chapter 9
その日はすがすがしい秋晴れの日だった。百瀬はいつものように教壇に立ち、1組の生徒全員の顔を確かめる。
「出欠取るぞ-。今井ー」
「はい」
「小島ー」
「はーい」
「佐藤ー」
「はぁい」
淡々と進むルーティーン。百瀬も、生徒の方も寝ぼけていたってできる。
そんな中、とある一人の生徒の名を呼ぶとき、百瀬は少なからず緊張した。
「……式見ー」
「はい」
式見小夜の、他の少女に比べてわずかに低い声の、静かな返事。
思わず顔をちらりと見ると、少し眠そうな表情。だがこれもいつも通りだ。
百瀬は誰にも気づかれないよう小さく息を吐いて、次の生徒の名前を呼んだ。
おとといの晩、永辻は小夜に取り憑いた悪魔を祓った。
小夜は幸いなことに一命を取り留め、永辻も百瀬も多少の擦り傷、切り傷はあれど無事。校内に残っていた他の教師らにも悪魔の被害を受けた者はいなかった。
だがそこからが大わらわだった。
突然、大音量で鳴り響いたピアノで何人もの人間が動けなくなるという怪奇現象。窓ガラスが粉々に割れ、床がボロボロになった悲惨な音楽室。そこでぐったり倒れていた、帰ったはずの生徒。
一体これをどう説明したものかと百瀬は頭を抱えた。
そのあたりをうまく解決したのは永辻だった。
本来、悪魔祓いというのはエクソシストと悪魔に取り憑かれた者の二者だけで執り行われる儀式であり、他者から知られるべきものではない。永辻は悪魔祓いに付随して起こる被害や影響を隠し、取り憑かれた者を何事もなかったように元の日常に戻すということについて手慣れていた。
今回の件に関しては突風により折れた樹木が飛んできて、音楽室の窓ガラスを破って飛び込んできた、という様子を装った。そこでたまたま家を抜け出して音楽室に潜んでいた小夜が驚いて意識を失ったという筋書きである。
ピアノの音については小夜が弾いていたものが夜の静かな校舎だったため普段より大きく聞こえた、ということにされた。それで金縛りに遭った者もいたのだが、集団ヒステリーだったのだろうと、少々強引に結論づけられた。
もちろん首を捻る者もいたが、誰も悪者にならないし、大きな被害を受けた者もいない。一番平和的な解決方法だったので、違和感を感じながらも皆、受け容れることになった。
永辻の描いたストーリーが受け容れられた理由には、小夜の問題もあっただろう。
悪魔祓いが終わった直後に、小夜の母親から職員室に「娘が家に帰っていない」という電話があったらしい。
本来なら小夜が閉門後の学校に忍び込んでいたことは大問題だ。だが小夜がピアノについて母親から強いプレッシャーを与えられていたという話しは教師らに共有されていた。ストレスから学校に逃げ込んだのだろうと同情的に捉えられたのだ。
彼女の母親は娘の行動に驚き、娘とピアノに関する態度をあらためる様子を見せた。
それで教師陣には「小夜のやったことは良くはないが、結果的にはオーライ」という空気が漂うことになった。
小夜は問題の夜の翌日こそ学校を休んだが、翌々日……つまり今日には登校してきた。
百瀬は彼女のすました顔からは何も読み取れなかった。だがまずは教室に戻ってきてくれたことを喜ぶべきだろう。
「じゃあ、1時間目を始めるぞ。教科書開けー」
生徒らがガチャガチャと音を立てて筆箱を取り出したり教科書を開いたりしている。教室の外からは、封鎖された音楽室の代わりに空き教室で音楽の授業を受けている子供達の合唱の声。窓の向こうで雀達が楽しげにさえずっている。
穏やかな日だ。
日常が戻ってきたことを百瀬は実感していた。
「あの……、百瀬先生っ」
1時間目の授業の終わり。一旦、職員室に戻ろうとした百瀬を呼び止める声があった。
振り返ると小夜だった。1組の教室からは離れた、人通りの少ない廊下だった。
「式見?どうした」
「……」
百瀬が少し驚いて訊ねる。
小夜は百瀬の前まで来ると、少しの逡巡の後、
「ねぇ、あの話しってまだ有効?」
と意を決したように言った。
「どの話しだ?」
「だから、ピアノの伴奏!」
「え……っ、やってくれるのか?」
「だから、そう言ってるの!」
小夜の頬が赤らむ。恥ずかしいのか、悔しいのか、照れくさいのか。どういう感情かはわからないが、百瀬にとっては願ってもない話だ。自然に顔がほころぶ。
「もちろん有効だよ。俺にとってはすごくありがたいけど、でもどうしていきなり」
百瀬が尋ねると、小夜は考え、考えしながら話し始めた。
「あれから考えたんだけど……、私、ピアノのことは嫌いじゃないと思う」
小夜の言葉に百瀬は頷く。
彼女は「好きでピアノを弾いているんじゃない」と言いながらも、学校で時間を見つけては音楽室のピアノを触っていた。百瀬を襲ったあの時も、ピアノを巻き込んで壊すことだけは避けていたのだ。複雑な感情はあるだろうが、彼女が本当にピアノが嫌いなはずがない。
「あの時はレッスンに行くのも家で練習するのも本当に嫌で……でもあの後、お母さんに「レッスンに行かなくて良いよ。小夜の好きなようにして良いよ」って言われて、わからないなって思ったの。私がどういう風にピアノを弾きたいのか」
「それで、伴奏をしてみようと思った?」
百瀬が優しく続きを促す。
小夜は一生懸命に頷いた。
「今までと違うかたちでピアノと向き合ってみたら、少しは見えてくるんじゃないかと思って。私にとってのピアノがどういうものか。どれだけかかるかはわからないけど……でも、ヒントは見つけられるかなって」
小夜の問題はすぐには解決しないだろう。でも確かに彼女は前に進み始めた。悪魔によって弱さにつけ込まれ、がんじがらめになっていた少女が、今、自身の力で立ち上がろうとしている。
彼女が将来、ピアニストになるのかはわからない。でもきっと、以前より美しい音色を聴かせてくれることだろう。
「うん。すごく良いと思う。後で楽譜を持っていくよ。式見の伴奏、楽しみにしてる」
「わかった」
小夜は頷き、教室へ戻っていく。
百瀬もあらためて職員室へと行こうとしたそのとき、
「……先生!」
と再び声がかかった。
小夜がこちらを向いて笑っていた。担任になって以来、初めて見るはにかむような笑顔で。
「ありがと!」
百瀬は「おう」と笑い返した。




