chapter 8
「今なら見逃してやろう。おとなしく式見小夜の身体から去れ。自分から立ち退くならば、追いも痛めつけもしないと約束しよう」
エクソシズムは対象に影響を与える悪魔を退散させることを目的とする儀式だ。永辻はすぐには鞭を使わず、まずは言葉で退却を命じる。
悪魔は人間の命令をせせら笑った。
≪誰が去るものか。私は憤怒を司る者。この身体はたっぷり熟した怒りに満ち満ちている≫
永辻は冷たく少女を一瞥すると、軽いスナップで鞭を振る。パシィ、と空気が鳴った。直接攻撃するものではない、脅しのための一振りだった。
「この世に怒りなどどこにでも満ちている。その娘にこだわる必要も無いだろう。去れ」
≪去ることなどない。既にこの娘の怒りは喰らい尽くした。感情は生きる力だ。喰らい尽くせば、その心は死ぬ。喰らい尽くしたから、娘はこの身体にはもうおれぬ。ここにいるのは私だけ≫
「その身体は式見小夜のものだ。彼女に返せ。お前は立ち去れ」
今度は先程より大きく鞭を振る。小夜の前に立ち塞がる大きな手の中指の関節に鞭を打ち当てた。
横一文字に肉が避け、血がたらりとこぼれ落ちた。
少女は自身の身体が直接打たれたかのように、びくりと震えた。しかし痛みに顔を歪ませながらも、笑みを浮かべる。
≪何度も言っている。式見小夜はもういない。この身体は私。既に式見小夜は私だ。その証拠に……ほれ、ピアノはもう鳴っていないだろう?≫
永辻は一瞬、黙り込んだ。
百瀬は悪魔の言葉に息を呑んだ。
言われて初めて気がついた。音楽室に入って以来ずっと流れていたピアノソナタがいつの間にか止んでいる。
「式見……」
血の気が引いていく。
悪魔の話しが本当なら、小夜は心を喰らい尽くされて、もう魂が死んでいるということではないか。
あのピアノの音は、やはり彼女の心の叫びだった。いなくなったから、声が途絶えたのだ。
一方の永辻はすぐに心を切り替えたようだった。
「なるほど。だがお前が人間の身体に巣くっているのは見逃せない。忠告は何度もした。力尽くでお前を追い出す」
と言って、悪魔に向かって一歩踏み出す。
≪ふん……、青二才め。やれるものならやってみろ≫
小夜の顔をした悪魔が不適に笑う。
彼女を守る五本の指が蜘蛛のように蠢き出す。
「ちょっと待て、永辻。力尽くって……」
百瀬が慌てて永辻の肩を掴んだ。
「見たらわかるだろう。あの娘はもう駄目だ。完全に悪魔に乗っ取られている。もう肉体ごと悪魔を叩くしかない。モモは下がっていろ」
「もう駄目って……式見を殺すってことか?」
「式見小夜の魂は既にもう死んでいる。悪魔が肉体を動かしているだけだ。たまにいるだろう?宿主をゾンビ化させるタイプの寄生虫。あれと似たようなものだよ」
永辻のあんまりな例えに百瀬は吐き気がしてきた。
もう話しは終わりとばかりに永辻が百瀬の手を払い、今度は逆に永辻が百瀬の肩を掴んで再び後ろに下がらせようとする。
ピアノに背を預けるかたちになった百瀬は、そこではっとした。
「いや!まだ式見はいる。式見の心はここに残っている」
「おい、モモ」
百瀬は永辻の制止を無視し、彼に背を向けるようにして小夜の前に立った。
「式見!しっかりしろ。お前はどうしたいんだ。別によくわからないものに操られて暴力を振るいたいわけじゃないんだろ。本当にやりたいのは何なんだ!?」
≪無駄だ、小僧。式見小夜はもういない≫
悪魔がせせら笑う。
かまわず百瀬は続けた。
「いるだろう、式見。だってさっきお前が俺を襲って、俺がピアノの側に逃げ込んだとき、お前、ためらっただろう?ピアノを壊せなかっただろう?お前がただの悪魔なら迷わずピアノごと俺を殺したはずじゃないか」
≪やかましいぞ、こぞ……≫
悪魔の目が赤黒く憤怒に燃える。しかしそれに反して、言葉がうまく口から出てこないようだった。
「お前がピアノを弾きたいのかそうじゃないのかはわからない。だけどピアノのことは大切なんだろう?戻ってこい、式見。お前は本当はどうしたいんだ!?」
≪だ、黙≫<あたし、は…………>
小さな声。
だがそれは失われたと思っていた、もう一つの意志の声だった。
永辻が目を見開く。
<あたしは、あたしのピアノを弾きたい……>
誰かに言われて弾くのではなく。誰かが望むように弾くのではなく。自分の弾きたい曲を、自分が弾きたいように弾きたい。一番最初の楽しみを、喜びを取り戻したい。楽しいからピアノを弾くんだと、胸を張って叫びたい。
苦しみながら、邪魔されながら小夜は自分の声で紡ぐ。ぐちゃぐちゃの怒りを紐解いて、彼女が見つけた自身の真実。
<機械じゃなくて……人間として、ピアノを弾きたいの!>
音楽が、戻る。ピアノが再び鳴り響く。
≪あああああああああああああああああああああああああああああああああああああっっ≫
同時につんざくような悪魔の叫びが学校中にこだまする。
ぞっとするような不協和音。百瀬はたまらず耳を塞ぐも、こらえきれず床に這いつくばる羽目になった。
≪おのれ、おのれ、おのれ、おのれぇ…………っ≫
ぶちっ、ぶちっ、という音。小夜の背中から生えていた腕が、雑草が自ら引っこ抜かれるように、彼女の身体から這い出ていく。
「あ……っ」
完全に悪魔の手と離れた瞬間、小夜は白目を剥いてその場に倒れ込んだ。
「式見……っ」
百瀬がどうにか立ち上がって小夜に駆け寄り、抱き起こす。
息はある。意識を失っているだけだとわかり、ほっとする。
その頭上には彼女の身体を離れた悪魔の手が覆い被さるように浮いていた。五指がガクガクと痙攣しているかのように不穏に蠢いている。
≪殺してやる!私のものにならぬ身体など、めちゃくちゃに潰してやる……!≫
怨嗟の声が土砂降りのように降り注ぐ。
「モモっ」
永辻が何かを投げて寄越した。
何も考えずキャッチした百瀬は、それが彼が身につけていたはずの紫のストラであることに気がついた。
ぴんときてストラで小夜の身体を覆う。これが悪魔に対する守りになるはずだ。
「お前の相手はこちらだ……悪魔!」
永辻が鞭を大きく打ち鳴らしながら、悪魔の関心を引き寄せる。
≪死ね!死ね死ね死ね死ねぇ…………っ!!≫
悪魔は小夜という寄り坐しを失った時点で、冷静さを失っていたのだろう。手負いの獣のように一直線に永辻へと向かっていく。
永辻が叩き付けられる指を鞭で繰り返し打ち払い、徹底的に弱らせていく。
やがて腕から先のない、巨大な手のひらが床に投げ出され、びくびくと震えて動けなくなった、その時。
永辻は悪魔の前に立ち、
「イエスの御名のもとに、汝を滅ぼし、永遠に式見小夜から立ち去らせん――――!」
祈りの言葉と共に、最後の一撃を振り下ろした。
ぱん、と音を立てて悪魔の手は粉々になる。後に残った黒い塵が夜風に吹かれて消えていく。
永辻はそれを見送ると、「アーメン」と唱え、儀式を締めくくった。
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