。
「……お、れは……」
喉が震える。
声を出そうとしても、命令がそれを押し戻す。
動け。
斬れ。
倒せ。
目の前の彼女を、排除しろ。
「……っ、違う……!」
かすれた声が、わずかに漏れた。
その瞬間、風の流れが乱れる。
ステラの髪を揺らしていた風が、一瞬だけ弱まった。
けれど、すぐに黒い魔力が脈打ち、風は再び鋭さを増していく。
アルドラの術が、抵抗を押さえつけようとしていた。
それでも。
命令の奥から、ようやく自分の声が浮かび上がる。
「……お前を……傷つけるために……ここにいるんじゃ、ない……!」
風が、揺らいだ。
アルドラの術で鋭く研ぎ澄まされていたはずの刃が、ほんの一瞬、軌道を逸らす。
ステラの身体を狙っていた風が、彼女のすぐ脇を通り過ぎ、背後の壁を深く削った。
急所を、外れる。
それは偶然じゃない。
ゼフ自身の意志が、わずかに風の流れを変えた証だった。
「……戻ってきてる……」
ステラが、小さく呟く。
目の前のゼフの瞳。
虚ろだったはずのそこに、ほんの少しだけ、光が戻っている。
その光を見つけた瞬間、ステラの表情にわずかな希望が浮かんだ。
ゼフは、まだそこにいる。
自分の声が、届いている。
彼の指先が、かすかに動いた。
ほんのわずかな動き。
それでも、誰かに操られたものではない、自分自身の意志による動きだった。
アルドラが、眉をひそめる。
「……術が、緩み始めている……?」
彼はゼフの身体に刻まれた術式へと視線を向けた。
支配の魔力は、まだ十分に機能している。
身体や魔力の流れの制御は、彼の手の内にあるはずだった。
なのに、ゼフは命令に逆らった。
ほんの一瞬とはいえ、明確に。
「まさか……この状況で、意志を保っているのか」
アルドラの声に、わずかな警戒が混じる。
ゼフには、アルドラの言葉を聞く余裕はなかった。
頭の奥では、今も命令が響いている。
身体を縛る鎖も、消えてはいない。
自由には、ほど遠い。
けれど。
——縛られてる。
——でも、完全じゃない。
——俺は、まだ……俺だ。
胸の奥で、何かが静かに息を吹き返す。
押し殺されていた風が、暗闇の中で小さく渦を巻いた。
ステラの声が、まだ聞こえる。
彼女の姿が、まだ見える。
ならば。
まだ、終わっていない。
ゼフは、震える指先に力を込めた。
身体を縛る鎖は、相変わらず重い。
次にどこまで抵抗できるのかも、わからない。
それでも、目の前の彼女だけは傷つけたくなかった。
その想いだけは、誰にも奪わせない。
胸の奥で、風が、静かに、しかし確かに共鳴し始めていた。




