chapter 7
もういっそ逃げだそうかとすら考えていた小夜に、百瀬は言った。
――合唱祭の伴奏をしてみないか?
――式見はピアノが上手だろ。きっと良い合唱になる。
百瀬には深い意図など無かっただろう。ただクラスに一人、ピアノが弾ける人間がいたから頼んだだけだ。
その単純な事実が余計に小夜を苦しめる。
みんなみんな、小夜のことをピアノでしか測っていない。小夜はピアノなんか大嫌いなのに。こんなつまらないピアノを弾く小夜のことが、小夜は大嫌いなのに。
<私に「ピアノを弾け」なんていう人は……みんな、消えちゃえ!!>
静止していた巨大な指が再び持ち上がる。
「く……っ」
百瀬は逃げようとするも身体は言うことを聞かず、膝から崩れ落ちた。悪魔の旋律の中、逃げ惑った体はとっくに限界だったらしい。
落下してくる指先。
襲ってくるであろう衝撃と痛みとを予期して、跪いたままぎゅっと目をつぶった。
<きゃあああ……っ>
しかしいつまで経っても指は落ちてこなかった。
代わりに背後の窓ガラスが激しく割れる音、外からつむじ風のように何かが飛び込む音、そして少女の悲鳴。
それらがほぼ同時に発生し、百瀬の鼓膜を滅多打ちにする。
おそるおそる目を開くと、目の前には黒衣の男の後ろ姿があった。
「モモ~、寂しいじゃないか。こんな状況なのに俺を呼んでくれないなんて」
首から足下までを覆う漆黒のカソック。首から提げたロザリオに、肩に掛けた紫のストラ。窓を割って入ってきたのだろう。足下には粉々に割れたガラスが撒き散らされ、吹き込む夜風が彼の亜麻色の髪をたなびかせている。
「永辻……」
百瀬が呆然として呟く。
名前を呼ばれて、永辻は首だけ振り向かせて艶然と微笑んだ。
「……仕方ないだろ、携帯電話は職員室に置いてきたんだ」
そもそもまだ県内に戻ってきてないんだったら呼んでもどうしようもないだろ、と拗ねたように言う百瀬に、永辻は溜め息を吐いた。
「前から携帯電話は肌身離さず持っているよう言ってるのに。今回はたまたま家に帰る前に様子見で学校に寄ってみたから間に合ったけど」
いつものようなやりとりをしているうちに、百瀬も少し落ち着いてきた。痛む身体を庇いながら、どうにか立ち上がる。
「それよりお前、どうやってここに……ここ3階だぞ!?」
「屋上から。コレ、で」
永辻が持ち上げて示したのは革製のしなやかな鞭だった。百瀬も何度か見たことがある。永辻が悪魔祓いで使っているのがこの鞭だ。
どうやら屋上の手すりに命綱代わりに鞭を引っかけて降りてきて、そこから勢い付けて窓を蹴破って入ってきたらしい。永辻の人並み外れた運動神経だからできる業である。
「さて。モモから聞いていた話で既に悪魔の関与はおおよそ確信していたが……、まさか取り憑いていた先がピアノではなく人間だったとはな」
永辻が小夜に向き直る。
小夜は巨大な手に守られるようにして、こちらを睨み付けていた。ずっと突然の闖入者の様子を窺っていたらしい。
今まで天井から突き出てきたように見えていた悪魔の手だったが、今ならわかる。あれは小夜の背中から生えていた。彼女の背中から飛び出した手が天井すれすれに大きく振りかぶって百瀬を襲ってきていたのだ。
≪貴様……、エクソシストか≫
小夜の声は今や、まったく別人のようになっていた。少女らしからぬ、野太く、しわがれた声。
「そう尋ねてくるってことは、お前は悪魔で間違いないようだな」
永辻が皮肉な笑みを浮かべて、胸の前に鞭を構える。
小夜もまた眉間に深い皺を寄せ、今にも獲物に襲いかかろうとする獣のような姿勢を取った。
百瀬が息を呑む。
「ここに悪魔祓いの儀式を開始する」
永辻がそう宣言すると共に、その場の空気が変わった。
悪魔の手によって閉ざされ淀んだ空間で、永辻の周辺だけが浄化されていく感覚。彼のすぐ後ろに立った百瀬は久しぶりに新鮮な空気を吸ったような気がした。




